平方録

「日本国」を終わらせてなるものか

歴史社会学者の小熊英二が某全国紙の論壇時評に「右派の改憲 今なぜ『反体制』なのか」という一文を寄稿していた。

かいつまんで紹介すると以下の通りである。
「戦後×年」という言葉が使われているのはなぜか。それは「『日本国』建国×年」の代用である。
中華人民共和国、インド共和国、ドイツ連邦共和国、イタリア共和国など、現在の国家には第2次大戦後に建国されたものが多い。
これらの国々では体制変更から数えて「建国×年」を記念する。
日本でも「大日本帝国」が滅んで「日本国」が建国されたと言えるほどの体制変更があった。だが、その体制変更から数えて「『日本国』建国×年」と呼ぶことを政府はしなかった。
しかし「建国」に相当するほどの体制変更があったことは疑えない。
それなのにその時代区分を表す言葉がない。そのために「建国×年」に代えて「戦後×年」というようになった。だから戦後何年経っても「日本国」が続く限り「戦後」と呼ばれるのだ。
では、どうなったら「戦後」が終わるのか。

それは「日本国」が終わる時だ。
戦後憲法体制は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を3大特徴としている。それを変えるほどの体制変更があれば、体制としての「日本国」は終わり、「戦後」も終わる。
例えば天皇主権、言論・出版の制限、平和主義の放棄などを改憲によって国家原則にすれば、「日本国」と「戦後」は終わるだろう。

それでは、敗戦後の「保守」「革新」の対立は何だったのか。それは新しく建国された「日本国」を認めるか否かの対立だった。
第2次大戦後に大きな体制変更を経験した独仏伊などでは体制をめぐるイデオロギー対立が生まれた。
日本にも当てはまるが、日本が複雑なのは戦後体制を認めない「反体制」の主勢力が共産党ではなく、それ以上に強力だったのが右派だった。
靖国神社へのA級戦犯合祀はその「反体制」表明の代表例である。しかし、70年代までに「反体制」の機運は収まる。それは自民党が改憲を棚上げしたからだ。
自民党が国内外で安定した支持を得ることが出来たのは「反体制」の側面を封印したからである。

しかし今になって、時計の針を逆戻りさせるような「体制をめぐるイデオロギー対立」が復活している。かつて「戦後レジームからの脱却」を唱えた首相が改憲を提言したことによってだ。
だが今の日本には喫緊の課題が山積されている。700万人に及ぶ「買い物難民」、先進国最低レベルの住宅保障政策、過労死に象徴される「働き方」の改革、外国人労働者の人権、幼児教育の無償化――

他の先進国では、体制をめぐる対立が解消した70年代以降、こうした社会問題への対策が行われた。若年層の政治参加も進んだ。
ところが日本ではいまだに旧来の対立が尾を引いている。最大の原因は右からの「反体制」が根強いことだ。しかし国民の大多数は改憲の必要など感じていない。
政治が社会から取り残されているというべきだ。若年層の政治的無関心の一因も、ここにあるだろう。

体制変更は、体制内の法律改正では対処できない問題を解決するには必要かもしれない。だが、それ以外の体制変更は時間と政治的資源の浪費だ。そのような「改憲」には反対である。「日本国」の未来のために、もっとやるべきことが他にあるはずだ。

以上、かいつまんだつもりが少し長くなった。

言われてみれば、確かに「右派」の人々が「反体制派」だというのは良く理解でき、納得できる。
ボクはかつて大学に通っていたころから反体制に身を置いてきたつもりだったが、それは「日本国」を守る側に身を置いていることだったのだ。右派の連中と向き合っていたという訳だったのだ。そういうことだったんだ!
出版や言論の自由を謳歌し、基本的人権を保障され、戦争のない平和な暮らしを続けられることに感謝できるのは「日本国」のおかげなのである。
それを保障する憲法を書き換えて「日本国」を終わらせてしまうなんて、とんでもないことである。





わが家で実ったジューンベリー。一度果実酒にしてみたがおいしくなかった。ヨーグルトに加えると甘みと少しの酸味がちょうどよい。ジャムもアリ、だった。


ブルーベリーは鉢植えなので少量しか獲れず、こちらもヨーグルトの友である


わが家のバラの思い出。今年は良く咲いてくれた。
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