物心ついて以降、海辺や港町で暮らし続け、いつも身近に海を感じているものにとって夏はまた格別な季節である。
何といっても一番は夏になれば暑さをしのぐため、年がら年中海で遊んでいたし、時々うっかり飲み込んでしまう海水の塩辛さといったら…
海にまつわる子供のころの強烈な思い出の一つに今でも覚えている遠泳がある。
小学校4年生か5年生だった。
当時、夏休みになると房総西線と呼ばれていたた東京湾に沿って房総半島の南端まで伸びていた鉄道に乗り、5人のいとこがいた親戚に泊まりに行っていた。
鉄道少年だったボクは蒸気機関車が引っ張る列車を選んで乗っていた。
そして鋸山のトンネルに入ると大慌てで窓を閉めないと煙とすすで車内が大変になることを知ったのも、この頃である。
そしてこの長いトンネルを抜けると、ガラッと空気の味やにおいが違っているのに、子どもながら「おぉ♪」という思いを抱き、弾んでいた心は一層弾みの度を増すのだった♪
トンネルを抜けて3つ目の駅、滝沢馬琴の里見八犬伝の故郷・富山(とみさん)のある町で、広々とした砂浜と遠浅で波静かな湾に面していて、東京の小学校の臨海学校でにぎわっていた。
臨海学校の児童たちは海の中に建てられたやぐらのような飛び込み台から飛び込んだりしてはしゃいでいたが、ボクと同い年のいとこは高校生だった長兄が借りて来た櫓漕ぎの和舟に伴走されて沖の岩場まで"遠泳"をしたものだった。
水泳スクールなどない時代だし、泳ぎなど習った覚えもない年代だが、何故かいとこたちが自然と身に付けた"のし泳ぎ"をボクも見よう見まねで身に付け、それで泳げたのだった。
のし泳ぎは疲れればぷかぷか浮いていればよく、伴走の和舟の船べりに手をかけて休んでも良かった。
とは言え、たかが子供の事だからと、大した距離を泳いだはずがないと思い込んでいた。
そして長じたある時の親戚の集まりで、遠泳の話になり、和舟を漕いで付き添ってくれた長兄から「あの時の2人はよく泳いだよなぁ~!何しろあの岩場までは浜辺から1.5kmも離れていたんだから…」といわれて「エッ!」と絶句しかけた。
「それじゃぁ、往復3kmも泳いだってこと?」と聞き返すと、「そうだよ。大したものだった」と。
こういうのを「〇〇ヘビに怖じず」っていうんだろうな。怖いもの知らず…
今じゃ、まったく自信ない。
しかし、考えてみればあの時のように"のし泳ぎ"ならどうだろうか…と、ふと思うこの頃である。
その昔…海の上を動くものは大きな貿易船であろうがちっぽけな漁船であろうが、動いているのか止まっているのか、目を凝らしてしばらく見つめていないと動きが分からないほどゆっくりしていたものだった
それが、いつのころからか眼の端に入った途端、あれよあれよと大海原を真っ白な航跡を残して通り過ぎていくようなものが現れるようになった
騒音こそ出さないが、ウインドサーファーの連中もそれこそ飛ぶが如く滑るが如く行き来する
雲が何となく乱れているような、あるいは落ち着きが無いような雲が多いのは、近づいている台風10号の影響だろうか
江ノ島・湘南港灯台