グラビアアイドルというサブカテゴリーを確立させたのは、一九八八年にイエローキャブを設立した野田義治なのは言うまでもないが、その黎明期に人気を博した堀江しのぶやかとうれいこ、細川ふみえらを、僕はこれまで一度も自慰用素材に用いたことがない。彼女たちが僕よりも年上で、すでに大人の女性として完成された佇まいに性的な感情移入ができなかったからだ。
当時の愛読誌が「すッぴん」で、確か僕が高校生の時に買った号にも細川のグラビアが掲載されていたはずだが、それを用いることなく、まだ洗練されていない無名の少女の水着姿でひたすら下半身を慰めた。野田が売り出すグラビアアイドルはデビュー時からすでにメジャータレントの風格が漂っていて、僕の性的嗜好にかなったのは素人っぽさがまだ残っていた山田まりやと滝ありさぐらいだ。
九〇年代後半になると、自分よりも年下の少女がデビューし、漫画誌や男性誌で水着姿を披露するようになると、僕は作品や記事の中身よりも、グラビアのモデルが自慰用素材にかなうかどうかで購入を判断した。「週刊ヤングマガジン」で巻頭を飾った遊井亮子は、悪く言えば可も不可もないどこにでもいそうな普通の少女だったが、そんな彼女がビキニを着てぎこちなくポージングするのが何ともたまらなく、長きにわたって掲載号を保管していた覚えがある。
遊井は九五年にキー局のアイドルユニットの一人に選ばれ、水着の仕事に軸足を置くと思ったが、写真集を発表することなく女優への道を歩んでいった。僕は女優としての遊井に一切興味を持たず、何年か経って準キー局制作の帯ドラマながらも主役に抜擢されたことを知ったときも、それを録画して彼女の演技を見ようとも思わなかった。遊井は今でもコンスタントにドラマに出演するほど中堅女優として広く知られている。
九〇年代は〇〇年代以降と違って、グラビアアイドルの粗製乱造が顕著ではなかった。マイナーな人材は「すッぴん」や「お菓子系」雑誌の域に留まり、そこからメジャーへの階段を駆け上がっていくのはほんのごく一部にかぎられた。写真集やイメージビデオといった商業作品も、メジャーの仲間入りを果たしたタレントにのみ発表の機会が与えられ、過度な露出や演出を抑えた控えめな仕上がりだったが、それでも十分自慰用素材となり得た。
遊井はグラビアアイドルとしてメジャーの域に達していたにもかかわらず、女優へのオファーが早かったせいか、写真集を出さずに水着の仕事から足を洗った。僕も遊井に対する性的興味が薄れ、「お菓子系」雑誌に登場する無名の少女のスクール水着姿の虜になった。ちょうど九五年から九六年にかけてで、僕の自慰用素材がマイナー志向に傾倒していく分水嶺だった。
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