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日中  友好さくら植樹 (6)


日中友好 さくら植樹  さくら紀行 (6)

秋の道ーー幻の軍医さんを訪ねて

陳先生、お元気ですか。
今日、8月15日、日本は第47回目の終戦記念日を迎えました。
何年前からだったか確かではありませんが、
少なくともここ数年、
私はこの日には必ず山に登ることにしてきました。
今年は、都心からも近い丹沢山塊の一つ、
大山三峰山に登りました。
正午に合わせて山頂にたどり着く、
これも私が心に決めて実行していることです。
正午に、我が国ではおそらくこれも恒例の、
日本武道館で黄菊白菊で飾った戦没者への追悼式が行われ、
天皇外政府高官、一般の方々が追悼するのです。
しかし、それは先の大戦で散った三百万余りの同胞だけで、
二千万人にものぼるアジア太平洋の戦争犠牲者には
及ばないのです。
正午、私はこの悲しい心の中のサイレンに合わせ、
はるか丹沢本峰の方へ向かい黙祷と合唱をして、
二千万人もの霊を追悼いたしました。


私たち、「昭和ひとけた」生まれの世代の大部分は、
実際に銃を取る事はありませんでしたが、
しかし、太平洋戦争とりわけ真珠湾以後の戦争の
残酷さについての記憶は鮮やかに胸中に残っています。
そして、戦後47年間の間に、
私が見聞した様々な苦い事柄を思う時、
未だ私たちは、戦争と言うものの後遺症を重く、
引きずっていると言えるのです。
歴史の発展と言うものが非情にも、
かくも多くの人間の血を生贄にするのでしょうか。
そして、今なお世界各地で血なまぐさい民族戦争、
宗教戦争の続いている現状を、
一体私たちはどう考えどう理解すれば良いのでしょうか。

さて、私はこの稿を、
三峰山頂のたおりの緑陰の中で綴っています。

陳先生、先にお約束した通り私は7月19日博多に、
幡中軍医さんを訪ねるために東京を出発しました。
途中、京都でちょっと仕事がありその日の京都の宿に、
福岡の浜月川先生から電話が入りました。
それによりますと、幡中元軍医さんから私宛に電話が入り、
「妻が急に入院することになり、
その時間に編集長にお会いできない旨、
そして陳先生のお母様のお命を助けたことを云々に関しては、
既にお母様が亡くなられている事でもあり、
このままそっとしてほしい」との伝言があったとの事でした。
先に、今度の私の福岡行き、
そして、幡中元軍医さんの訪問をお知らせしてあった、
新聞記者にそのことを申し伝えました。
とにかく詳しいこと話をお聞きしたいのでと言うことで、
私はそのまま博多へ入り記者をお尋ねしました。
戦後派の記者、戦中派の私がそこでいくら推測し論議しても
到底、あの時代その時代の、
戦争の修羅場に迫ることなどできないでしょう。
元日本人軍医が中国の一女性の命を助けると言う、
美談を取り囲む様々な障害のあることを、
私たちは認めなければなりませんでした。
「ともかく、あのわが社の記事の後、前川、幡中、黒坪、
外に見習いの若い軍医さんと四人もの当時の軍医さんに
辿り着かれたこと、
そしてそこに、歩兵独立第124部隊、田辺中尉の率いられた、
特殊な部隊があった事がわかっただけでも大変な収穫ですね。
ご苦労様でした。
8月15日終戦記念日に、
終戦記念特集の記事が組まれてますので
その折、さっきの記事の追跡報告といった形で、
そのことを私が記事に書きましょう。
さしあたり、謎の軍医さんとでもタイトルしましょうか」

さて、こうして、直接幡中軍医さんにお会いして、
細々としたことを聞く事はできませんでしたが、
今、病床におありと聞く黒坪元軍医さん、
先にお会いしました前川元軍医さん達の、
在りし日のことを考えておりますと、
どうしてもこの方々の所属されていた部隊、
そして部隊長の田辺元中佐のことが私にとっては
気にかかり続けるのでした。

先号で述べましたように、
田辺元中佐のことを書かれました
作家伊藤先生からのお知らせで、
氏が広島県上下町ご出身と聞きました。
すでに私の元には氏の房子夫人、並びご兄弟の方々からも、
氏の生い立ち、氏の青春、氏の思想なりが
断片的に語られています。
私は、来たる9月14日、緑豊かな山並みに囲まれた街と聞く
上下町に氏の面影を尋ねてみようと考えています。


私が、緑陰の中でこのペンを進めている間も、
行く夏を惜しむかの様に激しい蝉しぐれです。
この騒ぎたてるような音も、今の私には、
なぜか心に染みる静かな音楽のようにさえ感じられます。
陳先生、戦後のわが国は、その著しい経済発展で、
途方もない拝金、実利主義の風潮があることを、
先生は今回の日本ご留学でご体験なさったかもしれません。
私は、過去を克服し、様々迷惑をかけた周辺諸国と
未来に向かって真の和解を考えるにあたっては、
一人一人が人間の尊厳、人類の共存と言う大義について
深く考えていかなければならないのだと思います。
今回の陳先生のお母様の命の恩人探しは、
まさに私にとっては、過去を内面的に理解し、
自分のものにし、それを未来に向けていかに生かすか、
との課題を与えられたものでした。
47年前の終戦記念日に合わせて、戦時の日本の行動に対して、
深い疑義の念を叩きつける、
テレビ、新聞報道は溢れています。

私は歴史の素人です。
一人一人は温和で新規的な私たち日本人が、
なぜ、集団になると、
南京大虐殺に代表される残虐行為に走ったのか、
集団への献身はどうして個人としての
責任意識を希薄にするものなのか。
まだまだ熟慮しなければならないことがたくさんあります。
多くの中国の方々が外交上手だから
露骨にはおっしゃいませんが、
過去の恨みを忘れてはおられない現実の中で、
あなたが、私の親愛なる友として、日本人軍医に対して、
あるいは、その部隊に対して深い感謝の念を持っておられることに、
私は言い知れぬ喜びを感じております。
9月の田辺元部隊長のご出身地、
広島県上下町をお訪ねしてからの「道」がどう展開されるか、
私にも勿論予想はつきません。
日中友好への一里塚になればと思う淡い気持ちで、
私は私の好きな上下町を訪ねる「秋の道」を
待ち望んでいます。

                  季刊 ふるさと紀行 平成4年秋の後掲載



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