一九九九年の児童ポルノ法施行以来、僕は「お菓子系」とすっかり距離を置いていたが、十八歳以下のモデルがまたぞろ誌面を賑わせているのを嗅ぎつけると、セルビデオ店での「クリーム」の立ち読みが欠かせなくなった。その中で、二〇〇二年から〇三年にかけて三作品の写真集を発表した福愛美は、磯山さやかに替わって僕の股間を幾度となく熱くさせてくれたオナペットの一人だ。
当時の「お菓子系」はまだ着エロを指向せず、体操服とスクール水着、布面積の広いビキニというクラシカルな演出でも、読者を十分楽しませていた。スクール水着が学校という限定的で閉鎖的な空間でしか見られず、すでに学校社会とは疎遠になった僕の性的想像力を働かせるうえで、福のグラビアはこの上ない素材だった。福は胸が大きいわけでもなく、そこら辺にいそうな女子高校生の佇まいだったが、マイナー志向の僕はそんな少女が水着姿になってくれるだけで性欲の発散を捗らせた。
ほとんどの「お菓子系」モデルが写真集を発表しても、一作品かぎりでその後の芸能活動が尻切れトンボで終わってしまう中、福は三作品も発表するほど人気が高かった。一作目の「MANAMIX‐少女≦大人」は、安価な綴じ方を採用しているせいか、重しなどの力を加えないと見開きができず、またそれを繰り返すにつれてページの糊が剝がれて一部が本体から分離してしまい、使い飽きても古書店に出せず処分してしまった。
二作目の「ふくがきた。」は、会社から出先に向かう書店(神保町の書泉ブックタワーだったか)で購入し、ビジネスバッグにそれを忍ばせたまま出先で何食わぬ顔で仕事をこなし、直帰してすぐに自慰に勤しんだ記憶がある。三作目の「愛美とドコマデモ」と合わせた自慰の回数は磯山を大きく上回り、僕の二十代後半の性欲発散における重要人物の一人だったことに間違いない。
三作目の発表以降、福のグラビア活動は写真集からDVDへと軸足を移すが、僕の自慰方法は枕の隆起と隆起の間にオナホールを挟んで腰を振り射精に導くというワンパターンだったので、ベッド以外での自慰(手淫)という選択肢はなかった。また、〇二年から〇三年にかけては福以外にも僕の股間を熱くさせてくれる良質の素材が揃っていたため、わざわざ彼女の映像作品を買おうとは思わなかった。
福は少年誌のオーディションで準グランプリを獲得し、芸能プロダクションにも所属していたので、大半の「お菓子系」モデルと違って十八歳以降も芸能活動を続けていたようだが、特に目立った業績もなく、幼馴染み(とされる)沢尻エリカに大きく水をあけられてしまった。直近の肩書きは「セラピスト&美容サロン副代表」と、芸能界に片足を突っ込んだだけの女性が辿り着く典型的なパターンだ。沢尻のような演技力と芸能界での処世術が備わっていれば、福も彼女に近づけたのかもしれないが、僕を含めて偏った性癖を持つ男性の性的対象から脱しきれなかった。しかし、それは「お菓子系」モデルのほとんどがそうであったのだから、写真集を三作品も出せた分、十代後半の福は輝いていたし、僕も堪能させてもらった。何せ十五、六歳の少女がスクール水着姿のグラビアを発表するのは、今日ではもう絶対に不可能なのだから。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます