気を散らせるよけいな考え。
心を乱すさまざまの思い。
「大辞林」で『雑念』という項を引くと、こう書かれている。
毎週日曜日の朝、北鎌倉の円覚寺に出かけてほぼ2時間の坐禅をしてくるのだが、常にこの雑念に取りつかれて、そこから抜け出せたためしがない。
昨日は横田南嶺管長による「盤珪禅師語録」の提唱を聞きながら坐っている最中でさえ、管長の話から外れ、気が付くと他のことを考えたりしている。
提唱していただいているのだからそちらに神経を集中すべきであって、雑念で頭をいっぱいにするなんてことは言語道断なのだが、提唱が終わり、坐禅だけの時間になると、この雑念はさらに次から次に尽きることなく湧き上がってきてボクを悩ませる。
「帰り道には久しぶりにアノ店でアレを食って帰ろう」「家に帰ったら年賀状の準備をしなくちゃな」「あの斜め前の女性の坐る姿がなんとも妖艶で抱き付いてしまいたい」「今聞こえた鳥の主は誰だ?」…という具合にそれこそ際限がない。
およそありとあらゆる事柄が何の脈絡もなく浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。
ボクにはそもそも集中力ってものが無いんじゃないだろうかとつくづく呆れ、嫌になりかけるが、それでも毎週足を運ぶのは、ズルンとした生活を送る中で、せめてじっと坐る時間くらいあってもいいだろうし、ある日突然、霧が晴れることだってあるかもしれない…という根拠のないはかない望みを抱いているからにほかならない。
すると昨日、横田管長が実に興味深い話を口にされた。
曰く「皆さんは坐禅をしていると雑念が次から次に沸き起こって、何とかしたいと大いに苦しんでいる事でしょう」と前置きして、「雑念をなくすことはできます。でも、無理になくすこともありません。雑念は湧いて当然です。それがありのままの私たちなのだから」と言う。
ナヌッ ! という思いである。
耳を澄ませていると「雑念が湧くこと、それを何とか湧き起らないようにしたいということ、これらはすべて『私』の心の中で起きている現象です。言ってみれば自分自身の中だけでの葛藤であるわけで、他の誰彼に迷惑が及んだり、ましてや他人を傷つけるものでもない。ところが、雑念を消し去った世界に入っていくと、今度はその雑念のない境地を邪魔する存在に意識が向かうことが出て来る。つまり『俺が今こんなに集中して無の境地にいたのに、あの観光客たちはガヤガヤと大きな声でうるさい。静かにしろ! 』と敵意がそちらに向かうのです。邪魔する存在に対して敵意が生じてしまい、逆に始末に負えない」と言うのだ。
これにはびっくりした。
管長は極端で象徴的な話をされたんだと思うが、確かに雑念は自分自身の中で収斂していて、よそ様の影響も受けないし、よそ様のせいで雑念まみれになるわけではない。他人は関係ないのだ。
その雑念が消えた途端に敵意が生じ、敵意は外に向かう、他人に向かう――という恐ろしいことが出現する、という。
何やら人間世界の恐ろしい奥底をのぞいてしまったような…
なるほど、さもありなん。何となく分かる気がする。
そうだとするなら、ボクはひっそりと自分自身の雑念の世界に浸っている方がずっといいや。
これからも坐禅には足を運ぶつもりだが、雑念と仲良くしよう、何だ愛おしい存在じゃんと思えるようになってきた。
ある日、突然雑念から解き放たれることがあったとして、もし敵意が生じたら、さっさと引き返してくるようにしたい。
たぶんできると思う。
うん、絶対そうしよう。
凡人は凡人らしく生きていく。胸を張って。
雑念まみれの坐禅が楽しみになってきた。
円覚寺の紅葉もそろそろ終わりそう(黄梅院門前)
こちらのモミジの発色は今一つ(黄梅院境内)
黄梅院のスイセン
こちらと見出し写真は龍隠庵に上る入口の崖下で咲くスイセン
見出し写真の品種は少し変わっている