思い立ったきっかけは余りに青空がきれいで4月の明るい陽光がキラキラと輝いていたのと、この空気と光に頭のてっぺんから足の先までさらして心の底まで染まりたいと思ったからだ。
冬が過ぎ去って、最初の内は大目に見ていた雑草の数々もサクラのあらかたが散ってしまった今、許せないほどに育ち、庭を覆いつくそうとしている。
いっそ雑草庵にしてしまえ! と思えるほど人間はデキテいないし、となれば1本1本丹念に引っこ抜いていくしかない。
正直言ってボクは草取りが嫌いではない。庭にはいつくばって雑草を引っこ抜いていると時間の経つのを忘れる。
なぁ~んにも考えなくてもいいし、自分さえその気になれば取るに足らないようなこととか、クヨクヨしがちなことなどにも思い至らずに済む。カッコ良く言えば雑念が消えるのである。
で、時が過ぎてみれば雑草が消えて庭がきれいになっているって寸法なのだ。
まるで魔法を使ったようではないか。
しかも労働市場から撤退する時に、まだそこに残る連中がボクの日常を思いやってくれて園芸用の「膝当て」をせん別だと言ってプレゼントしてくれたのである。
これが実は優れモノで、これをつけて草取りに出ると両膝を地面につくことが出来るお陰で四つん這いの姿勢をとることが可能になるのだ。
それまではいわゆるウンチ座りのような窮屈な格好で草を抜くか、小さな車輪が4個ついた箱状の物体に坐って草を取っていたのだが、ウンチ座りでは膝は痛くなるし足はしびれるわで論外だし、箱状の物体だって腰を折り曲げなくてはならず、長時間やるには窮屈なのだ。
それが四つん這いでする草取りというものを体験してみると、腰が伸びるから楽チンだし顔が地面に近づくんですナ。
地面に顔を近づけて草を抜くというのは、土の匂いはよく嗅げるし、地面から這い出て来たり地面をうろついている小さな命たちとの距離も縮まるわけで、画家の熊谷守一にでもなった様な気分にもなれて楽しいのだ。
であるがゆえにボクは叫ぶのである。四つん這いを可能にした膝当ては草取りのコロンブスの卵である! と。
ボクは坐禅に興味を持っているから「無心」とか「没我」とか、禅の世界で様々に語られる「無」の世界に少しでも近づきたい、味わいたいと思って来し方坐ってきているのだが、肝心の坐禅の世界では雑念にまみれっ放しなのに、事草取りに没頭し始めると頭の中がすっかり空っぽになって何も考えていない自分に気付くことがしばしばあるのだ。
円覚寺の日曜説教で年に1度話を聞かせてもらっていた伊豆・修善院の和尚が去年亡くなったが、この和尚の趣味が草取りだったそうで、暇さえあれば何時間でも草を引っこ抜いていたんだそうである。
それ、実は僕にも分かるような気がするのだ。
地面に顔を近づけて草を引っこ抜く作業だけに没頭していると、頭の中が空っぽになるということは既にボクでも体験済みである。
「無」と「空っぽ」の違いがどれほどのものかボクは知らないが、そんなことはどうだっていいのであって、何かに没入しきって一心不乱にする行為に関しては「動」であっても「静」であっても本質は違わないんじゃないか、と思うのだ。
だったら草取りってのは坐禅の修行をしているようなものかもしれないな、と修善院の和尚の顔を思い浮かべてみたりするのである。

2キロ続く坂道を自転車で漕ぎに行くと、道端に植えられた紅白3本の八重桜が満開になっていた

近所の道端の小高いところに置かれた石造りの祠が若草に囲まれて、なにやら様になっている

薄い緑色の花が満開になったクレマチスの「ピクシー」。開花は早いし、つるは短く花も小さい。異端のクレマチスである