夜明け前の空は雲が低く垂れこめているが東の空にはほのかに白み始めの兆しが表れ始めた。あと20分もすれば日が昇る時刻だ。
雨が降った後だからか空気はひんやりしていて、それでも春のものに違いはないのだろうが、あまり仲良くしたいとは思わない。
この時期、春分のころに比べると日の出時間で37分も早く、日の入りだって22分も遅くなった。
それに伴って昼間の時間はほぼ1時間も延びて13時間を超えてきているから、嬉しくなってしまう。まだまだ伸びるのだ。
ボクは毎日4時起きだから、まだ今の時期こそ暗闇の中を起き出しているが、それも間もなく終止符が打たれ、夏至のころには太陽と一緒に起き出すようになる。
ヒトは太古の昔から太陽とともに目覚め、食べ物を探して活動を始めるのだ。
ボクの身体の奥底にはその頃のDNAが今でもはっきり残っていて、日の出が萌し始めると身体の隅々までが目覚めるのである。そうした感覚というものが、遠い先祖との間の忘れかけてしまっている悠久の時間を思い起こさせてくれるかのようで、とても好ましく感じられるのだ。
これからの季節はさらに一層、遠い先祖との距離が縮まる季節に入ってゆくことになる。
でもその前に季節はまだ春——
暗く寒い冬が過ぎ去った後にようやくめぐって来る春。その春を最も味わい深く感じられる時間帯というものがあるとすれば、それはどの時間帯なのか。
あまたの文学作品を飾ってきたあのどこか艶めかしい春の宵なのか、それとも枕草子のいう「春はあけぼの」なのか……
「春夜」(しゅんや) 蘇東坡
春宵一刻値千金 しゅんしょういっこくあたいせんきん
花有清香月有陰 はなにせいこうありつきにかげあり
花管樓台声細細 かかんろうだいこえさいさい
鞦韆院落夜沈沈 しゅうせんいんらくよるちんちん
春の宵はひと時が千金に値するほどで、花には清らかな香りが漂い月はおぼろに霞んでいる…と蘇東坡は賛美するのだ。中学か高校の教科書に必ずこの漢詩が載っている。
かたや――
「春暁」(しゅんぎょう) 日柳燕石
花気満山濃似霧 かきやまにみちてこまやかなることきりににたり
嬌鶯幾囀不知処 きょうおういくてんところをしらず
吾樓一刻値千金 わがろういっこくあたいせんきん
不在春宵在春曙 しゅんしょうにあらずしてしゅんしょにあり
燕石の作品は蘇東坡の「春夜」を踏まえて、夜もいいが私のこの家の周りは何と言っても朝に限る―と明け方を賛美している。
まぁ、ボク的に言わせてもらえば春の宵は素晴らしく、わざわざ祇園を歩くまでも無く行き交う人は「みな美しき」だし、ほろ酔いできれいな人と2人で肩を並べて歩いたりすればどんなに有頂天な気分に浸れることか。
春の宵の空気そのものが何となく生暖かくて心の縛りを解くようだし、それとはまた別に艶めかしさが漂うのだ。
でも燕石の言うことも良ぉ~っく分かる。咲き出した花のひとひらひとひらや、芽吹き始めたばかりの柔らかな葉が斜めから一直線に力強く射しかけて来る朝の光に照らされるとき、その一瞬の輝きというものは生命力に満ち溢れていて感動的ですらある。
とどのつまりは「春ならなんだって好き! 」っていうことになってしまうのだ。
あぁ~、グダグダ書いてきて、何というまだるっこさだろう! ん? それが春?
近所の公園の午後4時過ぎの光景。この時間帯だって悪くない。佐保姫は決してとがらず、突っ張りもしないでそこにいる
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