さて、先だっての十月に一時帰国を終えて、こちらグァテマラはアンティグアに戻ってきたナカタ。一週間ほどして落ち着いた十一月の十日くらいか。一枚の招待状を電子メールでもらった。それは、かつてナカタがサン・カルロス大学で講義を受け持った大学院生からのものだった。
*
アメリカ合衆国中部のシカゴ大学。ここの人類学部で、二〇世紀を通じて米国人類学界を牽引してきた人類学者がいる。名前をソル・タックスという。
米国現代人類学の二〇世紀を通じた成長は、おおくをこの「グァテマラ先住民社会」という畑を実験農場としてきた。とりわけ二〇世紀の後半からもちろん私たちの現在にいたって、米国での人類学を専攻するかくも多くの学生や研究者が、このグァテマラ先住民村落でフィールドワークを展開してきた。その発端となったのがこのタックスが音頭を取る調査団によって、一九三〇年代後半にグァテマラで展開した人類学的調査である。
そしてナカタの今度の拙著において、このタックスは「助演男優」を演じる。
タックスの学生にヒンシャウという人がいた。シカゴ大学人類学部でタックスに学んだ後、彼もまたグァテマラ先住民の研究を専攻する。タックスが現地調査を展開した、アティトラン湖湖畔村落のひとつ、パナハッチェルと調査地まで一緒だ。
そういう人だから、ナカタも当然ヒンシャウの名前くらい聞いたことはある、どころか彼のパナハッチェルでの博士論文まで、ILL(国際学術書貸し出し)サービスを使ってとりよせていた。
このヒンシャウが、小説を書いたらしい。ついてはその発表会を、ここアンティグアで開くという。そこへひとりの学生がナカタに紹介してくれたのだ。ヒンシャウが今度出版した二冊の小説について講演をするに加え、タックスらとのかつてパナハッチェルで調査していた日々のことなども回想したい──というわけで、「講義で何度もタックスについて言及されていたナカタ先生、興味はありませんか」、というわけだった。
一週間後の夜七時。場所は、アンティグアの中心から少し外れた、閑静な住宅街にある一軒の家である。「マヤ文化のための家」という名前の文化会館で、サロンには椅子が並べてあり外の中庭にはちょっとした食べ物やコーヒーなどの立食の場が準備されていた。
ナカタは少し早めに到着していた。ヒンシャウと個人的に話すチャンスだからだ。売り込む大チャンス──今度スペイン語でタックスを中心に取りあげた本を書いているのです!。
庭でボーッと待っていると、さきほど受付で挨拶した米国白人の気の優しそうなオジィちゃんが、奥からもうひとり連れて出てきた。ヒンシャウだと紹介される。
ナカタには、ヒンシャウとはタックスの学生で後の弟子である、というイメージが強かったので、中年くらいの男性を想像していたのだが、タックスは一九〇七年生まれで一九九六年(だったっけ?)に他界しているくらいだ。ヒンシャウは、アゴには一面ふくよかで真っ白な髭を蓄えた老人だった。
営業開始である。戦闘開始か。名刺を渡し、身分を説明し、今まで書いたもののなかで英語とスペイン語でのこれまでのナカタの自信作を封筒にセットにして渡し、どうかこれからもよろしくとお願いした。
いろいろ来る人に挨拶しなければいけないのに、ヒンシャウは本当にナカタにアテンドしてくれた。ちょくちょくやってきては「あそこにコーヒーがあるから欲しければ」、などと気を使ってくれる。そうこうしているうちに、ナカタがかつて受け持った院生たちがやってきた。どうやら首都から一人の車に便乗してやってきたようだ。ワイワイ。ガヤガヤ。いつもの仲良しメンバーだ。
そうして閑静な住宅街の一軒で、ささやかながら素敵な出版記念会がはじまった。三〇人くらいが集まっていたか。そのなかで十名弱がナカタの担当した大学院生だった。
どうやらこのヒンシャウ。米国を引き払い、アティトラン湖湖畔の小さなに一軒の家を買って引退するという。この小説はその引退記念らしい。湖畔でマッタリと余生を送りながら、この英語での小説をスペイン語で焼き直したいという。なるほど、素敵な人生だ。
三〇分ほどそうした経緯を物語ったあと、ヒンシャウは参加者に自己紹介を求めた。参加者のなかには明らかにヒンシャウの旧友であろう、同じ程度に年老いた白人の米国人も一〇名弱ほどいたが、見たことないグァテマラ人もたくさんいたはずだ。ならば、どんな人が集まってくれたのか知りたいはずである。
向かって右の最前列に座っていたナカタが、自己紹介のトップバッターだった。席順からおのずとナカタに続いて、順番にその大学院生たちが自己紹介していくというように決まった。ヒンシャウとその友人の米国人たちからみれば、誰もがお初にお目にかかる。米国人参加者は興味津々だ。
緊張しつつも自己紹介。ヒンシャウへの自己紹介だが、それは先程済ませた。ナカタの戦闘の嗅覚とでも言おうか。
なぜかナカタは後ろを向いて、参加者、それも米国からのヒンシャウの旧友たちに目線を合わせた。
「中田英樹と申します。サン・カルロス大学歴史学部人類学コースで客員教授をしています。一方でアヴァンクソ(グァテマラ社会科学振興協会)の招待研究員でもあって、ここの出版部から、皆さまも当然ご存じの──といって米国人参加者に目線を向けながら──タックスやレッドフィールドが一九三〇年代にアティトラン湖で展開した現地調査についての本を書いています。」
今振り返れば、確かにこの時、自己を紹介するということにナカタは確実にたたかっている感情を抱いていたと思う。彼ら米国人からみればナカタは極東の島国からきた田舎ものである。あなたたちのホームグラウンド、シカゴが今度のナカタの作品の舞台です──こう紹介することとは、彼らに見積もられるということ。ナメるなよ──誰も向こうはそんなこと考えていないとは承知しつつ。
後ろのエドウィン(仮名)にバトンを渡した。
「はじめまして。エドウィン・ロペスと申します。首都の農業改良普及所で技師をしていますが、サン・カルロス大学農学部の大学院の学生でもあります。大学院の先生にはこのナカタ先生もいて、彼がタックスについて話していたことが面白かったので、今日もそのタックスの話と伺い参加させていただきました」
正直にナカタのその場での反応を告白しておこう──ナカタの鼻は数センチ伸びていた。何かがスパッとキマったようだった。霧が一瞬晴れ、視界良好、滑走路、ただちに離陸せよ。何かそのような一本のパスpathが通ったようだった。
リクツはわからなかった。以下はそれを後日考えたものである。だから「鼻が伸びる」──そのような生理的な感覚だった。
そして、その後に続く五、六名の仲良し院生グループにもこのように自己紹介をした人が何人かいた。「ナカタ先生の講義でタックスのことを論じていたので」──その度に、会場のみんながナカタの方を見る。
「こいつのタックスの話が面白かったから、今日ここに来ただと?」
今日のこの場は、タックスの一番弟子、ヒンシャウがタックスの話をするからという主旨のはずだ。そのタックスをすでに議論したから参加したというのか?
タックスについて知りたくて、教えてもらうために集まった聴衆たちのはずが。おまえたちはすでに議論をしたというのか。聞きに来たのではなく、こちらの話すことを判断しにきたというのか──ナカタの自意識過剰だと言われればそれまでだが、他の会場の人たちの視線はそのように感じた。何か、その瞬間だけ、ナカタの集まりのようになった。と感じた。
とまぁ、ここまでは自慢話といえばそうなのだが、もう少し話を続けたい。この瞬間にある大切なことが隠されているからだ。ナカタを含めた院生たちが、観察され分析され語りかけられ教えられる「現地人」という概念から過剰なばかりに意味を溢れさせているからだ。
*
ここでナカタが「キマッた」と思ったのは、端的にいえば「現場」から観察と分析を仕返している、というベクトルを発生させることだ。
祝賀会にはもうひとつのタックスが現れたのだ。現場から分析し返されるタックス。
ヒンシャウの語る、ヒンシャウの口から語られるタックスとは、かつてパナハッチェルにおいてグァテマラ先住民研究を幕開け、その後米国人類学界を牽引しつつも、自ら行動人類学者として終生先住民の権利回復に注いだ、ひとりのリベラルな人類学者である。そしてヒンシャウはその一番弟子だ。
そこに東洋人のナカタが、「現在グァテマラの大学で先住民の現代史を教えていて、タックスを主人公にした本を書いています」と自己紹介し、それに学生が何人か「講義でのタックスが面白かったので参加した」と続く。そこにあるのはもうひとりのタックス──調査され、分析されるタックスが現れる。
断っておく。今度の拙著において、ナカタもタックスを理想的・典型的といってもいいくらいのリベラル人類学者として描いているし、本心でそう思っている。ヒンシャウの口から描写されるタックスにまったく異論はない。むしろ現時点では、タックスをリベラルに描けば世界でトップ・スリーには必ず入る自信がある。
だが大切なのは、ヒンシャウがタックスを規定できる独占権が揺らいだことだ。ナカタや学生たちがタックスを取りあげ論じ、その結果リベラルと規定する決定権が瞬間的であれ、ナカタたち院生の側に掌握されたのだ。
タックスの他界した今日、世界で最もタックスに学的に近いとされ得る、最もタックスを説明できる象徴でもあるヒンシャウを前にして、ひとりのワケわからん東洋人を「先生」として、グァテマラという「現場」としての農業改良普及所や先住民助成人権保護団体などで、日々奮闘している「現地人」が一緒になってタックスを論じていた、と。
しかもネットなどといった個人的な集まりにおいてではなく、グァテマラの最高学府の大学院の講義というまさに国家の公共圏のド真ん中で。一瞬だが、そこには「タックス論」をめぐる学の権力がタックスの即金だったヒンシャウのシカゴにはなく、彼らの調査する「現場」にグッと引き寄せられる。
こういう瞬間を現出させたかった。こういう瞬間を経験するために、ナカタは十年やってきた。
何が嬉しいかというと、ナカタが日本の大学の教官ならば、サン・カルロス大学の客員教授でなければ、このような一瞬の場の転倒は不可能だっただろう。タックスを論じるならば、日本とシカゴでは勝敗は見えている。ナカタのそれは日本からやってきた、所詮は二流のタックス論でしかしかない。
ヒンシャウはこう判断するだろうと言いたいのではない。学のポジションを言っているのだ。いわんやタックス論。長年師事してきたヒンシャウと、タックスと話したことすらない極東日本からのナカタ──これならばあの夜、ヒンシャウのポジションにとってタックスを語る権利は揺らがない。
しかしヒンシャウのポジションは、ナカタがグァテマラの彼ら彼女らと、サン・カルロスで繋がることで、決定的なジレンマに陥る。彼は小説を書いた。その発表会ならば、「それをスペイン語で書き直したい、ついては英語の読める人、コメントを頂きたい。現地の皆様のコメントを参考にしたいのだ」──ということを宣伝しにきたヒンシャウは、当然のことながらあの夜をこの大学院生たちに宛てている。ヒンシャウにとって彼ら院生たちは、「まだ見ぬグァテマラの若者たち」だからだ。
いつもの勝手知ったるメンバーではなく、こうした宣伝を聞いて興味を持ってやってきてくれた──この彼ら「グァテマラの大学院に通う将来を担う若者たち」において「興味が沸く」、ということこそがヒンシャウの求めているものである。だが大学院生は言う「ナカタ先生のタックスの講義が面白かったから」。
この日の会の成功を測る指標を考えるなら、それはこうしたグァテマラの「まだ見ぬ」──つまりタックスの面白さを知らないグァテマラの大学院生が、どれほどきてくれるか、ということだろう。グァテマラの貧困に苦しむ人のための小説を書く。それを将来を考える現地の大学院生たちがたくさんくる。それはおおきなヒンシャウの望むところのはずだ。
しかしこの一瞬は、会の場が転倒する──タックス論はあなたたちではなく私たちがやってきたことだ。
ヒンシャウのポジションは、タックスという米国人類学者について面白い話を語るために場は開催された。そこでは、タックスのグァテマラにおける重要性をヒンシャウが語りにきたのだ。しかし院生の自己紹介はまったく逆のことを言っている──すでにグァテマラという「現場」の大学でタックスは重要だと議論されていたのだ。
完全にこの瞬間において、ナカタはあのヒンシャウと「現場」のあいだに確実に介在して機能できたのだ。その介在によって、院生たちはナカタを「呼び水」としてヒンシャウに論じられた聴衆としてではなく、論じる主体性を発露させている──しかもそれは「語られ教えられる客体」を逸脱している、つまり講演に興味を持てずに会が白ける、といった程度に収まっていない。
何とこの「現地人」たちは、そのタックスを議論していた──つまりはカウンター・パンチを繰り出しもしたのだ──状況として瞬間的に現出しただけとはいえ、スッと綺麗に成立したカウンターの回路。ナカタが日本に帰らなかったのは、これをやってみたかったからだ。日本からここにこうしているからこそ、成立する新たな力。
こういう研究生活における経験をさせてもらったナカタは、これまでの苦労がすべて報われたと思わなければバチがあたるだろう。
断っておく。これはナカタこそが真に現地の人びとと通じ合えるようになったなどということとはまったく無関係である。またヒンシャウの「現場」との距離を問うものでもない。彼こそ、ナカタとは桁違いの時間と努力を、パナハッチェルをめぐって費やしてきた人である。かつては彼こそが、サン・カルロス大学の客員教授として、またまた桁違いのレヴェルでグァテマラの学界に関わってきた人である。
だが、あの祝賀会の静かな夜。アンティグアの外れの小さな一軒の家に現出したナカタと院生たちは、あの瞬間において「現場」とヒンシャウとのあいだに、確固たる学の対抗モーメントを発生させたはずだ。
**
現代人類学の幕開けともいわれる『西太平洋の遠洋航海者』の著者マリノフスキーは、その死後になってこの著の基礎となった調査がどのように展開されたか、調査の日々の詳細なログとして日記が出版された。
きわめて冷静で科学的な人類学者マリノフスキーとは異なって、日記では現地人と上手くいかずに時には悩み、時には彼らを罵倒し、故郷の恋人を焦がれ、近所の同じオーストリア人のコミュニティを心のオアシスとして出入りするといった、生身の人間像が現れている。この『遠洋航海者』と『日記』とのギャップが何を意味するのかをめぐっては、どれほどの研究が後世展開されたか知れない。日本なら『メイキング人類学』などが挙げられよう。
タックスはこの学問的意義に気付いていた。だから彼は自ら調査日記を一冊にまとめ発表するのだ。彼の初期の代表作『ペニー・キャピタリズム』に向けた調査のなかで、彼が毎日必ず付けていた日記や、十歳年上の先輩教官レッドフィールドとの往復書簡などすべてを、彼は千ページほどのマイクロフィルムに収め、現在でもシカゴ大学などで閲覧可能となっている。
もちろん意図は、自らの研究成果が結晶されていくプロセスをもまた、後世に発表しておけば、若い研究者たちの参考になるかもしれない。それは企業が新製品を開発する一方で、そのプロセスに関わった社員全員の携帯メールをネットで公表するようなものである。
タックスはメッセージを発信したのだ。誰か第三者の眼で、自分のやってきた研究の方法論を論じて欲しい。それは学問のために役に立つはずだ。
これに応えたのがルービンスタインだ。タックスは発表しているがそれはマイクロフィルムであり、アクセスが困難だ。もっとポイントに絞って一冊の本にするべきだ、と。もっと世界的にタックス論が展開できるように。
タックスはさすがに躊躇したらしい。そこまでしたほうがいいのか、と。しかし最後には、自らのコンフィデンシャルな部分をさらけ出そうとも、そこから私たちの科学に役に立つのなら、と承諾する──ナカタの今度の拙著は、このルービンスタインの一冊を、ナカタが偶然シカゴ大学の大学生協で買っていなければ、決してはじまらなかった。そして大学院生が「ナカタのタックスの話が面白かったから」のネタは、ほとんどナカタはこのルービンスタインから教えてもらった。
だからヒンシャウもナカタがこうして議論を展開することを、こういう状況が展開することを、(たとえそれが自らへの批判となっても)頼もしく思ってくれることだろう。それは、他ならぬヒンシャウ自身の師匠が望んだことであり、私たちに他界して残したタックスからの宿題なのだ──調査のログを全部おいて逝くから、できるだけたくさんの人びとの議論の礎として役立てなさい。
*
祝賀講演も終わり、中庭で軽食での懇親会となった。しばらくして呼ばれた。彼らが集まっていた。ナカタに話があるという。
こういうことだった──この仲良し院生のグループで、何かテーマを決めて研究チームを組織したい。みんなでガヤガヤ議論しながら各々の修士論文を作っていきたい。そしてもうひとつこういうときに、どこか研究費を支援してくれればと願っている。なにか名案はないか──ビックリした。ナカタはまさにその話を今回日本から持って行っていたからだ。そしてその夜は、ナカタの方から彼らに同じことを持ちかけようと考えていた。
ナカタが日本に帰っているあいだに、日本のナカタとグァテマラの彼らのあいだで、まったくの偶然に同じことを考え、そしてまったく同じタイミングでその提案を切り出そうとしていたのた。
中庭の片隅で、ナカタがオファーする研究テーマの説明がはじまった。今回のこの研究プロジェクトに関してグァテマラでいうならば、従来のグァテマラ研究において「共同体」なる概念は静態的な閉じたものと考えられているが、私たちに必要なのはその場その場で組み替えがおこなわれる緩やかな運動ネットワークとしての共同体のあり方で・・・云々。
ヒンシャウの祝賀会の中庭で、ちょっとした「青空講義」がはじまった。
三〇分ほど話しただろうか。すっかり意気投合した院生たちは、「今日は収穫があったぞぉ」といった満足に満ちた素晴らしい顔をしていた。いくらナカタに「啓蒙に酔っている。前衛主義的だ」などと批判が寄せられようが、そのようにナカタには映った。
話し終えたナカタはフッと後ろを振り向いた。そこには、ニコニコ向日葵のような笑顔をしたヒンシャウがいた。ナカタにそして言った──ボクも昔はサン・カルロスで客員教授をやっていた。丁度キミくらいの頃かな。ボクもよくこうやって話したなぁ。懐かしいよ。
それはナカタにとっては、これからもここで頑張ればこうした経験にもっと出会えるということを約束してくれる、頼もしい言葉なのである。
*
このブログの丁度一年前。「2007年の仕事納め」を参照していただきたい。こう閉めていた。
文字通り、抜け殻となったアンティグアから。
しばらくご無沙汰するかも知れません。何も言うことがないから。
そして二〇〇八年の三月、ナカタは師匠から一本のメールをもらった。今度の拙著の第一草稿に対する感想だった。
たくさん話したいことがある。そう言われた。
ナカタも今、皆さんにいいたい。
たくさん話したいこと、一緒に考えたいこと、聞いてみたいことがある。
このブログをみたひと、できたら誰が見ているのか知りたいです。ヒントだけでもコメントに書き残してくれたら嬉しいです。
それでは。
皆様。
よいお年を。
中田英樹・拝