僕の歴代オナペットは、基本的に十五歳から十八歳までの高校生世代で、先に触れた磯山さやかや佐藤寛子のような巨乳美女系と、小倉優子や福愛美のような美少女系に大別される。美少女系といっても、多少なりとも胸の立体感が強調されなければ素材になり得ないわけで、今思うと小倉に対して日課のように自慰に勤しみ、一作目の写真集「恋しくて優しくて」を一年以上保有し続けていたのか不思議でならない。
小倉に対する性的興味がなくなっても、僕は美少女系を求め続けていた。二〇〇三年の末から〇四年初めの自慰を捗らせたのが、秋山莉奈の写真集「ゆっくり愛して」だ。僕はそれ以前に秋山の写真集を用いたことがあるが、少女臭さがぷんぷん漂う構成にあまり乗り気でなく、すぐに古書店に買い取ってもらった。しかし、彩文館出版から上梓された三作目は、いやらしい目つきで正面を見つめる秋山の白ビキニ姿と胸の立体感が窺える表紙に、僕は手に取るとすぐにレジに向かった。
写真集を開いてみると、当時まだ十八歳ゆえに露出度が高くなかったが、何よりも表紙の秋山のとろんとした表情と「ゆっくり愛して」という扇情的なタイトルに、僕の股間はみるみるうちに硬くなり、〇四年の年頭を飾るオナペットとして独り身の正月を楽しませてもらった。その後、ほかの素材に気乗りしてそれを古書店に売ってしまったが、表紙の表情が忘れられなくて再び買ったことも記憶に残っている。同じ写真集を二回買うのは、これが初めてだった。
秋山が「オシリーナ」の愛称でグラビア界を席巻するのはその数年後で、当時はまだマイナーの域に留まっていた。僕が十八歳以上の素材を用いるのはまれなので、秋山がメディアでもてはやされた頃は、すでに別の素材を探していたし、彼女のグラビアへの興味は失せていた。かつて散々お世話になったオナペットが大物になっていくのに何の感情も抱かないのは、僕とその素材との関係性は写真集という二次元空間でしかなく、しかも僕の一方的な性欲の発散にすぎない。「お世話になった」というものの、その素材の熱狂的なファンではない。
だから、ソフマップなどで開かれるイベントに集まる人々のようにはなれないし、オナペットに実際に会えて感動する彼らの価値観を否定する気もない。僕個人の見解としては、実際に会ったところで自身に対する劣等感と嫌悪感がさらに増幅するのではないだろうか。しかも、その素材は絶対的ではなく、出版社は同年代のグラビアアイドルを次々と供給してくる。粗製乱造のシステムに乗っかかる形で、素材をとっかえひっかえしてファンとしての感情を持たないほうが得策なのだと、当時の僕は無意識にそう判断した。
結局、僕のアイドルとしての定義は、歌唱力や演技力、トークスキルに長けているかどうかではなく、オナペットとなり得る魅力的な外見と肢体を持っているかどうかに集約される。だから、親衛隊を組織した先輩たちのように特定の素材に対して熱狂的になれないし、「推しメン」などとファン同士で明るく盛り上がることもない。自分さえ楽しめればいい、素材に性欲以外の感情を抱いてはならないのがオナニストの流儀だと思う。
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