辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

国連のミッションで経験した緊急避難と内乱

2007-05-26 23:31:51 | Weblog
コンゴ民主共和国―国連のミッションで経験した緊急避難と内乱

FAOで、最初に行ったミッションは、2004年、5月中旬から3週間の予定でアフリカのコンゴ民主共和国だった。FAOでは、本部で、連絡調整担当官として、ドナー会議の開催準備で先輩と一緒に準備で1年目の半分は急がしく、合間に、アフリカにおける特に、フランス語圏での日本のNGOの活動について調査した。現地で実際にFAOのメンバーと一緒にNGOの活動と現地事務所をあるき、将来のパートナーシップーが取れるかを交渉するという仕事と、日本のNGOをいれて、新しい、プロジェクト作成参加という仕事を与えられた。日本からの資金調達の仕事で、FAOのコンゴ所長と、日本大使館に大変お世話になった。

コンゴ出張中に、内乱になり、国内出張の3日目くらいから、FAOの現地同僚でアシスタントをつとめてくれたブゴンベとゴマ、ブカブという東の地域へいった。日本のあたらしいプロジェクト作成と、他の国際機関との現地レベルでの協力、国際NGO,現地NGOの新しい協力関係を探るという、仕事を、すすめるために、ローマ本部で日本のNGOの、本部を通じて、情報を探していたが、現地へ行くのが一番とFAOの上司からも言われ、先輩からもいわれた。安全対策など、セキュリテイ確認、飛行機の手続き、ホテルの予約、現地との連絡、日程作成、NGO,ほかの国際機関との連絡、などで、現地大使館、日本のNGOにも私が到着することをつたえ、父からも外務省、農水省を通じて、現地の、日本大使館の農業、漁業担当官へ連絡してもらって、わたしがついてからの協力を依頼した。

わたしが、おとずれたのは、ブカブ、ゴマ、の東と、ルムンバシと、ムジマイという3つの地域だ。いずれも、日本の資金で、FAOの農業、漁業プロジェクト視察と同時に、新しいプロジェクトの、作成で、場所えらびと問題点をさがすために、調査、視察が目的だった。ゴマ、ブカブの出張が終わり、キンシャサへかえって翌日に、ブカブでの、銃撃戦が始まったと聞いた。FAOのパートナー候補としておとずれたNGOのいくつかの事務所は、わたしがとまった、ホテルの、前だったが、銃撃戦でこわされたときいた。
ルムンバシでは、ついたときから、国連の日本人女性がくるというので、安全対策長がやってきて、ミズTSUJIですかときかれ、YESというと、すぐ腕をつかみ、あなたを保護する義務があるといわれ、すぐ、2台の国連の護衛者がついてのルムンバシ入りとなった。若い、日本大使か、日本女性閣僚かと、ひとびとがみにきたくらいだ。


50台の車が焼き討ちにあい、FAOの所長の車も、民衆にこわされた。国連軍がいながら、東の地域を統括できない国連の管理に不満があった民衆は、国連の車をねらった。そのため、ムジマイというところから、かえってきたわたしと、モエマは、まず日本大使館から、
外国人、日本人も狙っていると電話をうけた。FAOの所長からも、車を手配するから、待機するように、あるいは、エアーフランスの車が空港からでるときは、一緒に出発するようにとの指示だった。

緊急非難。安全についてのトレーニングをうけて最初のミッションにいったのだが、2004年5月。かえってきたのが、6月。


笑顔で何かを始めようーバンダ・アチェ

2007-05-26 23:12:16 | Weblog
インドネシア、バンダアチェをみてー津波地震災害復興へのちから、バングラデッシュからとどりついたもの、

津波は15メートル。地震がきてあっというまに家族をうしなった、とかたった元農民。
わたしは、津波災害後、FAOのミッションで、日本からの国際機関への資金調達の仕事をしていた。2005年4月20日ころ。

すべてをうしなった、でも泣いてばかりいるのは、やめて、なにかをしよう、笑顔をとりもどして。視察をしているときに、バンダ、アチェに住む男性にであう。子供は3人なくなり両親もなくなり、奥さんだけがのこった。最初はないてばかり。でもあるとき2ヶ月くらいたってから、これではいけない、なにかしないと、そうおもって、まわりをみると、養鶏をしていたところも津波でなくなった。何が必要かときくと、副業でやっていた漁業を本格的にしたいので、ボートの修理のお金と技術、それから、破壊された農地をたがやす鍬と、畑にまく種、農業技術員がいたらいいなとかたった。かれの笑顔はわすれられない。家に案内されていくと、奥さんが夕食の用意をしていて、たくさんのご馳走にみえた。すやすやと眠る赤ん坊はかれの妹の子供。家も、自分たちで修繕をすこしずつはじめたといっていた。国際的な援助はあるかときくと、なにもない、UNHCRがテントをもってきただけだと語った。ここにこれから日本の技術、人的貢献、シルバーボランテイアなど多くの仕事があるだろう。

かれは写真では、子供たちと一緒にうつっているが、やはり生でみると、厳しい顔つきだ。学校も破壊されて、子供たちは、学校にいかず、テントのまわりで、あそんでいるのだ。日本のNGOはきたかときくと、まだだ。ただテントの配給でJICAのテントがあった。でも日本人はまだ来ていないといっていた。JICA,日本大使館も日本のODA援助の、政府方針、政策のため、安全の点からいって、国連職員は国連の安全基準で、ジープで、はいれるところでも、日本人としては、あるいは日本のNGOも日本政府の役人としてもはいれないことがあり、これが、インドネシア、JICA事務所できいた話だった。

経済的貢献は、国民であれば、税金をしはらうことで、ここから国際機関への拠出金がでる。会社ではたらけば、世界経済をうるおうことになり、活発な経済関係
が構築できればそれが国際貢献になる。間接的貢献ともいえるかもしれない。でも今のわたしは、国連での憧れの職業につきアフリカのミッションのあと、津波担当になった。

「笑顔でなにかをはじめよう、泣くのはもうやめて、うしなったものはもうかえらない。」この言葉をきいて再び人生観がひっくりかえった。

紛争後の開発ーコンゴ民主共和国

2007-05-26 20:33:42 | Weblog
アフリカの戦争ー緊急避難と内乱

緊急避難は、FAO本部で、国連の安全トレーニングをうけていったが、実際には、大変だった。予期せぬことがあり、人質、隔離、誘拐、事故、病気、テロロストにであったときどうするか、たべものにあたったとき、あるいは、病院がちかくになく、事故やけがにあったときどうするか、さまざまな場面を想定しているが、実際に、緊急避難はとっさには判断できない。空港も民衆はおそってくるから、コンゴのアシスタントと一緒であればおそわれないから、北のほうへ逃げたほうがいい、コンゴブラザビルのほうへにげたらどうか、湖があるから、船でいける、などなど、情報が錯綜した。モエマは、空港から逃げようといいだす。でも、わたしは、長くアフリカにすむアジア人の友人からの電話をうけた。ホテルと、空港は安全だ。迎えがくるまでじっとして待つように、忍耐、水はあるかの問いに、水はあるが、たべるものはない、というと、今日中に、助けがくるだろうから大丈夫だ。絶対に空港からでてはいけない、銃殺される。まつしかない。何回もの電話をうけて、夜9時すぎ、暗くなってから、わたしとコートジボワールの医師と一緒に緊急避難を行うという国連のキンシャサの決定がでて、医師をさがし、荷物をちかくへまとめ、ベルギー人のコンサルタントもいて、一緒に避難の準備。コートジボワールの医師は、前にもありました、と語る。車がきた、さーとでていき、民間の車で、農作物を運ぶような小さなトラックだ。女性は私一人。前の席にのるようにいわれた。荷物はシートの下にかくし、両脇に、国連軍兵士が銃をもって、安全確保。私の横に、ぴたーと2人がすわり、あさって、パリいきのエアーフランスにはのれるか、ときくと、明日のこともわからに、ここは内乱だ。今から30分後にあなたが生きているという保障はない、今から車で空港から街までつっきるが、ストップしない、でも銃撃されれば、銃撃しないといけない、今は夜だから、チャンスはある、といわれ、からだが硬直し、走馬灯のようにいろいろなことがよみがえった。ああ、開発途上国での希望をしたがここで死ぬのかもしれない、とおもった。ベルギー人は白人なので、後ろの座席のしたにスーツケースをおき、国連軍兵士の指示でいくつかのスーツケースのしたに隠れる形にして、コートジボワール人医師とモエマはコンゴ人で、黒人なので、国連軍兵士10人くらいのなかに、からだを兵士のように外にむき出しにした形で出発した。
このようにして行われた緊急避難は、30分くらいだった。途中で、隣の兵士からこわいか、ときかれ、もちろんだとこたえたが、何回は銃を外にむかたが、発砲せずに国連の事務所へ到着した。そこからまたホテルへわかれて、直行。メームリングホテルについたのは夜中だった。なかなか眠れない。日本大使館から電話がある。報告する。父へ電話してもらうよう頼む。

スーツケースを預けて行ったイタリア人同僚、マッシモの自宅がおそわれたときき、スーツケースはあきらめたほうがいいといわれた。でも、帰りの空港券、現金、資料、本がはいっていて、資料と本はもう二度とここはくることはないから、とコンゴ人現地コンサルタント2人にたのみこみ、普通の車でいってもらった。一緒にいくというと絶対だめだ、あぶないといわれた。ホテルで待機しているあいだに、スーツケースをもってあえってきた。感激した。今でも電話がなると、びくっとする。あのころがよみがえる。でもローマにかえり、緊急避難の際のショックでしばらく、仕事が前のようにできなかった。報告書をかくのに時間がかかったが、かきおえたのが、2004年の9月だった。

今回の経験では、戦争はすべてを破壊するがアフリカは紛争後の開発といっても、いつまた戦争があるかわからないというのが、内戦だったが、戦争があると、ドナー国としては援助を躊躇するだろう。それに、わたしの紛争後の開発のプロジェクト作成に関わるためにコンゴへいったので、本当に、アフリカの開発は、一口にはいえないし、ドナー国へ、状況説明して、さらに援助を増やすことがわたしの、仕事だったために、戦争があると、援助してもお金が有効につかわれたかを知る手立てがなくなると、あとで、アフリカへの開発援助を増やすことはできないかと、日本政府をまわったときに、アフリカはアジアにくらべて、日本の開発援助政策上、重要度が低い、しかし緊急度が高いので、プロジェクトしだいだと思った。

ルムンバシでであった、日本人女性も、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)ではたらいていて、その後、FAOのスタッフとおとずれたUNHCRの事務所もおそわれて、日本へ非難したと聞いた。アフリカでは何人かの日本人女性にであった。高須日本大使も、
日本女性は元気でたくましいですね、というのが最初に、大使公邸での、昼食会のときのコメントだった。

私は野心があり、希望にもえて、アフリカのコンゴ民主共和国へ出発し貴重な経験をしたが、なかでもわすれがたいのは、日本の資金でFAOがコンゴでおこなっている農業プロジェクトを視察にいったとき、アフリカ女性たちは、視察へいくと、とうもろこし畑で陽気に歌をうたっていて、ダンスも披露して歓迎の気持ちを表現してくれた。
赤の如雨露は日本の色、日本ありがとう、と何回もいわれた。水不足もあり、赤の如雨露と、鋤や鍬も古く、いくらあってもたりないくらいだ。

栄養不足で、乳幼児死亡率を低くするためには、栄養学級が必要で、栄養不足で入院するときは、両親も一緒にはいり、栄養指導を受けるシステムだ。写真2は、病院と家庭がはなれているために、農業指導のためにおおきな農場で、FAOのメンバーは定期的に見回り問題はないかときく。FAOが各地でトレーニングで育成した現地NGOの農業指導員が、中心となって、女性を助ける。数年の、活動で栄養状態はよくなったと聞いた。
日本の援助資金の有効な事例ともいえるし、これからアフリカは日本から遠いが、視野にいれた、アフリカは食糧援助が一番大事だろう。

数日間の、ホテル待機中は最後の国内ミッションをおえて、かえったあとの緊急避難だったので、ローマへかえるには、パリ経由ですべてのアフリカへの飛行機はパリが、発着地点のため、エアーフランスはすべて2週間くらいキャンセルとなり、飛行機もひきかえしたときき、エチオピアエアーラインで、フランクフルト経由でパリへ、帰り、その後すぐローマへ戻った。

その後いった、津波地震災害後の、ミッションでの、スリランカ、インドネシア、バンダアチェと大きくちがうのは、アフリカは食糧援助の、重要性が大きいこと、長くつづいた戦争で、米やともろこしの種の研究センターが破壊されて、種自体を外国から輸入する必要があり、たとえば中国も米農場があり、中国からコメの種を輸入している。

日本は、NGOも政治体制がおちつけば、もどってくるだろうし、予測のつかない状況になれば、今は津波地震災害後、アジアに目がむいているので、アフリカはわすれられた、エマージェンシーとFAOでもよくいわれたが、長い目でみた長期的視野をもったプロジェクトが必要だと思う。