「慶派」というのは平安時代末期以降、康慶に始まる仏師の一系統のことだそうである。
康慶という人物は、東大寺南大門の仁王像の作者として名高い運慶の父親にして師匠で、運慶や快慶といった「慶」のつく名前の仏師たちに因んだ呼称である。
そもそもは奈良で活躍した集団で、興福寺を拠点に平安時代の都の賑わい、風俗・習慣を映した、いわゆる「都ぶり」の仏像を彫っていた。
それが時代を経て鎌倉に武家政権が打ち立てられると、鎌倉の仏像は長谷大仏や円応寺の閻魔大王、初江王坐像にみられるごとく中国・宋元美術の影響を受けた力強く重厚な作風のものに代わってゆく。
いわば貴族文化と武家文化の違いのように、そこには一線が画されることになるのだが、やはり過渡期と言われる部分も今に残されていて、では鎌倉に残るその平安時代以来の「都ぶり」を示す優美な仏というものをクローズアップしてみましょう、というのが今回の企画展なのだそうである。
集合してくれた「都ぶり」を示すミホトケは十数体で、頼朝の妻の政子の菩提寺である寿福寺に伝わる薬師如来坐像などは小さいながらもうっとりするくらい優美で、ボクはしばしこの像の前でしゃがみ込み、下からお顔を覗き込んだまま離れがたかったほどである。
人と人の間に相性というものがあるごとく、畏れながら仏像との間にも相性というものがあるらしいことが、今回よく分かった。
また何度でも会いにゆきたいが、寿福寺は非公開なので、これが一期一会なのだろうと思う。
メーンは大町の教恩寺と秦野の金剛寺の「阿弥陀如来及び両脇侍像」である。
教恩寺の中尊の阿弥陀如来像は運慶の兄弟弟子とされる快慶の作品に酷似していて、快慶が生涯で数多く制作した「安阿弥陀様(あんあみださま)」と称される様式で、単純な着衣形式や張りの強い面貌は快慶の阿弥陀像の中でも早期の特徴を示しているんだそうな。
また、両脇侍像は少し膝を曲げ、やや腰をかがめた格好で彫られていて、前から見ても特徴的なのだが、横から見ると体の線が優雅に屈曲していて、ことのほか目を引くのである。
この三尊形式というのは快慶によって完成されたと考えられているそうで、特別展の主催者はこの三尊の作者を快慶であると強く示唆しているのである。
教恩寺の住職は妻の習字の先生の先生で、いわば妻にとっては大先生に当たるので、随分と熱心に見入っていて、やはり両脇侍の腰つきの優美さに感心しきりだった。
一方の金剛寺の阿弥陀三尊のうち、両脇侍像には肥後定慶という仏師の作品に通じる装飾的な髪形やしなやかな肢体の表現が見て取れるほか、極端ななで肩や細身の体躯、首や腰をひねり片膝をややかがめた立ち姿が見て取れ、教恩寺の両脇侍の特徴に相通じるところもあって、異なる特徴を持った肥後定慶と快慶の個性を兼ね備えた仏師による興味深い作品であると、主催者は強調するのである。
こう見てくると、確かに表題どおり「優美なる慶派」というのも誇張ではなく、武家社会を反映した鎌倉の地域的特徴が色濃く表れる前の「都ぶり」の作風をうかがわせているのがよく分かった。
そこに鎌倉の仏像の原点が垣間見えている、と言うことのようである。
それにしても、両方の阿弥陀如来の両脇に侍る4体の像の身体的特徴は目を引くもので、両脇侍の存在によって三尊像全体がとても生き生きとして見え、一種のリズムを作り出しているのには大いに感心させられた。
良いものを見たものである。
世の中「へぇ~」「ほぅ~」ばっかりで、いくつになっても勉強なのだ。
つるバラのトップを切って「バレリーナ」が開花した
バレリーナと一緒に絡ませているクレマチスの「アフロディーテ・エレガフミナ」も開いた
ポストに絡ませてしまったのだ
「サルビア・ネモローサ・カラドンナ」も咲き出した(手前の濃い紫のピンボケ)
特別展の展示物は撮影禁止なのだ
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