音を立てて降っている。
辺りはまだ寝静まっていて、雨はその静寂を破っているのだが、他の物音は聞こえず、煙るような空気の中に街灯がぼぅ~っと霞んで見える。
こういう雨が冬眠中の虫たちを起こし、植物の眠りを覚ますのである。
ヒトも氷雨のころとは明らかに違う空気に触れると、何となく心が平常ではいられなくなる。
本能的な解放感ともいえるもので、確かにこれを待ち望んでいたのである。
姫とは1日中外で遊びまくり、夕ご飯を一緒に食べたあとはトランプをして、「もう一回だけ」を何度か繰り返した揚句、家路に着いた。
次に会えるのは3週間後。春休みに鎌倉へやってくるのだ。
大きなジャングルジムに長~い長い滑り台などが組み合わさった、幼児や小学校低学年向けの遊具がそろっている広い公園での出来事。
姫が同じ年ごろのような女の子と戻ってきた。
聞くと「一緒に遊ぼう」と言われたんだとか。
その子は積極的で、あれで遊ぼう、とか、今度はこれをやろう、とか、姫にあれこれ注文をつける。
お父さんと来たといっていたが、本ばかり読んでいて遊んでくれないらしい。
しばらくは1人遊びをしていたのだろうが、やはり物足りなくて、たまたま活発に走りまわっている姫を見つけて声をかけてきたのだろう。
なかなか積極的な子である。
もしかしたらいつもそうやって寂しさを紛らわしている子なのかもしれない。
鬼ごっこやかくれんぼをするというので、鬼になって一緒に遊んだが、姫は心底楽しそうではないのだ。
急に「ゴーカートに乗りに行こう」というので、もっと一緒に遊べばいいのに、と促すと「あの子と遊びたくない」と小声で言う。
そうか、最初から何となく浮かない顔をしていたのはそのためか。
ならばはっきり断れば良いのだが、まだそういう世渡りの術は知らないのである。
正直で生真面目だがちょっと引っ込み思案で気弱なとこがあり、やさしい性格なので、なかなか思った通りには振舞えないのだろう。
その子に「ゴーカートに乗りに行ってくるからまたね」と言ったら、「私もお父さんと乗ろ~っと」と恨めしそうな顔をした。
ゴーカートは行列ができていて、しばらく待たされたが、その子は乗りに来なかったし、コースを一周して戻ってみると、公園から姿が消えていた。
世の中にはそれこそたくさんの子どもたちがいて、それぞれ保護者のもとで育っているのだが、その境涯や実際の環境はさまざまである。
話題になっている「子どもの貧困」などというものの一端を新聞などで読むにつけ、尋常ではないなと思うのだが、作り話の世界のことではなく現実の話であると聞けば、一体いつからそんな国になってしまったのかと、唖然とするばかりである。考え込まされてしまう。
成長過程で子どもたちは、楽しさや嬉しさを心に積み重ね、あるいは、さまざまな障害に出会って悲しく辛い思いもし、あちこち頭をぶつけてタンコブを作りながら、それでも痛さをこらえて育っていくものである。
めげずに元気よく育っていけるのは、貧富の差はあれ、両親やら身近な人たちが見守って上げているからなに他ならない。
3度の食事すらままならないというような、簡単そうで、ごく当たり前のように見えることすら当たり前ではない子どもたちが増えているという一時をもって、偉そうに「憲法を改正して独自のものを作るんだ。次の選挙のテーマはそこだ」などとうそぶいている大人たちには、その資格がないことが歴然としている。
子供は国づくりの基本中の基本である。その基本になる子どもへの配慮を欠いた国に、どんな未来があるというのか。
貧しさから息も絶え絶えの子どもを生み出すこと自体、日本にとって恥ずべきことなのである。
姫のところからの帰路、深夜の東京タワーは滲んでいた
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