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ラテンアメリカでの日々(1999〜)、さいたま市(2014〜北浦和:2021〜緑区)での日記を書いています。

Mac購入予定者は絶対に読むべき

2021年07月11日 | 日本で暮らすなかでの日記

 

 かれこれ30年前ほどならば、「Macを使っている」「?」「マクドナルド、好きなんだ*」──というくらい、Macintoshなんてトーキョーの代官山あたりでマルマンのスケッチブックを小脇に挟んでいるようなヤツが持つもの、というイメージだったのですが、いまでは大学の食堂でも普通に見かけるようになりました。マウスを買っても、アプリを推薦されても、「※Macintoshは非対応です」という注意書きは、あたりまえのものでした。

*ちなみに関西ではいまだに「マック」ではなく「マクド」と呼ぶのが根強く残っています。さらには、関西のとあるド田舎育ちの友人は、わたしが大学の頃、遅刻して彼女を迎えに行ったあと、「どうする?向こう(目的地)に着いてメシ食ってる場合やないで」「せやな。もうどこでもええわ。わたし、べつにマクッチョでもええで」「・・・」──すぐさまわたしは路肩に車を止め、「ちょっとまて。よーに聞こうやないか。いま、なんつった?」──もう三児の母になったと風の噂で聞きますが、申し訳ございません。いまだに幼馴染みとかと呑んでいる時には定期的にネタになってます。ちなみにその彼女は、阪急電車のホームにいる時に、友達に「わたし、いまからアズキ色の電車に乗るねん」とアゲアゲで携帯してました。

 そのあと、スケルトンのMacが発売されて少しは市民権を得たでしょうか。とまれ当時はまだOSがUNIXベースではない「漢字Talk」という絶妙なネーミングのもので、まぁバグることバグること。文章書きは一文書く毎に「command+S」(保存)を押すのが当然手癖になり、いまでもわたしはメールを書いている時でも、Chromeの画面で「保存」を押して、しばしば意味皆無の画面を「どこに保存しますか?」と愛機に聞かれたりします。

 そんなMacですが、いまでは携帯業界では不動のブランドになられましたね。この頃からでしょうか。この会社がクソ調子に乗りはじめられたのは。突然電源アダプターの形状を変えて今までのケーブルを一切使えなくされましたね。さらにはそれすらも廃止して一切の端子をUSB Type-C四発のみ、などというサードパーティの周辺機器を、一切見捨てるようなことを顔も涼しいままされました。かつてはMS Wordと十分張り合えるエルゴ社の文章入力ソフト「EG Word」も、MS Power Pointよりずっと小回りが利いて軽量だったクラリス社の「Claris」も「自由契約」にされました。そうして主力選手を風呂の湯煎を抜くように解雇したがゆえに、いまではMicrosoft社の看板商品Office365を、阪神タイガースファンにとってのオレンジのタオルを、まずは購入しなければならないという皮肉な現在を導かれたのです。先日も書いたとおり、「command+H」なんて、FinderからGoogle検索から全部「Delate」の代用になるのに、Officeだけにはこの四番エースを取られてよく平気でいられますね。

 最近出されたi-Pad PROには絶句いたしました。内部SSDストレージの容量とメモリの容量がセットになっていて、「チーズバーガーでは物足りないからビックマックセットにしようとしたら、自動的にポテトもコーラもLサイズしか選べない」と仰る。それで価格13万?!──ハッキリ言って漫画家が40インチくらいのモニターに接続するか、契約事務所を持つYoutuberくらいでないと、ただのV8エンジンを積んだママチャリではないでしょうか。一瞬の疑いもなく買った中国製の15000円のタブレットで、現行、何の不満もありません。i-Pad無印は一万歩譲ったとしても(ただこの無印購入予定者も今はやめておくべきだと思います。次か次の次くらいでPCもi-Padもi-Phoneも全部M1積むとおもいます。自前のチップですからね。ならこの先は明らか──従来機との互換性をまったく無視したソフトがSubcriptで出回るでしょう。経費でこれらを買わない人は、迷惑でしかありません

 そんなMac。今度は「M1チップ」なるものを流行らせてます。「速い」だの「電池が持つ」だのいって、空港のロビーや新幹線のグリーン車でピンクだゴールドだの「じつは会社がIT系でして」といわんばかりの妖色を放っておりますが、そんな『バビル二世』の「バベルの塔」にあるようなコンピューターを持ち込んで何とたたかおうというのでしょうか。

 

 

 とまれ、このまま普及してくれれば管財課もフォローしてくれるし、端末も一台くらいはMacになろうかと思われるので、ありがたい話なのですが、いまからMac Bookを買おうという人には、間違いないアドヴァイスを一つ──絶対にキーボードは日本語版にしない方が良いですよ。

 これは何十年も前からそうなのですが、日本語版のキーボードの配列では、スペースバーの左右に「英字」「かな」というキーが「助さん」「角さん」みたいに鎮座されてます。これ、要りません。日本語版キーボード以外ならば、この位置にすでにcommandキーがあります。Macの場合、「command+スペースバー」で「英字半角」⇆「ひらがな全角」となります。これは一時間も使っていれば体が覚えます。WINの左上のキーを押しての切り替えなど、モニターから目線は切らなければならないわ、なんやら押しにくいわでこれまたイラチの種になります*。

*また、ドイツ語などにあるウムラウト「ü」やスペイン語のティルデ「ñ」、アクセント記号「ó」などを入力する方には、この点においても圧倒的な優位性があります。リクエストがあればまた書きます。

 「そんなの、どっちでもいい」「日本語版の方がリターンキーが大きくて使いやすい」という意見はありそうですが、これにはもう一つの致命的な違いがあります。トラックパッドの中心線がキーボードのそれと、日本語版の配列では一つ左にズレてしまうという点です。英語配列であれスペイン語配列であれ、これは起こりません。このズレは、日本語ネイティブではないメキシコ人が日本で「キーボードに平仮名が書いてあるから(日本で買った記念として)趣があるのではないか」と買った場合、作業でテンパったらベランダから投げてやりたくなる、と言っていました。

 

 

 とりわけ数世代前から、Mac Bookのシリーズ問わず、トラックパッドは超大型になっています。これは無駄に大きいわけではありません。現行のMac Bookのトラックパッドはとても優れていて、まず何よりも、これは物理的にクリックするメカニズムにはなっていません。いわゆるモニターのタッチ画面を押すのと同じ構造です。でもカチっと押した感が手に感じられますし、しかも「深押し」との二段階設定になっています。「普通押し」と「深押し」ではもちろん異なった動作を割り振ることができます。くわしくは公式ホームページなどでググって貰えれば解りますが、これはたんにトラックパッドといういわばタッチ画面上でのボタンがあるだけの話で、ですが微弱な電磁石のバイブ振動によって「押した」感を発生させているだけです。ですので、物理的にトラックパッドは「深押し」しても1ミリも沈むことはありません。これは画期的なことです。「沈む」ということは、従来のMacのそれや、現行のサードパーティについているトラックパッドがそうであるように、パッドの上辺に「蝶番」のようなものがあるわけで、ですので、パッドの上の方を押しても反応しません。ですが現行Macのパッドは、どこを押しても一律同じレスポンスをします*。

*さらにこれは前からある機能なのですが、Macのトラックパッドには、二本指、三本指、そして四本指まで異なったアクションを割り振れたりします。わたしの設定は、四本指で同一画面上の左右に、メモリが着いてくれる限り、何枚もまっさらなデスクトップ画面が並べられ、それらをスワイプして往き来できます。同時に見る必要が無ければ、ワードの画面、i-tuneの画面、メールブラウザの画面、ネットの画面を別々にできます。また、モニターの右上を突いたら全部のウィンドウが消えたデスクトップになる、左上を突いたら全部の隠れたウィンドウが並んで表示される、などなど設定できて、職場のWIN機使用時のイライラが激増します。これらについてもリクエストがあればそのうち書きます。

 

 

 以上、先日投稿した「Macユーザーは絶対に読むべき」をあわせて、一度Youtubeなどで、Macで文章入力系の作業に関連した動画をアップしている日本発信の動画を改めて見渡していただければと思います。ベンチマークテストAntutu何万超えだとかいって、カードゲームの戦闘能力比べしているような動画ではないヤツです。だいたいUSキーボード配列のノートになっているとおもいます。

 PhotoshopとかIllustratorをメインに使う人の感想は知りませんが、こと文字入力を仕事にしている人にとっては、とにかくもいかにモニターから目線を切らないでいられるか。キーボードと両手を一体化させれるかが10時間以上も毎日作業するならばもの凄い差になります。

 友人で化学のプロは、大昔から「ベンゼンなどの六員環はMacでしか書けない」とかいってMac依存症でしたが、文章書きもまた、自分にしっくり馴染ませるとピアノを弾くように文章が入力できて気持ちがいいものです。

 来週末は、車とバイクのエコ化とスポーツカスタマイズ感覚のクソ化について書こうと思っています。「EV」「エコ」とか言いながら、ドヤ顔強調のクソ流行を煽るようにフロントグリルをデカくしたり、挙げ句はマフラーありきのリアやダクトつくったり──V8のエンジン音をスピーカーで流すという──90年代までのガソリン内燃機関、高回転憧れまくりの情念がまったく抜け切れていない、自動車開発の詰んだ発想を考えたいと思います。

 

 

 



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