感じたのは、もう7年も経っているのにまだこんな程度か、という思いだった。
峠道を下って開けた場所に差し掛かったなというような場所では、決まって更地のまま建物がほとんど立っていない広大な空間が広がっている。
震災以前にはびっしりと家並が続いていたと言われても、へぇ~と思うだけ。
あれからもう7年も経っているのに…
震災直後の新聞・テレビで見たがれきの山の惨状から、がれきだけをどかしただけ、そんな風にしか見えない。
その先、つまり津波が押し寄せてきた海の方を見れば、どこでも決まって高さが10メートル近い巨大な堤防が視線を遮る。
堤防のすぐ下を通ると見上げる壁の威圧感からまるで鍋の底に放り込まれたよな居心地の悪さを覚える。
しかも三陸一帯は風光明媚な海岸線として知られてきたところだ。そんな美しい光景を自ら閉ざしてしまった。
三陸鉄道北リアス線の久慈駅から列車に乗りしばらく走ると車窓にこんな光景が飛び込んできた=岩手県野田村
比較対象物がないので高さはピンとこないが、列車内から見てもかなりの高さなのが分かる
こういう堤防には決まってこのような水門が設けられている
この写真では堤防の手前にプレハブの作業員小屋が写っているので、堤防の高さ、巨大さが推測できる
田野畑村で泊ったホテルは海際に建っていて3階まで津波に洗われたという
写っている家々にはかろうじて津波が届かなかった
宮古市田老では更地の中にぽつんと建物が
たろう観光ホテルが「津波遺構」として往時のまま保存されている
道の駅の地図にも示されている
町全体? が見渡す限りの更地に。ここでも巨大な堤防工事が進む=岩手県山田町
釜石市に出来上がったばかりのW杯ラグビー用の鵜住居復興スタジアムのバックスタンドから見える景色は、まだごらんのとおり
陸前高田の「1本松」は残っていた。ここでも堤防工事。そして足元はまだ更地のまま。随所で地盤のかさ上げ工事が続いている
7年も経っているのにまだかさ上げ工事の段階では町が元の姿を取り戻すまでに、あとどれだけかかるのか。2020年のオリンピックの次の東京オリンピックまで続くのではないか?
橋か何かの工事のようだ
廃墟のまま残されている陸前高田市立気仙中学校の旧校舎
南三陸さんさん商店街の誕生は比較的早く、マスコミでも随分取り上げられた。一つの希望の星、一筋の光明ではある
その裏手の八幡川を挟んだ対岸には防災庁舎が残され、やはり地盤の底上げ工事が続いている
この南三陸町はかなり広い平地が広がっていたらしく、それが見渡す限り更地のままになっている光景には驚くばかりだ
そして何と言っても切ないのは石巻市の大川小学校の児童が津波の犠牲になったこと…
旧校舎の前に作られた祭壇には今も花が絶えず
校名を掲げた門塀の下には賽の河原のように小石が積み上げられている
半円形に教室が並び、その手前には図書室やら何やら共通スペースが置かれていたような円形の建物が配置された斬新な設計の校舎だったことが偲ばれる
きっと児童たちにも自慢の学校だったに違いない
校舎の右手には体育館。そして裏山というか、すぐ脇に山が隣接している
体育館に続く渡り廊下のコンクリート製の柱がなぎ倒されていた
校舎が建っている場所は海岸からかなり離れているが、校舎のすぐ脇を広い川幅を持つ北上川が流れていて、津波はこの川を遡って学校を襲った
体育館のすぐ脇に山のすそが迫っている
位置関係はこんな具合だ
右手斜面の中ほどに白い看板が見えるのが津波の到達地点を示している
体育館のすぐ脇からこのような細いが、なだらかな道が山の奥に延びている
坂道は緩やかに続いている
この道の先で児童たちがシイタケ栽培をしていて、世話をする児童たちがこの小道を上り下りしていた。もちろん学校公認で…
震災発生翌日のテレビニュースがこの小学校の大勢の児童が津波に飲まれて犠牲になったものの、「児童4人と先生1人が裏山に逃げて助かった」と報じた。
その時、裏山と聞いて険しい山腹を想像して、命からがら傷だらけになって必死によじ登ったんだろうという印象を持ったのだが、現場を見て、あぁこれなら体力のない1年生だって簡単に登れる。そうだとすれば、なぜ大川小の児童たちはこの道をたどって山懐に逃げなかったのだろうか…
地震発生から51分経った15:37に津波が学校を襲っている。児童たちが避難するため学校の敷地を出たのがその1分前。先頭の児童が校門を150メートル出たばかりの地点だったそうだ。
助かった児童4人は出発に遅れたため先生1人が急げと声をかけるうち、津波の襲来に気づいた先生のとっさの判断で裏山に逃げ込んで助かったのだ。
このニュースは1回限りで(多分)電波から消えた。次から次へと深刻な事態が出現していたのだから、新たな被害状況を伝えるのが先決で当然と言えば当然だが、若干の違和感を抱き続けてきたのも確かだ。
その違和感が何だったのかということが、今回現地を訪れてみてわかった気がする。
はっきり言えば、裏山でなくて川の方角に避難を始めたというのは、限りなく学校側のミスリードに近いのだ。
74人の児童と10人の教師の命は失われずに済んだ方法が身近にあったと思うと、先生の指示に従うほかなかった児童たちが哀れでならない。どうしようもなく切ない。
こういう教訓はどのようにして語り継がれ、活かされるのだろうか。
そこが肝心で、死者を鞭打つことになるとかということとは次元の違う話で、この事実を教訓に残してこそ犠牲者も浮かばれるというもので、そこを注目している。
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ひろ
heihoroku
高麗の犬
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