【日々雑感】
聖書には,露玉のように爽やかな「若者の隊」について予告されています。
―詩編 110:3。
「 3 あなたが軍勢を指揮する日に,あなたの民は喜んで自分を差し出す。
あなたが率いる若者たちは神聖さで光り輝く。
夜明けに豊かに生じる露のよう。」
露とは、大気中の水蒸気が冷えて、水滴になったもので、その量はおびただしく、若者の隊と呼ぶにふさわしいでしょう。園芸を楽しむ方は、植物が暑さのためにしおれた場合,たとえ雨が降らないとしても、あくる朝、植物がしゃんとして回復していることにお気づきかもしれません。
地球上のあらゆる場所で広く見られるこの大気中の現象は、生命を維持する水蒸気の毛布のような働きをしているそうです。
聖書の説明によれば、まだ地上に雨が降らなかったころの地球の初期には、「霧[蒸気]が地から立ち上って地の全面を潤して」いました。(創 2:6)
クリスチャンの若者の多くは露玉のように試練を経験したとしても立派に成長して露玉を結ぶことが出来ました。若者だけでなく大人の私たちも世の中の風習に抵抗するのが大変だったけど、2世の子供心には計り知れない心痛があったことでしょう。
でも、そこには神の助けがあったと確信しています。私縦が気づかなかったときでも配慮があったこと等思い出しますので、時々はそのことを思い出してみるのは良いでしょう。ある離れた若者が過去のクリスチャン生活を。大学と言う高等教育の論理学や、哲学、科学や数学などにに照らし合わせて、自分の信仰を覆させたけど、一つ最後に残ったのが、「あのとき神が助けてくださったなどと言う実感や経験」だったそうです。それを解決できたのが確率論だそうですが、私には確率論まで持ち出して過去の自分を否定しようとする試みが分かりません。
聖書を学んで真理だと思った人々は多いだろうと思っていたのですが、こんなに批判にさらされるとは想定外でした。もう一つの疑問は聖書や神については一切の言及がないことです。実は神から離れた時点で、神からの愛ある親切や理解の助けが無くなるので、疎外されている点で当然なのかもしれません。
2世はともかく、クリスチャンの仲間には、小学生の時や思春期に自ら聖書を勉強してクリスチャンになった方が多くおられます。学校での問題に耐え、家族からの反対にめげず、会衆からも個性の問題で居場所がないような状況はいかほどのものだったでしょう。それでも神はその仲間たちに寄り添い、愛を示してくだり神の露玉の隊列に並んでおられます。
自然界の涙とも言うべき朝露の優しい美しさに感嘆する時があったなら,
それらの真珠にも勝る若者たちの朝露に感謝したいです。
「神は,温かな憐れみの父,あらゆる慰めの神であり, 4 私たちがどんな試練に遭うとしても慰めてくださいます。それで私たちは,神からの慰めにより,どんな試練に遭う人をも慰めることができます。」コリント第二1:3,4
【今日のK's Garden】私の庭はもてなしの庭でした。
昔のお写真ですので許可を受けてappしていません。面影はあるかな?