散歩帰りの道すがら、普段は無人の野菜スタンドに珍しく売り手が待機していて八百屋の店先のように豊富な野菜を並べていた。
売られている野菜の数々は地元はもちろん、東京や横浜の名だたるフレンチやイタリアンのレストランが使いたがる、いわゆるブランド物の「鎌倉野菜」である。
山の神はここで新鮮なほうれん草を買ったが、ボクはその野菜に混じってお米が売られているのに目が留まった。
2㎏と3㎏に分けられた紙袋に精米された白米が詰まっている。
品名が書かれた小さな札には「〇〇産のお米」とわが住所地の地名が書かれているのにちょっとびっくりする。
何だか、わが住所地がまるであのコシヒカリの名産地と名高い新潟の魚沼といきなり肩を並べたような、こそばゆいような気持ちになるやら、一方では眉に唾したくなる気分である。
育てた米の種類は「キヌヒカリ」だという。
確かに住宅街の外れに5、6枚の田んぼが残っていて、脇の道路は小中学生の通学路になっている。
もちろん大人たちだって通勤や買い物などによく使う道沿いだから、田植えから稲刈りまでの一部始終は何となく目にしていて、ボクなどは田植えの光景が始まると「おお、始まったか」と好ましく思ったり、台風の襲来予報が出たりすると成長して頭を垂れている稲穂がなぎ倒されて水に浸かったりしやしないだろうなと、他人事ながら心配したりもする。
今から30数年も前、まだわが娘が小学生の頃には田んぼにホタルが生息していて、深夜酔っぱらって千鳥足で帰って来ると稲穂の葉陰で小さく瞬く淡い青白い光に吸い寄せられたものだ。
源氏の里ではあるが、ヘイケボタルがたくさん生息していた。
当時はタバコを吸っていて、箱を覆っていたセロファンを外してそこに捕まえた蛍を数匹入れて虫かご代わりにし、寝ている娘たちを起こして「蛍の光で勉強しろ」などと、とんでもないことを言って顰蹙を買ったりもした。
その田んぼで出来たお米はてっきり自家消費用だと思っていた。
売り手の老婦人に聞くと「そうなんですよ。こうして売るのは初めてなんです」という。
米の出来に自信を持ったのか、それとも出来過ぎて消費しきれないと思ったのか…
その辺のところは、寡黙なご婦人で説明してくれなかったが、こちらとしては「ここで出会ったのが百年目」という気分で、やや高めの1100円ナリを払って2㎏の紙袋を手に入れた。
横目ではあっても毎日のように成長を見守ってきた地元で獲れた米とやらを、一度は食してみたいではないか ♪
早速夕飯に土鍋で炊いてもらった。
山形の友人からいただく「つや姫」や魚沼に親せきがいるという知人が毎年届けてくれる「南魚沼産コシヒカリ」などと言う超一流ブランド米の味を知っている舌が満足したかというと、それは別の話。
土鍋で炊いたほっかほかのお米のおいしさ、しかも地元でボクと同じ空気を吸って成長したお米というものを十分に堪能できたことは、これまた得難い経験であって、「地産地消」という言葉を改めて噛みしめたひと時ではありました。
ボクんちと同じ住所を名乗るキヌヒカリ 今月19日に精米された
2㎏の紙袋を腕に抱え、わが家に戻る途中の田んぼではアオサギが餌をあさっていた
去年6月初旬の田植え時期 学校帰りの小学生が写っている
よくぞ瑞穂の国に生まれけり
早苗を撫でながら渡って来る風の心地よさ
唯一の近代兵器
昔ながらの天日干し
マルコポーロもビックリ 黄金色に輝くジパング
脇の道路を行き来するたびに干した稲のかぐわしい香りを胸一杯に吸い込む