海辺の自転車道を走っていると携帯電話が鳴った。
画面に表示された番号には見覚えが無かったが、わざわざ自転車を止めたので誰からだろうと思いつつ、そのまま出てみた。
「〇〇さんの電話でしょうか」と丁寧である。
名乗られた名前にはかすかな記憶があり、「一度お目にかかっています」と言われて大都市の消防局に勤務していた彼の佇まいを思い出した。
高校のサッカー部の後輩のK君からで、ボクより7、8年後輩である。
彼らは1973年1月に大阪で開催された全国高等学校サッカー選手権大会に神奈川・山梨代表として初出場を果たしている。
「先輩、ボクらが全国大会に出場してから来年が50年になるんです。それで、当時のメンバーを中心に出場50周年を祝いたくて集まりを持つことにしたんです」
「あの時、先輩が記事を書いてくれて、今でも大事にとってあります。ぜひ参加してもらえませんか」と言う。
そうか…あれからもう50年も経ったのか…
たぶん11月だったんじゃないかと思う。
当時は一県一校ではなく、ブロックごとに代表が選ばれていて、神奈川は山梨と組み合わされていた。
両県の優勝校が代表の座をかけて代表決定戦を行うのである。
あの時は甲府の試合会場まで、サッカー部の仲間4、5人と応援に出かけたのだった。
山梨を勝ち抜いたのは「山梨に韮崎あり」と名を馳せていた韮崎高校。
W杯の1次リーグでドイツやスペインと対戦した日本と同じで、最初は誰も勝てる相手とは思っていなかったし、実際応援に向かったボクらでさえ「負けたっていいじゃないか。よくここまでコマを進めたものだ。最期を見届けたやろう」という気持ちだった。
しかし、勝負というものはやってみなければわからない。
当時の高校生は前後半40分づつの80分だったが、それでは決着がつかず、延長戦に突入する…
しかし、それでも決着はつかず、再延長が行われ、韮崎の選手が疲労のために足をつらせて走れなくなる中、後輩たちは元気に走りまくり遂に決勝点をもぎ取って大番狂わせを演じたのだった。
慌てたのは新聞社である。
下馬評が下馬評で歯が立つわけがないと思っていたこと、秋たけなわの時期でスポーツの大事な試合がいくつも同時開催されていたことなどから、山梨まで記者を派遣する余裕がなかったのである。
併せて地元テレビ局が試合を中継するとあって、テレビを見ながら記事を書くことになっていた。
しかし、延長、再延長の熱戦で、さすがにテレビ中継は結末を見ることなく打ち切られてしまったのだった。
頭を抱えた運動部長が思い出したのが、「そうだ○〇が応援に行くと言っていたな」。
当時は携帯電話なんか持っていないし、どうやって連絡が付いたのか覚えていないが、「君が書け!」と言うことになった。
当時、ボクはまだ内勤で記事を書いたことなど一度も無く、まして運動部志望でもなかったから、これにはいささかたじろかされた。
しかし、現場にいて一部始終を目撃していたのはボクだけであり、ボクの目の前で劇的な勝利が決まったのだ。
血が騒ぐというのはこういうことだろう。
全身が熱くなり、すぐにその気になった。
運動部長の指示は「甲府駅前の山梨日日新聞社まで行け。そのビルに共同通信社の甲府支局がある。FAXを借りる手はずを整えておくから、そこから原稿を送信するように」だった。
ガッテンだ!と勇み込んで競技場を出たのはいいが、周りで行われていた様々なスポーツイベントの終了時間とも重なり、町の中心部につながる道路は帰宅する人たちの車で大渋滞が起きていた。
少し前に出たはずのバスは満員の乗客を乗せたままピクリとも動かない。
困り果てたボクは甲府駅前まで道を尋ね尋ね走ったんだと思う。
つるべ落としの秋の陽が沈みかけたころ、ようやく甲府駅前にたどり着き、共同通信社の原稿用紙を借りて見て来たことを書きなぐり、とにもかくにも送ったのだった。
翌日、紙面を見るとボクが書いた記事は骨格も残らないほどズタズタに直されていた。
ただし何人かの選手にちゃんとインタビューして勝利の談話まで取って送稿したのは、そのまま使われ、「指示もしていないのによく気がついた」と翌日、運動部長から褒められ、昼飯をごちそうになった。
ボクの記者活動は社会や政治・行政の世界の出来事を追うとことに終始したので、運動記事を書いたのはこの時が最初で最後である。
思ってもみなかった後輩たちの勝利、それを突如報じることになった巡り合わせ…etc
あれから50年なんだ…
「喜んで参加させてもらうよ」
記念の会合は来年1月に開かれる♪
昨日もよく果ててポカポカとしたいい天気になった
辻堂東海岸辺り
ダンディーな富士山には珍しく「トラ刈り」姿?!
16:44 夏至の太陽よりもっと北寄りから登った満月