暮の忙しくせわしない頃になると、なぜか雑踏の中に身を置いてざわつく街の空気を吸いたいと思う。
別に必要な買い物があるわけでなし、用事なんて何もないのだが、とにかく人がうごめき押し合いへし合いするような喧噪そのものが懐かしくなる。
幸いにわが町のターミナル駅周辺には狭い通りの両側にデパートよりも幅広い商品を扱うさまざまな店がぎっしり軒を並べるところがあって、終日にぎわっている。
そんな中、魚屋の前を通りかかれば店の親爺や店員が張り上げる大声を聞いていれば顔を上げて店先をのぞかなくったって今日は何がお買い得で何が売れ筋かが分かるというものだ。
八百屋の前を通っても然り。
にぎやかで威勢の良い魚屋と八百屋の双璧以外にだって、普段は静かな店先からも何となく人を呼び込む声が漏れてくる。
用もないのにこういう場所に身を置きながらそぞろ歩き、耳をそばだてているだけで心が落ち着く気がするのだから不思議と言えば不思議である。
しかし、今年ばかりは、そういう雰囲気の中に身を置くなんてことは、とてもできない相談なのがつくづく寂しい。
夕方少し前の雑踏に身を置きつつ、まだ灯の灯っていない赤提灯を脇目に立ち飲み屋ののれんをかき分けると、これが意外に込み合っているカウンターにちょっとたじろくが、スペースを見つけて人と人の間に身体を差し挟み、焼酎のお湯割りで身体を温める。
おでんのダイコンなどをハフハフしながら食べる時の満ち足りた気分…♪
銀座の高級クラブ(行ったことないけど)のような所に行くと1本数万円もするとかいうシャンパンやらワインのボトルの栓が端からポンポン開いていくなんてところとは無縁だが、こっちにゃぁ立ち飲みの赤提灯やイスとテーブルのある焼き鳥屋だってあるからちっとも羨ましくなんかない。
しかし、最近はどこか物足りないと思っていたら、ここ数年、この時期の街に流れるジングルベルがハタと止んでしまっていることだ。
別にジングルベルが好きってわけではないが、パブロフの犬と一緒で条件反射的に「暮れの町=ジングルベルの大きな音」というのが高度経済成長の入り口で育ち、成長曲線ピークの頃には若かりし労働力としてその成長の一翼を担ったものとしては身体にしみ込んでいる分、ちょっぴり寂しい気もするのである。
しかし、その街の喧騒もまた「密」ゆえに忌避しなければならぬ。
遠ざけられた心の落ち着きどころは一体どこに見つけりゃいいのさ。
つるバラのせん定と誘引作業4日目の昨日は風がそよとも吹かず、真っ青な空からは、夏の太陽には比べるべくもない弱い光りながら、たっぷりの陽光に包まれたおかげで大いにはかどり、予定していた7本のうち残り3本を一気に終わらせることができた。
今日も暖かそうな予報が出ているから、せん定済みの株に肥料をたっぷりくべてやれば、一応来年の準備は完了する。
馬糞堆肥もネットで取り寄せたし。
残りは年が明け、寒に入ったら木立性の直植えの株と鉢植えのバラをせん定して寒肥をやればいい。
今年のバラは長梅雨とその後の尋常ならざる暑さにすっかり体力を奪われ、無農薬で育てていることもあって黒点病なども出て散々だった。
おまけに一季咲きのはずの「伽羅奢」や「ローゼンドルフシュパリースホープ」が秋にも咲き出すという、初めての珍事にも出くわした。
「伽羅奢」などはせっかく咲いている花を摘みながらのせん定になってしまった。
おそらくは相当の体力を使い、疲労困憊していることだろう。
この冬の間中、しっかりと養生してもらいたい…そういう思いを込めてせん定をしたつもりだ。
来年の初夏を楽しみにしている ♪
(見出し写真は近所の池のある公園の冬枯れの佇まい)