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ラテンアメリカでの日々(1999〜)、さいたま市(2014〜北浦和:2021〜緑区)での日記を書いています。

一般教養はまんべんなくある方が良い

2021年07月18日 | 日本で暮らすなかでの日記

 

 ナカタは高三の時、同じような音楽を聴いていた「ツレ」ら4人とジャリたれのバンドを組んで、文化祭でライブなんぞをやっていた。ブルーハーツやらKENJI and The TRIPSのコピーをやるという、まぁよくある話だ。

 そのまま卒業してもバンドは続き、運がよかったのか、初めてオリジナルを持ち込んで演らせてもらったライヴハウスでマスターに気に入ってもらい、「これから月に一度、ウチで演ってもらえないか」と言われて以降、ナカタの「アラトゥエ」(?around twenties?)の記憶といえば、ハコ(ライヴハウス)で演ってるか見てるか、スタジオで曲作ってるかデモテ作ってるかだ。
 合コンとかカノジョとスキーとか・・・ないなぁ。
 そんなメンツはいまアラフィフのど真ん中にいるわけだが、Bass(ベース)のケンちゃんはバンドやってた頃からのカノジョと結婚し、大手の営業マンになって子どもも大学生という堅気の人生を謳歌しているのだが、ナカタを含めた残り三人は、まぁ見事な社会不適合者として日々苦悶している。

 ナカタのことはさておくとして、残りの二人Vo.とDr.なんだが、まぁこれが地元ではよく使う「ケツが割れるくらい頭の痛い」ヤツだった。

 バンドは、いわゆる大学の音楽サークルみたいに、ハコを一日借り切って、というものではなく、ガチの五万といる吐いて捨てるようなレベルの普通の売れないインディーズバンドだったので、やっていくにはそれなりのカネが要る。
 ハコごと借り切ったイベントなどでは、ハコ側は、その一日レンタル料で採算が取れるので、客の入りなどどうでもいい。でも、野良のインディーズバンドは、一応ハコ側が機会を与えるのだから、出演料自体は払わなくてもいい。ハコ側は、この場合、客の入場料をアガリの源泉とする*。

*最初は身内が「本格的に始めたな」ときてくれるが、すぐにくるのがカノジョだけ、となり、やがてはこっちで買い取ったチケットを無料できてくれとあちこちに頼み、差額をカバーするようになる。これをやらないバンドは多いが、そこまで最初は自信が無かった。二つ目に誘われて入ったバンドが、最初のスタジオで「川崎クラブチッタ帰り」と聞いてビビり、初ライブの打ち上げに来た人が『ぴあ』でみてきた、というから「それはそれは凄いバンドだ」と。

 だからこっちとしては、ハコから「契約」を切られないように、あっちこっちに声を掛けたり、フライヤーを作ったり、デモテを作ったりと試行錯誤する。TwitterやYoutubeもなく、音源を発信しようと思ったら、スタジオを借りて空気が殴り合い寸前になるほど録りなおして、DATというカセットテープのデジタル版のようなものでマスターを作って、CDに焼いてもらう。
 いまではi-Phoneにも「Garage Band」というアプリが購入時にすでにインストールされてるみたいだが、当時はレコーディングスタジオに行かなければ、何百万もする「」なんぞでのミキシングなどはできない。当時はだいたい一枚出すのに、完全自主制作ならば100万くらいかかる*。
 DTM系音楽を上げている若いYoutuberなんかが聞いたら卒倒ものだ。

*たしか、ナカタの二つ目のバンドは、加入した時に一枚出していたが、1000プレスするのにそれくらいかかったと言っていた。加入時に「あれ、どのくらい捌けたんですか?」と聞いたところ、「だいたい950枚くらい・・・残ってる」 ──「残って」んかい。でもいまでも聴いています。関西中心の『シンナーズ(Thinners)』というバンドです。知ってる人いたら奇跡ですが。

 ということで、バンドを続けるからには必死でバイトをしなければならない。ということで、そのVo.とDr.は、ガチのスロッター(パチスロで生活していく人たち)に着地した。
 バンドやってた頃はまだ駆け出しか、マジで『ボーダー』みたいなクソぼろアパートに二人で暮らしていたが、そのあとも結局7年くらいは、Vo.はいまも住んでいるマンションを借りて暮らしていたし、実家住まいのD.は、CIVICのType-Rヨシムラの集合マフラー付けてネイキッドに「敢えて」したZRX400(ZRXIIではない)とか乗ってたから、パチンカスの才能は地元ではちょくちょく店員に注意されるほどにはあったと思う。

 

 

 バンドも解散して何年か経ったある日、そんなアホコンビが、福井と並ぶ二大「等価交換の聖地」北海道に、二人揃って長旅を計画しはじめた。
 あまり詳しくは書けないが、普通は玉やメダルを店内で(例えば一万円分)「借りて」、そのままスロットを一回しもせずにそれをそのままカウンターに持って行って景品を貰っても、交換所では一万円より少ない額しか戻ってこない。

 いよいよ計画実行か。ある夏、「ちょっと二カ月ほど涼しい北海道に行って海鮮食べまくりツアーしてくるわ」と、いっぱしのプロ生活を送っていた二人が、嬉しそうに京都駅傍に住んでいたナカタのマンションに立ち寄った。
 計画では、まずは京都は日本海岸の舞鶴からフェリー。函館に上陸して、札幌で一カ月。「九月終わりには帰ってくるから、いろいろとヨロシク」と、スロット攻略雑誌をめくりながら、ナカタのひげそりでVo.が自慢のチャリ毛を整えていた。
 たしか当時ヤツは、『パルプ・フィクション』のジョン・トラボルタを崇めてて、一口食った飯が美味くても、ライブみにいって曲がカッコよく終わっても、高校のトモダチの結婚式で友人スピーチが終わった時でも、とにかくタバコを咥えながら拍手してFxxk、Fxxkin' Cool→隣にいる関係ないヤツの肩を組む、という陶酔ぶりを発揮していたので、ソファーに座ってカットしたチャリ毛が全部下に落ちていたものの、どうせまたFuxk Uとか言うだろうから面倒くさいと我慢。「はよ行けや」としか思っていなかった。

 「お、そろそろ出かけなアカン時間ちゃうけ」と、そのVo.は自慢のOMEGA SpeedmasterをDr.に見せながら、「ナカタ、そういうことでオレら、ちょっと出張行ってくるわ」、と。
 「ま、事故は気ぃつけろや。あと、速攻資金が溶けても、別に体裁せんで帰ってきたら連絡してや」。

 

 

 その時は何かしらツマみながらビール飲んで阪神のナイターを見てたと思う。小一時間ほどしたら電話が入った。
 「おお、舞鶴なぁ、(フェリー)乗り遅れたんや」「いまから(その次にフェリーがある)新潟に爆走や」

 もうこっちはとうに旅立ったことすら忘れてた。翌日もクソ朝から携帯を鳴らされる。
 「おお、新潟も間に合わんかってなぁ。いま秋田走ってんやけど・・・」

 どうやらこのバカ二人、下道で北海道を目指している模様。「ちょっとはオマエも運転交代したれよ。居眠りはな」と言おうとしたその時だ。
 「でやぁ、コイツのクソS13(5代目シルビア)、サンルーフが潰れてよぉ、雨降ってきて車んなか、ベッチョベチョや。寝られへんかったし最悪やで。くそぉ」(そこでこそ「Fuxk」で締めろ)
 そもそもその事態を招いた原因を、ようよう考え直すべきである。

 

 だいたい舞鶴に乗り遅れたなら、その場で駐車場に入れるなりして遊んどきゃいいのに。とまれこの二人は、まずもって脳ミソのOSがナカタら一般市民と互換性がない。「相手の立場になって考える」という配慮は控えよう。『じゃりン子チエ』のオジィはんが、息子テツ就職活動を見守るようなものである。

 ということで、多分その日曜日の夕方頃だったと思う。また携帯に着信が。
 「どうした。着いたんけ?」ととりあえず聞いてみる。

 おそらくはずっと運転をDr.にさせておいて、助手席で散々ビールでも飲んだか。Vo.が呂律も怪しげながらブチ切れはじめた。
 「おぉ、聞いてくれや。いま何してると思う?」

 知らん。知る必要もないし知りたくもない。

 「いま、下北半島を南下中やねん。やっと携帯圏内なったわ。やっとかかったわ、このクソ携帯。Fuxk」

 北海道目指して北上していったはずが、なぜ「下北半島」を「南下」なのか。
 まずもって理解不能だが、長い説明を要約すればこうなる。

 

 新潟からただただ北陸の日本海沿いを北上したら、そのうち青森まで着くということしか頭になかった(いまみたいなGoogle Mapは言うまでもなく、この二人には道路地図というものも発想にないし、たぶん細かい地図を「読む」ことはない。百歩妥協した高評価を付けたとして、地図が読めたとしても間違いなく、ほぼほぼ尺度が地球儀レベルの地理しか頭にないはずで、新潟県・富山県・山形県・秋田県などの位置関係は知るはずがないのゆえ、地図は持って行ってないはず。地図の上が北ということすらどうだか。

 とまれ、ここまではツキアイが長いとだいたい想像できる。

 ここからが想定外のバカっぷりの全面開花。リアルタイムですでに強烈に覚えていたんで間違いないとは思ったが、ブログで書くからには確認せねばと、昨夜別件で電話した時に聞いてみた。もちろんブログに書くとは言ってない。「懐かしいこと思い出してな」、と。
 時系列でまとめると。

 ① 青森までやっと着いた(本州と北海道が別の島だというくらいは知っていた。ホッとした)。ということで、海は車では渡れない。

 ② でも、青函トンネルがあるという「現代日本の最新ニュース」はフォローしていた(青函トンネル開通はナカタらが高校卒業する時くらい前だったはずだが)

 ③ それを通らねばならない

 ④ 海底トンネルなどというものはできるだけ最短に掘るはずだ

 ⑤ だから論理的に、本州最北端付近まで行けば「青カン(看板標識)」に「青函トンネル」とか表示があるはず

 ⑥ ということで下北半島をどんどん北上するのだが、いかんせん景色がどんどん寂れていく

 ⑦ 携帯がどんどん通じなくなり、いよいよ不安に陥る(Dr.の携帯はJ-Phoneというメーカーのもので、当時ボクたちの間では「スロットの子役があたるくらいの確率しか通じない」とイジられてた。対するVo.のドコモは、旧国営電電公社を受け継いでいるので(この知識は彼にとっては優秀な歴史的知識と位置づけられているようだ)日本全国で通じる、という確信が崩れる)

 ⑧ 時間帯も相まって、道路に人影すら無くなる。この辺で、ようやく東野幸治も大絶賛、「我ら聖書」たる『じゃりン子チエ』では、イタコが出るくらいの辺鄙なところだとの認識が生じる。そんなに重要なトンネルなのに、なぜかくも通行量がないのか、と。

 ⑨ 奇跡的に京都ナンバーのツーリングバイクが一台走っていたので追いかけて止めて教えて貰ったらしいが──もっと下北半島の根っこの都会からトンネルは掘られている(まだこの時点では一般車両も通れると思っている。トンネルとはそういうものだ疑うことは無かった模様)*。

 と手こずっていたようだ。

*昨夜の確認では、そのあと、青函トンネルが鉄道しか通れないと知り、フェリーで渡ったとのこと。

 

 

 結局、そのあとは音沙汰なく、無事に九月終わりに帰ってきた。毎日毎日、海鮮を喰いまくり、翌日ホテルをチェックアウトして*10時までスロットを回し、またホテルに泊めて飲みに出る。週三で精神と身体の健康上、別々の部屋に泊まり、東は旭川まで行って。
 最終収支はDr.がトントン、Vo.はプラ10万というので、肝心のポイントは外してない。この辺はキッチリしてるのがプロだなぁと感心する。

*これはかなりナメた行為。「等価」なら設定はきつめなはずで、さらにその地域の情報を知らないからには、普通は朝イチで並ぶのが肝心。

 

 ということで、何が言いたいかというと、人間というのは誰しも、ある特化した部分には強烈な知識が集約させるが、日々の暮らしに関係ないことは、人によれば絶句するくらい疎い──これが本日のテーマである。

 この二人だって、稀なところに知識は偏在してる。
 ナカタが夜に「ちょっと飲みに出かけたいな」と思ったら、電話をすればだいたいこの二人は京都のどこかでスロット打ってる。で、合流する。
 で、よく飲んでいる最中に、二人、「コンチの右のリールは、絵がこう並んでいるから・・・」とかいって、あの多岐にわたるリーチ目に関する議論をしてた。あれは難しすぎてよく分からない。知識とはそういうものだ。賢い、バカ、の指標では決してなく、人様に迷惑をかけずとも、他人を騙したり踏みにじったりしなくても、自律して日常を楽しく暮らせる──そのための工夫を編み出すためのもの──これが知識の基本的な意義のはずだ。

 

 

 半世紀も生きてきて、先週くらいからの疑問が、「ヒグラシって昼間から鳴くんか?」「鶯ってオールシーズンなんか?」などと考えてるナカタもご多分に漏れない。

 ナカタの父親がそういえば格好の模範例になる。父は元はシステムロボットの開発エンジニアで(七〇歳代後半になってもフルマラソンを走るという、ホラー映画のエキストラともいえるのだが)、ほぼほぼ感じは『バック・トゥ・ザ・ヒューチャー』のドク博士だ。工学の知識は神懸かったものだが、世界地理などは信じがたい発言をすることもある。

 

 ナカタが1999年2月、人生で初めて飛行機に乗って終わりの予定のないラテンアメリカへの旅に発とうとしていた三日ほど前、マンションも引き払って実家に全部荷物を置き、夜歯ブラシをしていた時のことだ。

 「ヒデキぃ。オマエ確か、なんやどっかの国に行くとか言ってたけど」

 「あぁ。コスタ・リカちゅうところにまずいって、イチからスペイン語を二三カ月は勉強しようと思てる。コスタ・リカ大学に短期留学するつもりやけど」

 「ふーん。そうか。」
 「・・・でだ、オマエ、そのコスタ・リカとかいう国に行くんやったら、ついでにインドにも寄ったりするんか?」

 

 意味が分からない。
 「コスタ・リカは中米や」 ──インドは遙か遠い。
 しかもだ、信じがたいことに確か親父、会社勤めの独身時代にドミニカ共和国に一年間単身赴任してたはずだ。
 それすら織り込み済みでインドはカリブ海にあると思っているのか。

 たしかにかつて、クリストバル・コロンは、大海原を渡航して辿り着いたカリブ諸島をインドだと勘違いはした。だがそれは、まずもってポルトガルの東回りではなく、西回りの大西洋渡航だ。この父親の発言は1998年。インターネットも社会に普及し、高度情報化社会へ突入しようとする500年も経ってのことだ。

 こんな父に、離日した旅中における私宛の郵便物を「クレジットカードの明細だけでいい。しかも少額の動きならばスルーでいい。数万とか数十万とかいう支出があった時だけ、大まかで良いので、何の引き落としか、タイトルくらいをメールしてもらえばいい。定期的に、街角のインターネットカフェでチェックするから」と託して旅に発ったわけだが。

 旅立つと同時に、父は工学の知識をフル稼働させて、(いまではアタリマエになっていますが)文字が読めるくらいの解像度が出る高級デジカメと、そうした書面を床に置いて固定撮影する為の、雲台が三脚の下にすげ替えられる*高級三脚を購入。

 

*このタイプの三脚は2021年7月18日でも、ネットですぐには見つかりません。写真はサンワダイレクトの200−CAMO31という商品です。興味ある人の検索の仕方は、「雲台」「三脚」の他に「俯瞰撮影」という語を入れるとヒットしやすいです。三脚は、資料や史料を撮影する時にも必要だということは、あまりメーカーは考えていないんでしょうか。疑問に思いますが。
 以前わたしは、国立歴史民俗博物館からラテンアメリカの日系人に関連する資料を収集するという計画に参加する為に、招聘研究員になったんで「まずはこれが欲しい」と探しかけたのですが、そんな史料の超スペシャリストである歴史博物館の他の研究部の方々も、「そういう三脚」は私物としても持っているくらいでしたが、有名な定番は口コミでは存在しないようでした。あと、こうやって資料撮影する方は、お金は掛かっても単焦点レンズで撮る方が良いとも教わりました。あとあと、撮った資料で展示などをすることになり、A0サイズとかに引き延ばした時に、端っこの歪みが出ないそうです。この点はこれ以上は知りません。あとはご自身でお調べを。

 

 コスタ・リカ生活が一カ月くらい経って、ようやくスペイン語でネットカフェに行って「ネットを使わせてくれ。料金はいくらだ」とか聞けるようになった時、さっそく父親からメールを受け取った。「元気か。そっちはどうだ」とかいったことは一切冒頭にはなく、こうした諸々の設備環境を整えてバッチリだとのこと。そして、早速、銀行から一通の郵便が届いているから、試験を兼ねてこのメールに写真添付するからそっちで読めるかどうか確認して欲しい、とあった。

 

 当時は回線も細く、その添付された写真が開くに数分はかかったか。
 ようやく開いたその写真は、数メガにも及ぶものであり、モニターでは画面いっぱい、実寸でA3くらいのものだった。

 きわめて鮮明に書面の右下に記載された銀行の住所までもが読み取れる。ただ、だ。

 それは封筒そのものの写真だった。それ一枚。そしてメールの本文を最後まで読む。

 

 「封筒に【親展】とあったので、お父さんは一切開けていません。心配なく」

 

 ・・・だからそれこそが、中身が大事だちゅーの。「親展」こそ、開けてみてくれと言ったはずなんだが。「心配なく」ではなくて、「心配」すらしてなかった「心配」が沸き起こる。

 

 ナカタは後年、あと数回、一人暮らしの荷物(とはいってもまたラ米に行くので量は僅かですが)を実家に持っていく引越しをするのだが、その都度、後輩たちが早押しのように「手伝います」と言ってくれた。
 これは、「実家に荷物を運びますよね。ナカタさんのお父さんに会えるのですよね」、というのが動機として基底にあるのだが、案の定、2007年4月のグァテマラへの引っ越しの際には、レンタルした2tトラックに同乗してくれた後輩二人含む全員に父は、ニコニコしながら「ちゃんと冷やしておいた」冷えたビールと枝豆をもってきてくれた──「誰が運転するのだ」?

 

 もう一つエピソードを加えるならば、むかし一度、グァテマラのユースにいた頃。
 ある日の朝、宿主がロビーから「ナカタさ〜ん。電話かかってますよ〜。なんか日本からみたいですよ」、と呼び声が。

 階段駆け下りて電話に出たら、「初めまして」と見知らぬ声が。
 (警察か?大使館か?)
 「何かあったのか?」と焦りながら聞けば、タレントの「ぐっさん(山口智充)」がMCを務める『グッと!地球便』というTVの下請け企画会社だった。

 この番組は知らなかったが、どうやら、海外で頑張る息子や娘がいて、音信が余りなく「どうしてるのかな」と心配している両親に、現地での「我が子」の日々をビデオレターにして送り、寂しそうにしている親が感動して、励ましの動画を撮って現地の息子娘に届ける、という番組らしく(見たことないので知らない)、「大学で授業をしているのを撮影できそうですか」などといろいろ質問された。

 続いて「差し支えなければご両親は」と、いうことで「いえ。母親は数年前に他界しておりまして、父親は実家で一人で暮らしています」──この段階ではけっこう乗り気の電話口だったのが、父親の毎日を説明する段になってからは、みるみるうちに話の進路が変わり、「このオファーは無かったこと」となった。

 たぶん「その息子を寂しがる一人暮らしの父親」像を遙かに逸脱していたからか。あとでこの番組について、他の日本人を見つけて聞いてみたが、誰もが「そりゃ、ナカタさんのお父さんが出てきたら、そっちがメインになるか、別番組になりますよ。逆にお父さんが出ての『探偵ナイトスクープ』でしょうか」とのこと。

 

 確かに・・・

 

 

 

 

 

(続く)



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