聖書に「懲らしめのむち棒」のことが出ているということで,
激しい論争が生じており、キリスト教においては古くて新しい問題です。
赤毛のアンの時代にも良くそれを問題視する場面がありました。
かっての日本でも日常的に、主人たちの世代なら、そういう親や教師からの体罰、
「ゲンコツ」とか「けつバット」とかあったそうです。
だからと言って主人がそれを恨みや根に持っているようでもなさそうですが……
でも教師が体罰を与えると訴えられることになるほど時代は変わりました。
最初に述べたように、聖書は確かに懲らしめの「むち棒」について言及しています。
これをどのように理解できるでしょうか。
「むち棒」という語は,ヘブライ語のシェーベトを訳したものです。
ヘブライ人にとってシェーベトとは,
羊飼いが用いるような棒または杖を意味していました。その場合に,
権威のむち棒は厳しく残虐な行為ではなく,愛ある導きを連想させます。―詩編 23:4。
「深い陰が覆う谷を歩んでも,
何も悪いものを恐れない。
あなたが共にいてくださるから。
あなたの棒とつえによって安心できる。」または,「慰められる」。
聖書が書かれた時代,羊飼いは羊を捕食動物から守るために棒を使いました。
また,羊を導き,危険な場所に行かせないようにするため,
つえ(先端の曲がった長い棒)も使いました。
聖書で「親が子を愛する」とは、危険を避けたり身を滅ぼしかねない状況に
陥らないように子に対するふさわしい懲らしめも与えます。
そのことをしない親は真に子を愛していることにはならないとしています。
でも、子供を矯正しすぎてはなりません。さもないと,
彼らをすっかり落胆させてしまうことになります。
コロサイ 3章21節(フィリップス訳)には次のように記されています。。
「父親の皆さん,子供をいらいらさせて気落ちさせることがないようにしてください」
実際、幼児をたたいたり揺すったりするなら,
脳の損傷や死という結果にさえ至ることがあるのです。
教え正すという懲らしめの所期の目的を踏み越えるなら,児童虐待に至りかねません。
「苦しみを乗り越える: 児童虐待を受けたことのある大人たちのための,そして彼らに関する本」と題する本は,次のように警告しています。「お尻をたたくことは,けがをさせるほどの力で手加減することなく与えられる場合,児童虐待となり得る。たたくための道具を用いたり,握り拳でお尻をたたいたり,非常に幼い子供をたたいたり,傷つきやすい部分(顔,頭,おなか,背中,陰部)をたたいたりすると,体罰が児童虐待になる可能性は大きくなると考えられる」。
それにしても私はクリスチャンになって40年は過ぎていますが、
子供に鞭を使ったことがないので、半信半疑でしたが、
報道にあるようなものは極端としてもおしりをたたくことは良く行われていたようです。
友は「組織が勧めるはずがないし、あの頃はしないといけない雰囲気だったそう……
大人になって謝り、今でも申し訳なく思っているとのことです。」
誰だって子育ての経験があるなら一度くらいは手を挙げたかもしれないですね。
私も子供たちの寝顔を見ながら後悔して涙を流したことが度々でした。。
子どもは神からの賜物として預けられた者として、
それにふさわしく教育するという責任が伴うのです。
「神の賜物は私たちの側で決められない神の主権的な事柄です。」
と言うある牧師の言葉に同意します。
気を取り直して【今日のK's Garden】です。
梅、今年はあっという間に咲いて散るのも早いです。
葉牡丹、三年目ですが、なんとヒヨドリがまわりを食べてしまいました。
クリスマスローズ、白が先駆けて咲き出します。
どうしてうつむいて咲くのかなと思って、良く見たら上向きの一凛に
水が溜まっていました。中のめしべやおしべが傷むからかな?