この1年にわたるバングラデッシュ滞在期間中は、4回は、パリへかえってきたが、1998年5月に、高熱がつづき、結核かとうたがわれたわたしは、気管支喘息が悪化し、パリの病院で治療をうけるためにパリへもどった。しばらく5年は、南アジアへいってはいけないといわれた。あんなに情熱をかたむけたのに、ずっと途上国の1カ国で、国際機関の、仕事をしていきたいとおもって、夢は実現するとおもってきたが、ここで挫折。
しかし、そこでであった、FAO当時バングランデッシュ事務所長だった、小沼代表に、日本のホテルで、であって、オムライスをたべていたわたしに、どうしてここへきたの、ときかれた。当時、毎日のように、シャルワズ、カミーンズというパキスタンドレスをきて、近くのスラム街や、貧しい地域へUNESCOの研究フェローとして、インタヴューへアシスタントをつれて、朝でかけ、夜かえってきていた。
小沼代表から、もっとも貧しいひとのすむ地域をみることは大事ですよ、と助言を頂いた。
FAOの事務所もおとずれて、タンガイルという、売春婦の子供たちを、集めた学校を視察した。歌を歌って歓迎された。ご飯をください、お水をください、おなかがすいているから、という内容の歌だった。おなかがすいていては、なかなか勉強はできないし学校に行けない実情はわたしには、経験したことのないものだった。開発は教育から始まるとおもしんじていたが、たべること、食料をかうお金がないのは、仕事がなく雇用がすくないからという経済事情にもよる。現金収入になる仕事が必須だと感じた。それで、開発援助は2本立てで、経済発展と教育発展が重要で、マイクロクレジットは、小型かしつけのため、週単位で返還する方法は南アジアの土壌にあっている。南アフリカへいったときは、月単位の返還が南アフリカの黒人社会でおこなわれていた、方法だった。
ダッカ女子大学に身をおき、途上国開発と教育の研究をしていたわたしのテーマは、マイクロクレジットと教育開発というテーマだった。グラミンバンクが、貧しいひとのための銀行として生まれ発展したのは、バングラデッシュだった。ASHAという2番手のNGOは、グラミンバンクとはまた異なり、貸付だけではなく、教育は保健医療といった、統合的プログラムもしていると現地へいってからきいて、興味をもったわたしは、現地のダッカ事務所を訪れた。もうひとつ研究したかったのは、カリタスという現地NGOだった。カリタスは、クルナという南の州で、そこでの現地OFFICEで、ホームステイをしたところだ。
日本人医師にであい、そのころ10時間くらいぶっつけで仕事をしていたわたしは、そんなに仕事をするとからだをこわす、といわれ、実際に熱があったわたしは、日本の抗生物質をのんでもきかず、パリからポールにたのんで、パリの主治医に電話してもらって、くすりの処方箋をかいてもらって、くすりをかいにいってもらって、ダッカまでおくってもらったが、ダッカ空港で麻薬とまちがわれて、10日くらい受け取れなかった。父の友人であるアマッドさんにいってもらって、取りに行ってもらった。何がしかのお金を、はらったのをおぼえている。パリからとどいた抗生物質で、危機はのがれ、発作で命をなくす人もいる喘息の病気は、なんとか、おさまった。
開発援助を語るのが困難なのは、それぞれの国で文化、宗教、言葉、慣習がちがうため、社会のシステムがちがうために、ひとつの理論があってすべての国に適応できる、応用できる理論があればいいのだが、そういう便利なものがない。それぞれの現場でたちあい、経験したひと同士で情報を共有することからはじめたらどうかと、思う。日本人はいい経験と知識を、それぞれの個人はもっていても、あまり共有するということは、苦手なのかもしれないが、これからは、インターネットもあるし、EMAIlで、世界とつなぐことができるのだから、体験記ももっと多くのひとがかいたらいいのではないだろうか。
バングラデッシュも、もう8年前の経験になった。出発点であり、また原点である。