幸い雨は上がりかけていたから傘をさす必要はなかったが、梅雨入りを思わせる空模様で、俳句の季語にもなっている夏期講座にふさわしい天候とはとても言い難い。
800年の古都の古刹での夏期講座と言えば蝉しぐれの中で汗を拭きふき、人いきれの中で講師の話に耳を傾けるという光景が相応しいように思うのだが、初日の朝は半そでのポロシャツでは肌寒いくらいで、ボクの意気は上がらない。
形から入るというやり方もあるくらいだから、それなりの条件設定というものは必要なんである。
簡単な開講式が行われた後、般若心経、白隠禅師坐禅和讃、延命十句観音経を唱和するのだが、普段の日曜坐禅会なら集まってくる人は皆暗記したり経本を広げたりして声を出しているが、見渡すと所在なげにしている人も多くいて、夏期講座に参加する人はさまざまなのだと言うことが知れる。
普段、寺に縁のない人たちも混じっているわけで、そこがまた夏期講座の夏期講座たるゆえんなのである。
1時間目は横田南嶺管長による「無門関提唱」。
この提唱は7年前に始まったもので、今年を含めてさらに5年も続くのである。
1回ごとにそこでのテーマ設定というのがあるので通して聴く必要もなく、単発で聞いたとしても、聞く側に不都合も違和感もないだろう。
もっとも話術も学識にも秀でた管長の話は、時に経典を離れたところにまで話が及ぶから、聞いていて飽きないのである。
「無門関」という教えにはどんなことが書かれているかと言えば、昨日の第29則の一部は次のような具合である。
無門曰く、是れ風動くにあらず、是れ心動くにあらず。甚(いず)れの処にか祖師を見ん。
若(も)し者裏に向かって見得して親切ならば、方(まさ)に知らん、二僧、鉄を買って金を得、祖師、忍俊不禁、一場の漏逗なることを。
ってな具合で、説明は省くが、何か禅の教えを示していらしい、と言うことはうかがい知れるのである。これを管長が面白おかしくというか、豊富な学識によって解説してくれるのである。
高校生の時から禅に関心を抱いてきたボクにとっては聞き甲斐のある講義なんである。
またこの日は集中力が高かったのか、頭にすんなりと入ってきたのだ。たまにはこういう日もあるのだ。
2時間目は荒井仁というキリスト教牧師の話で、東日本大震災の犠牲者を鎮魂するため鎌倉の神社仏閣、キリスト教の宗教者が集まって組織された鎌倉宗教者会議の副会長さんである。
一昨年が会長の鶴岡八幡宮宮司、去年が副会長の浄土宗別格本山光明寺の法主、その3番手という訳で、やはり〝他流試合〟というか他人の土俵は勝手が違うのか、3人とも話の中身が中途半端な感じがしたのは残念である。
3時間目の詩人・谷川俊太郎さんには少し期待したが、自分の詩を朗読するだけだったので、がっかりした。
谷川氏の母親が帝王切開を選んだそうで、それゆえに「僕は暗くて狭い産道を通って生まれてこなかったことが、今でも後ろめたいんです」と言っていたのが、ふ~ん、詩人ってそんな風に考えるんだと思ったことと、娘と心中したい、という詩を書いた時のことを振り返って、心中を踏みとどまることが出来たのは、娘が自分を信じ切っていること、信じているからいつも僕を大声で呼ぶ…という理由を挙げていたのが心に止まった程度である。
「娘が自分のことを信じ切っている」という感覚はボクも感じたことで、今でも姫を始め孫たちにも感じる気持ちなんである。
そのことをこの詩人も感じていたというのは、少しほっとしたのだ。
円覚寺境内の龍隠庵への階段際には今年もイワタバコの花が…
昼過ぎに講座が終わり外に出てみると梅雨空は消えていて、真夏のような空が…
最新の画像もっと見る
最近の「随筆」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事