今月もあと5日…と言うより、「今年も…」の方が相応しいか。
毎日朝からよく晴れて、弱いとはいえ冬の太陽の光が降り注ぎ、ガラス窓の内側で新聞など広げていると暑いくらいで誠に心地よい。
つるバラのせん定・誘引、施肥も年内の庭仕事は順調に終了、山の神から課せられたガラス磨きも滞りなく片づけ、昨日は車の洗車までしてしまった。
今朝、東京や東京より南にお住いの方が「今日もよく晴れて空気はカラカラ、でも、風は冷たく、昨日より寒く感じました」とか「出先からの帰りは足の骨を貫通していくような風に震え上がり…」などとブログの中で昨日の天候を表現されているの拝見して、「ん? 風が吹いていたのか? そんなに寒かったか? 」といささか驚いた。
わが家も東京より南の海辺の町だが、車を洗う気になるくらいだから、もちろん風は無く、寒さだって身にしむほどではなかったのだから…
そもそも、洗車を終えるとベランダにお気に入りの椅子を出し、日向ぼっこしながら本を読んだくらいだ。
それくらいポカポカといい具合だったのに…
冷たい風が吹き抜けるエリアと風の吹かないエリアの境はどの辺りにあったんだろう?
パソコンのすぐ前に卓上カレンダーを置いている。
北鎌倉・円覚寺の横田南嶺管長の揮毫とひと月分のカレンダーがセットになった簡素なものである。
今月の揮毫は「冬嶺秀孤松」。
字面を追うだけで、なんとなく意味は分かる気がするが、ネットで検索してみるとすぐに出て来た。
京都の黄檗宗のお寺・宝善院が開設している「日日是好日」によると、「冬嶺(とうれい)孤松(こしょう)秀(ひい)ず」と読み下すんだそうな。
「冬の嶺のほとんどの樹木が葉を落としている中、独り青々と葉を残す松が際立つことを表した禅語です。松を仏教の教えとし、どんなものにも煩わされないことを説いたものです。これは、人の生き方にも当てはまります。人の心を苦しめる煩悩のもとである誘惑であったり、ふつふつと沸いてくる欲望の中でも、流されることなく凛と立つ様ともとらえることができます。この禅語は中国の詩人・陶淵明の『四季の詩』からくるものです」と解説されていた。
「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし…」はフーテンの寅さんお得意の啖呵売のセリフだが、ボクにとって「孤松」は屋根屋のふんどしみたいなもの。
孤松ってかっこいいのかもしれないが、ボクはふつふつと沸いてくる欲望にずぶずぶと浸りたいし、さまざまな誘惑にもからめとられたい…
「人は生まれながらに仏の心を持って生まれてくる(しかし、そのことに気付く人は少ない)」と言うのが臨済宗の教え。
つまり、(気付いている人は少ないが)人は生まれながらに仏様なのであって、「まみれ」の姿そのものが仏の姿でもあるんじゃないか?
んっ!? 修行が足らない?