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平方録

棒が何であるかはともかく…

2020年の元旦は普段通り午前4時に起きた。
外の様子を伺いにパジャマのままベランダに出て見ると、星の瞬きは見えず、身震いするくらいに寒い。

大晦日に報道されたカルロス・ゴーンの国外逃亡のニュースにはびっくりさせられたが、こういう時に真っ先に思うのは「あぁ、今ごろ新聞記者の諸君は寒風など感じる暇も無いくらいに取材に駆けずり回っているんだろうなぁ」という、一種の羨ましさである。
これで多くの記者諸君の年に1度の特別な団らんの機会が吹き飛ばされた。
こういう時、休みを台無しにされたことに対する恨み言は口にしても、それは一種の照れ隠しみたいなもので、本心は野に放たれた猟犬のように獲物を追って勇躍として大地を駆けずり回ることになる。
退屈な日々を好まない連中にとっては起きた日が日だけに、不謹慎ではあるが願っても無い展開だろう。
それが職業柄であり、性であるのだ。

実は、こんな書き出しで始めるつもりではなく、例年のように一応年頭所感のようなものでも書き連ねておくかと歯を磨き顔を洗いながら考えていたのだ。
しかし、それも画竜点睛を欠く類のように思え、こんな書き出しになってしまった。

その年頭所感だが、向こう1年間の決意を披歴したり、ましてや夢を語ったりする気はさらさらない。
第一、そんな目標やら希望やらを胸に抱く年でもないだろうし、そもそも照れ臭い。
「何だあいつは、そんな程度の抱負しか持ってないのか。スケール小っちぇなぁ~」と笑われるのがオチだ。
笑われれること自体は身から出た錆として甘んじて受け入れるとしても、馬齢を重ねてきた身としては「かしこまって」何かを述べるというのも取ってつけたようで面映ゆいものなのだ。

屁理屈をこねさせてもらえば、「年が明けたぞ。さぁ新たな気持ちで出発だ」みたいな思考自体がボクのポリシーには合わない。
何故かって、「以上オシマイ」「これで水に流してきれいさっぱり忘れよう」などと言う姑息極まりない考えが見え隠れするじゃないの。
こういう生き方を得意技にしている連中が良く目立つところに巣くっているのが目障りでならない。
ニッポン人の得意技かもしれないけれど、そんなの到底受け入れられるものじゃない。

こういうボクの気分を代弁してくれるのが高浜虚子のあの句…「去年今年貫く棒の如きもの」だ。
「棒」が何であるのか、何を指しているのかは、それぞれの立場で違うだろうが、ともかく、何かが1本、芯棒のようなものがボクたちには通っているらしい。
まぁ、たまさかかどうか、以前はあったのかもしれないが、今のボクの棒には節目というものが見当たらないのだ。
擦り減ってしまったのかもしれない。

そんなわけだから、昨日の続きが今日で、今日の続きが明日…という至極当然の連鎖の中で365分の1をことさら強調する意味を認めないというだけの話なのだ。
世間ではそれをヘソ曲がりと呼ぶこともあるようだが、そう呼びたいやつがいるのであれば呼ばせておけばいい。
ボクには何も気にならない。














姫たちを連れて新江ノ島水族館に行く
気温20度 ! 大晦日の水族館は子供連れを中心に素晴らしく混みあっていた
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