横田南嶺管長の声がいつになく張り切っているように聞こえ、話に力が入ったのも盛況ぶりと無縁ではないだろう。
「無門関」提唱、第三十二則。「外道問仏」。
すべてを掲げるわけにもいかないので、例によってその一部を例示する。
頌に曰く、
剣刃上に行き、氷稜上に走る。
階梯に渉らず、懸崖に手を撒(さつ)す。
無常の世の中で自分だけ変わらないでほしいと願うのであれば、その小さな我をつかんでいる手を一度放して見よ、という。
小さな枠や形を外してみると別の世界が開ける――つまり仏教でいうところの涅槃寂静の世界がひろがるだろう、ということを言っているそうである。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を「三法印」といい、これに一切皆苦を加えたのを「四法印」という。涅槃寂静は「悟りが絶対の静けさである」ということを示す釈迦の教えであるそうな。
自我をつかんでいる手を放してみることで、別の世界が開けるのだということを言っている。
しかし、自我をむんずとつかんでいる手を離すというのは、簡単そうでなかなか出来そうにないことのように思える。
特に凡人であるボクの場合は難しそうで、涅槃寂静とは相当の距離がありそうである。
2時間目は元NHKアナウンサーの村上信夫さん。
アナウンサーでは最高位のエグゼクティブアナウンサーだったそうだが、記憶にない人だった。
人の発する言葉には武器言葉と楽器言葉があって、「バカ」「ブス」「クソババア」「最低!」など、人を傷つけかねない言葉が武器言葉で、これは使わないようにしなければいけないという。
代わりに「ありがとう」「おはよう」「おかげさまで」「「よかったね」「大丈夫」など、面と向かって言われれば悪い気がしない、心地よい言葉を楽器言葉というんだそうな。
ボクなんか間違いの許されない仕事柄、若い人に向かってしょっちゅう「バカもん!」と口にして喝を入れていたものだが、時と場合、状況の違いというものもあるからね。
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」ばかりじゃぁどうにも締まらない気がするのだ。厳しい仕事をする上で緊張感を高めるということも大事だったんである。
4日間のアンカーは2015年のノーベル生理学・医学賞受賞者のご存じ大村智先生。
受賞以来様々な講演依頼をこなしてきたんだろう、「私の歩んできた道」という題目でノーベル賞受賞までの歩みをパワーポイントを使って話したが、とても話慣れているなぁと感じたのもムベなるかなである。
受賞が決まった後新聞やテレビでずいぶんとエピソードが紹介され、微生物が人類を救うんだということを教えられた。
その大村先生が発見した微生物由来の薬が西アフリカの風土病撲滅まであと一歩のところまで来ているそうである。
大成功を収めた人の立志伝に纏わる話というものはそれだけで十分に痛快なのだが、やはり所々にきらりと光る目線を持っているようで興味深く感じるとともに、関心もさせられた。
わけても「へぇ~」「ほぉ~」と感心したのが「研究を経営する」という考え方。
「経営を研究する」といえば、経営学を学ぶ人間にとって至極当たり前の話で違和感も何もない。
しかし言葉を入れ替えただけで、ライフワークの微生物の研究のいったい何を経営するというか、ちょっとちんぷんかんぷんである。
人類に役立つ微生物がどこに存在するかは、膨大な時間と検証作業を必要とするそうで、その間を支える研究費をどこから調達してくるかが成否の分かれ目でもあるらしいのだ。
大村先生自身、拠点にしていた大学から部屋を明け渡すよう迫られ、アメリカ留学時代に付き合っていた学者仲間の力を借りつつ、アメリカの製薬会社と交渉して年間2000万円を超える資金援助を得ることでようやく、研究を継続することが出来たそうである。
このことを指して「経営する」という言葉を使っているようだが、なるほどと納得させられる。
ある種の才覚をも持ち合わせていたという訳である。
ただ黙々と霞を食いつつ研究に没頭するだけではノーベル賞には届かないんである。
先立つものは研究費なのだ。最近とみに増えている防衛予算を削ってこうした研究費に充てるのがボクは一番いいと思うんである。どこかの大統領の向こうを張るまでもなく「ヒューマン・ファースト」ってでかいよなぁ。
そういう政権が現れないかねぇ。
大村先生は話に熱が入って予定時間を10分余りも超過するサービスぶりだった。
わが家のニュードーンもそろそろ終わりに近づいている
もう少し成熟するとるり色に色づくルリタマアザミ
ゴーヤの小さな実がついた。今夏のトップバッターである
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