私がまだ若かりしころ、「世界から戦争をなくしたい。」と強く願いました。
それは今でも、その志は変わりません。
そして宗教が、世界の戦争の大きな要因になっていることを知ったときは、「神を信じる者同士が、信仰の違いのために殺しあう現実を、神仏はどうお考えか?」を思うとき、私は神仏が気の毒で、胸が張り裂けんばかりでした。
「神など信じるから戦争が絶えないのだ。」と、良心的な思いで無神論・無宗教になる方も多いと思います。
しかし世界のもう一つの現実は、無神論・唯物論を是とした共産主義国家において、奥の単位で粛清が行われている事実から目を背けるわけにはいかないのです。
これは、「原因の根底に宗教の違いがある」と言われている、有史以来の戦争の歴史における戦死者の、少なくとも10倍以上の尊い犠牲であるのです。
私が初めて触れた宗教書は聖書でした。
生まれた家は日本神道ですし、母方の里は真言宗でしたので、祝詞や般若心経などが近しいのですが、若い頃は「聖書を読まねば、世界の歴史や、海外の人たちの考え方がわからない。」と、社会科的発想で聖書を読んだのです。
そして縁あって、法華経を読んだとき、私は少なからず驚愕しました。
それは法華経の内容に、聖書にとてもよく似た箇所があったからです。
それは、【化城の喩】(けじょうのゆ)というたとえ話です。
法華経は、【法華七喩】 と言って、たとえ話が数多く出てくる経文なのですが、その中の化城の喩が、私には旧約聖書の【出エジプト記】に、大変よく似た内容に思えたのです。
あるところに、砂漠を旅するキャラバン隊がいました。
もう長いこと旅を続けて来た彼らは、すっかり疲れきっていました。
「これでは、旅を続けることはできない・・・。」
そう判断したキャラバン隊の隊長は、彼の持つ神通力で、幻のお城を隊員たちに創ってみせました。
「さあみんな、城があったぞ。みんな、ここで休もう。」
そう言って、隊長は隊員たちを、神通力で創ったお城で休ませました。
そして、神通力で食べ物や飲み物も創り出し、隊員たちに、たっぷりを休養を取らせました。
隊員たちは元気を取り戻しました。そして隊長は、
と、隊員たちを励まし、お城を出て、再び旅に出ました。
お城は、隊員たちが出たあと、忽然と消えてしまいました。
隊員たちは、不思議がりました。
「隊長。今まで私たちが休んでいた、お城がありません。」
隊員たちが、隊長に問いかけました。
隊長は、みんなにこう告げました。
「あれは私が、神通力を使って創り出したものだったのだよ。」
これが法華経法華七喩の中の、化城の喩です。
このたとえ話の真意は、仏教解釈的には諸説あろうかと思います。
しかし当時の私には、このたとえ話が、出エジプトをなしたモーゼの姿を仏陀が見たことがあって、それを弟子たちに語ったのではないか?」と思えたのです。
いや、その時には、そうとしか思えませんでした。
「だとすれば」
そして私は、
インドで見る太陽も、エジプトで見る太陽も、イスラエルで見る太陽も、サウジアラビアで見る太陽も、存在は一つです。
たとえ、人がそれぞれ太陽のことを語ったとしても、人の数だけ太陽があるわけではありません。
今も昔も、太陽は一つです。
正しい宗教は、同じ光を見て創られたのではないか。
それが証明できれば、世界を救える。
かつて、法華経至上主義であった日蓮聖人の真意も、もしかしたら、そこにあるのかも知れない。
生まれて初めて法華経に触れた私は、そう思うに至ったのです。
私の叔父が、若くして病気で亡くなりました。
実は私にとっては、生まれて初めて、肉親の死の経験でした。
私は、とてもショックでした。
それは当時の私が、独学とは言え既に宗教を研究していたのも関わらず、死の意味がわからなかったからです。
文献研究のみの限界を、その時に激しく悟りました。
そして、看護師として働き、糧を得ている立場としても、死の意味を知らないことは、とても恥ずかしいことだと思いました。
当時の私は、職業柄、人の死にあまりにも慣れ過ぎていたと思います。
肉親の死は、それを私に痛感させました。
私は慟哭の通夜の後、母に訊ねました。
私に似て、天然の母はこう答えました。
母は、生真面目に答えました。
当時の私は、年上の大人は、当然そういうことは、知っていると思っていたからです。
母は続けて言いました。
私は母に問いかけました。
母曰く。
そして、
「俺の母ちゃんって、スッゲー!!」
と、生まれて初めて(笑)、強く母をリスペクトしたのでありました。
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2017年エル・カンターレ祭
演題 愛を広げる力
本会場 幕張メッセ
衛星会場 全国の支部・精舎
開催日 12月7日(木)18時30分~
高知支部精舎〒781-8105 高知県高知市高須東町2-11
TEL:088-882-7775
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「人生の意味とは」 幸福の科学大川隆法総裁御法話抜粋
(前略)霊界からこの世を見てみると、「この世は非常によい教訓の場なのだ」ということが分かります。
霊界は自由な世界ですが、その霊的な自由が、霊界に住んでいては、なかなか分かりません。
この世に生まれてみて初めて、霊的な自由の持つ意味が分かるようになります。
そのため、苦しいけれども、何度も何度も、この世に生まれてくるのです。
苦しいけれどもマラソンの好きな人がいるように、あるいは、苦しいけれども水泳の好きな人がいるように、「苦しいけれども、一定のルールのなかで自分を試してみたい」と思うわけです。
マラソンで四二・一九五キロを走るのも、水泳をするのも、柔道場で柔道をするのも、どれも苦しいことですが、みな、やめようとはしません。
なぜでしょうか。
自分の力、能力の限界を試してみたいからです。
「ハンディ(不利な条件)のあるなかで、それを打ち破って生きてみたい。尊敬されてみたい。立派な自分になりたい」と思うからです。
そういう理由で、この世という特別な世界のなかに生まれてくるのです。
不思議といえば不思議ですが、それが仏や神の意地悪でないことは、この世に生きている者の寿命が限られていることで分かります。
「霊界という自由な世界があるにもかかわらず、この世で永遠に生きなければならない」ということならば、それは意地悪でしょうが、この世での寿命は限られています。
人間で百年ぐらいであり、動物はもっと短いのです。
昆虫はさらに短くて、一年以下が多く、非常に短い命です。
したがって、「限られた寿命のあいだであるから、完全には分からなくても、やむをえない。分からないからこそ努力するのだ。目隠しをされて目が見えないような状態で、いろいろ苦労をして、別の意味での経験を積み、力をつけているのだ。それは、ちょうど、山登りをしているようなものである。そういう苦労をみずからに課して、魂を鍛えているのだ」と考えればよいのです。
『神秘の法』(幸福の科学出版)P244~246
「転生輪廻」
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