ベッドから転がり出て歯を磨き終えたところだった。
ベランダとの境のガラスの折り戸を全開にして家の内と外の空気を入れ替えようと、お気に入りの椅子に身を投げ出していた時のことだった。
どんより垂れこめた低い空のどこからかカナカナカナ…という澄んだセミの鳴き声が聞こえてきて、思わず腰が浮きかけた。
空耳ではないかと疑ったのだ。
実は前日も早朝に折り戸を開くと、どこからかかすかにカナカナカナという鳴き声が聞こえたような気がした。
その時は残念ながら鳴き声も1度きりでやっぱり空耳だったかと渋々、自分を納得させていた。
そんなことがあったので、今朝も空耳を疑ったのだが、間欠泉が立ち上るように2度、3度と比較的近くの森から、あるいは遠くの山すその方から聞こえてくるのを確認してやっと確信したのだった。
間違いない、ヒグラシの鳴き声で、日の出の時刻に一斉に鳴き始めるヒグラシのセミしぐれなのだと。
真夏になれば、朝の静寂の底から聞こえてくる、寄せては返す波の音のように大きくなったり遠ざかるように小さくなっていくカナカナの大合唱こそ、夏が夏であることの確かな証明であって、あのセミしぐれを聞くと「あぁ、今日も一日好天に恵まれそうだな。暑くなるな ♪ 」と気持ちにスイッチが入るとでもいうのだろうか、前向きになり、背筋が伸びる感じにもなるのである。
そんなわけで、ヒグラシの鳴き声を聞くこと自体は嬉しいのだが、何となく底抜けに喜べない気分が残っているのも事実。
というのも、やっぱりヒグラシが鳴く時は太陽が照っていなくてはならないし、温度も上昇する兆しがなければいけない。
いくら早朝と言っても暑さを予感させる涼しさの中でこそ、ヒグラシの鳴き声は一種の郷愁と日本人ならほとんどの人が理解できる「もののあわれ」を感じさせることができるというものなのだ。
どんより垂れこめた雲の下の、薄暗くしかも湿った空気の中で聞くものじゃない。
ヒグラシに似合うのは乾いた空気と明るい太陽の光りなのだ。
昨日は午後3時過ぎあたりだったか、30分間ぐらい、猛烈な雷雨に見舞われた。
雷は今シーズン初めてで、頭のてっぺん付近でガラガラズッシャァ~ンともガラガラビッシャァ~ンとも聞こえる金属的な音を響かせる雷鳴の大音響を聞いて思わず首をすくめるほどだった。
あれはきっと近くに落ちたぜ。クワバラクワバラだ。
例年ならこういう梅雨末期の雷雨こそ、梅雨明け間近を知らせる合図なのだが、たぶん今年はそういうことではなく、梅雨もまだしばらくは明けないんじゃないかと思う。
このボクの予想が簡単に外れ、直ぐにギラギラの烈日が照り付ける本格的な夏がやって来るのなら、その方がずっといい。
水瓶のダム湖にもったっぷりの水が溜まっているし、もう雨も風もうんざりだ。
第一、手に入れたばかりの新しい自転車に乗れるのはいつのことになるのさ。
手元に届くまで丸ひと月待ったし、この上、いつまで待ちぼうけを食わせれば気が済むってんだ。
昨日の続きが今日で、今日の続きが明日だなんて、そういう規則的な継続性も消えかけてんじゃないの ?
大きな節目、これまでとは全く違う転換点に差し掛かっているのかしらん。
それもこれも全部、ヒト=ホモサピエンスの無節操で勝手なふるまいのせいだろ。
見出し写真は今朝4:25 思いがけず、この空の下からヒグラシのセミしぐれが聞こえてきた
こちらの画像は5:03
昨日も相模湾は荒れて波立っていた(国道134号七里ヶ浜付近の車中から)