「こんなことじゃ恥ずかしくって、とてもお天道さまの下を歩くことはできない」
「こんなことをしたらご先祖様に合わせる顔がない」
かつてボクが知る日本人の大多数はそういう考えを身にまとって世の中に出、人との付き合いや仕事などをする上での最低限、且つ根本的な行動規範のように大切にしてきたものだった。
長い武家政権の時代を経て庶民の間にも染み渡った「恥の文化」「武士道精神」とも言うべきこの考え方は、ようやく寺子屋に通い始めた庶民の子どもにだって何となく染み渡るほどのコモンセンスとして近代社会が幕開けした明治以降もづっと日本人の心の中に生き続けてきたものだった。
「日本人の心」とも置き換えられる「恥」に対する神経質なくらいの対応ぶりはまさに武士道精神そのものとして現代にも伝えられてきたはずだった。
それを一顧だにすることなく、恥も外聞も打ち捨ててしまったかのように嘘をつき通し、平気な顔をしてきた指導者とその共犯を担った番頭が今、あぶりだされつつある。
アベなんちゃら…
病気を理由に世間から姿をくらませようとしたが、そうは問屋が卸さない。
例の「桜を観る会」疑惑でこれまで国会で説明してきたことが真っ赤なウソだったという新たな証拠が出てきた。
それでもたぶん、秘書の不始末のせいにして本人は「知らなかった」と逃げ切るのだろう。
泣く子も黙る「鬼の特捜」はもはや存在しないということを見透かしてもいるはずだ。
ぼくちゃんは無罪放免。これで一件落着。あとはガースちゃんが失敗をやらかして、またぼくちゃんに再々登板の声がかかるはずだから、かえって今は絶妙なタイミングだね、今のうちに身辺のドブさらいをしておかなくっちゃとニタニタしているはずだ。
恥を恥として受け止められない人間、武士道精神を理解できない人間が存在することは理解できないではない。
しかし、リーダーの座に就いていた人物がその程度の人間だったという点と、本人が再々登板の意思を隠そうとしないようになってきている厚顔ぶりという点はどう受け止めたらいいのか。
この場合の「恥」の捉え方として「恥の上塗り」などと言っても、そもそも恥を感じないのだから蛙の面にショウベンで、ひょっとするとアベなんちゃらはショウベンを顔にかけられて「甘露甘露」と舌なめずりする人種だったと思うしかない。
加えて、仮に再々登板が実現したとしたら、日本国民の大多数がショウベンを掛けられ「甘露甘露」と嬉しがる国民だったんだと…
いくら何でもおぞましすぎる。
(見出し写真は午後3時前の湘南海岸 夜来から続いていた雨が昼過ぎに止み、ちょっと陽が射したので5日ぶりに自転車を漕いだ。やや薄着で出てしまったらしく北風が強くて冷たくて…。それでも帰り道に繁華街に寄って気付け薬と年末ジャンボ宝くじを買って帰った)