業を浄めるという題を出しましたけれども
業というものは非常にやっかいなものでしてね、
本当に次から次から湧いてくる。
この間も質問があって、五井先生、なくなる時に
業を全部持っていくといって、後カスみたいな
ものだと言ったけど、あれは嘘だったのかというね、
そういう質問がくる位、肉体の人間というものは
業を湧かせますでしょ。
業といったらちょっと言葉がきついけれども、
こうして欲しいああして欲しい、こうなりたい
ああなりたい、ね、そういうものもやっぱり度が
過ぎると業になっていく。それだけならいいけど、
念になってね、そうして、その想いというものは
いつも申しますように飛びますでしょ、飛んで
色んな所へ行きますよ。
例えば、皆さん気がつかないけれど、眠ってる
間に、自分の友達が死にそうだとか、何か心配事が
ある、離れてる人がいるなんていうと、あなた方の
霊体のね、一番動きやすいところへさあっと飛んで
行って、そして、その人の枕辺に行って慰めたり
手を握ったり光を与えたりして、さあっと帰って
来る。そういうことは皆やっているんです。ただ
それを気がつかないだけの話でね。浄めてるんですね。
だけど、実際に業というものはやっぱり
生きている証かと思う位湧いてくるね。業と
いうものに把われても、もう把われたら最後
いっぱいになるでしょ。
生きてる時も死んでからも本当にまあずっと
浄め続けていますけれどね、ただ、業を浄める時にね、
皆さん浄める立場の方だから申し上げますけれど、業
というものに対して、やっぱり恐れるとかね。
例えばですよ、どこかお家を浄めてください。すごい
病人がおります、浄めて下さい。想いがくっついて
来ますよ。だから、〇〇さんなんて、いつか病気に
なったんじゃなかったかな。出すぎてね、印を
もらっちゃった時にね、あれだって、病気になる
というのはね、こっちから見ていると大変なこと
だけれども、あれで、体の中の余分な、〇〇さんの
業なら業というかなあ、そういうものに対する抵抗力
ですよね。それをつける為に病気にさせて、病気が
治ったとたんにというか、病気をとり去った時に、
光がうーんと中へ入って、そして浄める力というのが
うんとアップするように、病気をするということは
そういう事です。病気をするということは、熱を出す
ということでも何でも、浄化作用なんですね。だから
その時に、ああ病気になってありがとうございます
と言えたら一番いいんだけれども、苦しいのが
先にくるね。だけども、煎じ詰めて言えばそういう
ことですね。
業を浄める時にね、一番大事なのは恐怖心をなくす
ことね。それから、私がいつも言ってますように、
私がやるんじゃないということ、神様がさせて
下さる。守護霊さん守護神さんがついてて下さる。
お浄めする相手にもね、どんな人にでも守護霊守護神
というものがついてましょ。だから、その人たちから
頼まれて私は代理人でやるんだから。私がやるんじゃ
なくて、私の後の神霊が動くんですね。あるいは
五井先生が動くんです。あるいは、五井先生を
通しての神様の愛情が動くんですね。そこをちゃんと
見てますとね、私の体を使って私の祈りを用いて
私の言葉を用いて、実は、そういう大愛というものが
動くから、だから、スーッと色んなものが上に昇って
いくんですよ。
この間、ほら、五井先生がどうのこうのというの
大変だったでしょう。あれだってもうちょっとね、
君がさ、きっちり信仰してればといったらあなたを
責めることになるかもしれないけれども。君だって
皆そうだけれども私に出来るだろうかというのが
あるから、ある間はやっぱり昇り切らないんだよ。
印をきる時だって、私がやるんじゃないんです。
任せてしまって、向こうから力がきて
エネルギーがきて、いつの間にか消えるんですよね。
そういうもんなんです。
浄めるということは祈るということといっしょなの。
祈るということは自分をなくすことですと先程
言いましたよね。なくする練習をすることです。
浄めるということはもっとすごいでしょ。もっと
色んな想いとか病気とかいうものをねえ、浄めて
下さいとか、浄めることによって窮地から脱却させて
下さいとか、そういう色んな人の想いを
受けますでしょ。受けて受け取ったまんま、
苦しいまんま印をきったってしょうがない。仕方が
ない。それじゃあ駄目なのね。それは、業という
ものは消えるんだから。色んな意味でです。神様
すいませんお願いしますと言ったとたんに神様が
受けとって下さってるんですよ。目には見えなく
てもね。そこをちゃんと信じて、そこをおもいながら
祈って統一して、印なら印をきらないと。僕みたい
なのがやって出来るかなあとかね、私みたいなのが
やって出来るかしらとかね。それがやる間ってのは
あれは大変ですよ。上に昇らない。昇りきらない。
もうちょっとなんだよね。又別の課題を
出しますから、その時にはちゃんと今度は切るんだよ。
結局ね、自分がさせていただいているというのを
もう少し進めていくと、私がするんじゃないになる
でしょ。そして、私がするんじゃないというのを
もっと進めていくと、神様の愛がこの業を消して
下さるんだでしょ。業というものはなくなって、
光になっていくということになりますね。
闇というものはないんです。本質的に言えば。
本来の世界から言えばね。だけど、闇と見える
ものはいっぱいあるんですよ。その闇と見えるものを
闇だとおもい間違えてね、とらえ間違えて、そこへ
引っかかっちゃうと、苦しくって苦しくってしょうが
なくなる。例えば、痛みがくる、痛みが辛い、
もう本当に痛みが辛いという時に、その辛い辛い
つらいで辛いにひっかかってるとね、その痛み
そのものがずっと続いていきますよ。頭の中から
心の中から離れないから、あるいは、体から
離れないように自分でぐっとおもっちゃってるから。
ところが、痛みの最中でも、誰かから電話が
かかってくるとか、何かしなきゃなんないことがある
とか、何かそういうことがあると、何分間かでも
その痛みを忘れているということがありましょう。
あら痛みが消えてる、何故か。その時に、そういう
仕事を通して守護の神霊がね、後で、痛みどころじゃ
ない、何かそういうものがあるんだよということを
皆さんに知らせるんですよ。皆さんだって、そういう
意味で、祈りじゃなくったってちゃんと統一
できるんですよ。そういう体を持っているんです。
肉体というものは業がとっつきやすいかも
しれないけれども、本来の皆さんの心だって
本心だって体だってね、痛みとか業とか把われとか、
そういうものが寄りつきっこない体になってるんです。
人間の体というものはそういうもんなんですね。
本当の自分自身に返す為にお浄めするんだということ
ですよね。
五井先生なんかは、もう私もあなたもないし。私はね、
本にも書いたけれど、色んな人が来ますよ。そして、
ひどいのになると、先生、受験を受からして下さい
とかね、色々ありますって。そういう人の色んな想いを
お浄めする時に、何とお浄めするか、一つしかない。
この人の天命が完うされますようにしかないんです。
それによってそりゃあ運命修正してゆきますよ。それ
によって叶えられることがある。
斉藤さんだってさ、巡講した時に、斉藤さんの話を
聞いただけで足の痛みが治りました、入院してたのに
退院できました、とでてくる。それで斉藤さんは、何か
あの先生が来ると奇跡が来るとか言われて困ってさ、
私にこぼしたことがあるけれども、そういうことじゃ
ないんです。本当はね。それは、ちゃんと喜びを
分け与えるんだけれども、そういうことじゃなくって、
斉藤さんなら斉藤さんが、村田さんなら村田さんが、
高橋君なら高橋君がね、無になって、そうして神様の
言葉をしゃべってる時に、本当に自分というものを
忘れて、神様だけのおもいで一杯になって言葉を
しゃべっている時に、やっぱり、その人はその人
なりに皆光になるんですね。誰一人として、この人の
光が高い、この人の光が低いというものはないんですよ。
だから、その時斉藤さんの話を聞いて、村田さんの
話を聞いて、ね、病気が治ったとか痛みが少なくなった
とかということになれば、それはその二人を通して、
その一人一人を通して、神様の光がパーッと
行ったんですよ。そこまで。そういうことなんです。
例えば、ここから北海道の誰それの為に祈ると
いっても、離れているからなあーとか想いながらお浄め
したら駄目ですよ。想いが入っちゃあ駄目なんです。
そういう人間の想いが湧いてくるのは当然だけれども。
しかし、神様ってものは、どんなことでも出来る。
何でも出来る。癒し方は我々の都合とは違うかも
わからないけれども、決して我々を悪くなさらない
方でしょ。だから、神様の中に想いを投げ込んでね、
そして、お願いしますといって、叩いたり印を切ったり
しちゃえば、その光というのはすごい光が
いきますからね。そこを信じることですね。色んな
業がありますよ。もう間断なく来ますね。だけども、
その業の数よりも量よりも神様の愛の方が、何十倍
何百倍何千倍深いか分からない。そうでなかったら、
地球だけでなく宇宙ってものはとっくの昔に
潰れちゃってね、人間なんてものもとっくの昔に
死んでますよ。死滅している。それがこうやって
生きてられるというのは、神様の愛というものが
何物にもまして優っているからです。ただ物だけの
世界だったら、ただ科学だけの世界だったら、祈りの
ない世界だったら、もうとっくの昔に色んな所で
戦争が始まって滅んでますよ。
我々は滅びのない生命へ向かう為に祈りを
やっている。その滅びのない生命というのは、ただ
我々だけが助かろうとか、我々だけの神様であって
欲しいとか、愛念であって欲しいとか、そういう利己を
求めての祈りではないわけです。我々の本来心
というもの、本心の座というものね、そこへ深く
信頼して、それが皆の生命の中に平等にあるという
ことを思って、そして、その光のおもいを世界中に
まくんだ結ぶんだという信仰でもって、この祈りを
ずっと続けていった時に、私達のこの祈りというものは、
ただ本当に光になって光明になってかけ巡るんです。
だから、私よりもあの人の方が経験があるからとかね、
そんなことは、神様から見たら問題じゃありません。
あなた方の魂というのはだいたい古いんだからね。皆
それ相応に古いんですよ。誰が特別古いとかいうんじゃ
なくって皆古いんです。古い魂をもった人たちが、
何十代何百代と生きてきて、五井昌久に会ったんです。
だから、あなた方に印をきれとか、何とかという。
私に出来るだろうかという様なことをいう時と
いうのは、あなた方がやるんじゃないの。あなた方を
通して神様が働くんですよ。私に出来っこないとかね。
そんなこといってたらいつまでたっても地上の
光明化というのは、狭い範囲でしか出来ていかないん
ですね。そんなことでは駄目なんです。
世界平和の祈りというのは、人間本来の生命に
根ざしたエネルギーというものをね、それぞれの立場の
人達の心の中に植えて、そうして、それを引き出して
広がらせる。そういうものすごい力を持っている。
だから、ピースポールが一本しか立たないとか何とか、
そんな小っぽけなこと考えるなということですよ。
ピースポールが一本立つか立たないかというのは、
それはその時の時期の問題ね。色んなことが
からまってるんです。で、その色んなことがからまる
上に、皆の想いとか思惑(わく)とか、そういうものが
邪魔をしちゃあ駄目なんです。何事も神様が
いいようにして下さる。だから、そこへ向かって、
想いを明るく切り変えてね、そうして精進してゆく。
するだけのことはしました。後はお任せしますってね、
ということばがありますよ、あれなんですね。
イエスの十字架だってそうです。釈迦だって
そうですよ。大涅槃に入ってね、後は、あれはお任せ
しますなんです。任せるということがないことには
宗教というものは本当には根づいてゆかない。我々を
導く生命の根元の神様の大愛というものがあるという
ことを信頼しないことには、我々の信仰というものは
深まってゆかないんです。
何も無理なこととか、あなた方の分相応以上の
ことを突然やらせようなんてことは誰も思わない。
だけども、あなた方がこれが私の分相応だとか、
これ以上私は出来ないとか思ってるその枠というものを、
神様というのは守護の神霊というのは取っぱらってね、
本当の人間というものはそんな小っぽけなもんじゃ
ないよ、あなた方の中にも本当の人間が息づいて
いるんだよということを知らせよう知らせようと
している。だから一番いいのは、私は何も
出来ないけれど、神様がさせて下さるんだったら
私はやりましょうという、そういう心ですよ。
そういう心でもって、皆で和顔愛語でやってかないと。
神様の言葉だからといって、しかめっ面で
やっていっちゃあ駄目。和顔愛語なんです。色んな
人がいるんですから。色んな人の悲しみがあり
悩みがあり苦しみがあるでしょう。それをね、
溶かしてゆくのは柔らげていくのは笑顔なんです。
何をどう難しいことを真理の言葉を言えるか
言えないか、そうじゃない。やっぱり笑顔なんです。
笑顔というものはね、色んなものをとかしますよ。
色んな立場の人、たとえ宗教の人であっても何
であっても、笑顔というものを見た時に、人間
というものはやっぱり慰められるね。笑顔には
ぬくもりがある。笑顔とぬくもりというものでもって
人間は息づいていくんです。ほっとするんです。
何故かというと、その笑顔とぬくもりの中に神様の
愛の源というものはあるんだから。
だから、難しいことを言おうとかね、これは
こう言わなきゃいけないとかね。ねばならぬからは
何も生まれてこない。ねばならぬと思わないで
神様に任せてしまえばね、そこから言葉も出てくる、
想いも出てくる、ね。真理の言葉だって、自分が
こんなことを言おうと思わなくったって、色んないい
深い言葉が出てくる。口をついて出てくる。それは
神様がしゃべらせて下さる。語らして下さる。
あるいは、そこへおもむかせて下さる訳ですから。
だから、人間への他力本願ではなくて、本当の意味で
神様に任せて、他力になって、そうしてその他力に
なった上での自力をね、自分の努力をね。自分の癖は
自分がよく知ってましょ。だからその癖をよくとらえて、
自分が息をしやすいように、決して自分に無理が
いかないようにね、自力と他力を融合させて明るい
生命の宗教というものを作っていかないといけない。
それが、私が大神様から命じられたことなんだから。
今、もう人類が、人間がね、分かれて、ああだこうだ、
こっちだあっちだと言ってる。そういう時代じゃ
ないんです。どんな人でも、とに角、結び合って
寄り合って生きていける、そういう世界をつくってゆく。
それが神様の本来の願いなんだから、祈りなんだから、
その心で人間が皆ここへ来ているんですからね。その
為に皆が生きてる訳だから。そこへ目指しての祈りを
やっていかなきゃいけません。ね、だから、私は
出来ないというのだけはやめて、私にさせて下さい、
何が来ても、私は出来ないと思うかもしれないけれども、
次の瞬間には、神様、あなたの中に全部放り込みます、
というそういう信仰を養っていただきたいと思います。
昭和63年8月26日
業というものは非常にやっかいなものでしてね、
本当に次から次から湧いてくる。
この間も質問があって、五井先生、なくなる時に
業を全部持っていくといって、後カスみたいな
ものだと言ったけど、あれは嘘だったのかというね、
そういう質問がくる位、肉体の人間というものは
業を湧かせますでしょ。
業といったらちょっと言葉がきついけれども、
こうして欲しいああして欲しい、こうなりたい
ああなりたい、ね、そういうものもやっぱり度が
過ぎると業になっていく。それだけならいいけど、
念になってね、そうして、その想いというものは
いつも申しますように飛びますでしょ、飛んで
色んな所へ行きますよ。
例えば、皆さん気がつかないけれど、眠ってる
間に、自分の友達が死にそうだとか、何か心配事が
ある、離れてる人がいるなんていうと、あなた方の
霊体のね、一番動きやすいところへさあっと飛んで
行って、そして、その人の枕辺に行って慰めたり
手を握ったり光を与えたりして、さあっと帰って
来る。そういうことは皆やっているんです。ただ
それを気がつかないだけの話でね。浄めてるんですね。
だけど、実際に業というものはやっぱり
生きている証かと思う位湧いてくるね。業と
いうものに把われても、もう把われたら最後
いっぱいになるでしょ。
生きてる時も死んでからも本当にまあずっと
浄め続けていますけれどね、ただ、業を浄める時にね、
皆さん浄める立場の方だから申し上げますけれど、業
というものに対して、やっぱり恐れるとかね。
例えばですよ、どこかお家を浄めてください。すごい
病人がおります、浄めて下さい。想いがくっついて
来ますよ。だから、〇〇さんなんて、いつか病気に
なったんじゃなかったかな。出すぎてね、印を
もらっちゃった時にね、あれだって、病気になる
というのはね、こっちから見ていると大変なこと
だけれども、あれで、体の中の余分な、〇〇さんの
業なら業というかなあ、そういうものに対する抵抗力
ですよね。それをつける為に病気にさせて、病気が
治ったとたんにというか、病気をとり去った時に、
光がうーんと中へ入って、そして浄める力というのが
うんとアップするように、病気をするということは
そういう事です。病気をするということは、熱を出す
ということでも何でも、浄化作用なんですね。だから
その時に、ああ病気になってありがとうございます
と言えたら一番いいんだけれども、苦しいのが
先にくるね。だけども、煎じ詰めて言えばそういう
ことですね。
業を浄める時にね、一番大事なのは恐怖心をなくす
ことね。それから、私がいつも言ってますように、
私がやるんじゃないということ、神様がさせて
下さる。守護霊さん守護神さんがついてて下さる。
お浄めする相手にもね、どんな人にでも守護霊守護神
というものがついてましょ。だから、その人たちから
頼まれて私は代理人でやるんだから。私がやるんじゃ
なくて、私の後の神霊が動くんですね。あるいは
五井先生が動くんです。あるいは、五井先生を
通しての神様の愛情が動くんですね。そこをちゃんと
見てますとね、私の体を使って私の祈りを用いて
私の言葉を用いて、実は、そういう大愛というものが
動くから、だから、スーッと色んなものが上に昇って
いくんですよ。
この間、ほら、五井先生がどうのこうのというの
大変だったでしょう。あれだってもうちょっとね、
君がさ、きっちり信仰してればといったらあなたを
責めることになるかもしれないけれども。君だって
皆そうだけれども私に出来るだろうかというのが
あるから、ある間はやっぱり昇り切らないんだよ。
印をきる時だって、私がやるんじゃないんです。
任せてしまって、向こうから力がきて
エネルギーがきて、いつの間にか消えるんですよね。
そういうもんなんです。
浄めるということは祈るということといっしょなの。
祈るということは自分をなくすことですと先程
言いましたよね。なくする練習をすることです。
浄めるということはもっとすごいでしょ。もっと
色んな想いとか病気とかいうものをねえ、浄めて
下さいとか、浄めることによって窮地から脱却させて
下さいとか、そういう色んな人の想いを
受けますでしょ。受けて受け取ったまんま、
苦しいまんま印をきったってしょうがない。仕方が
ない。それじゃあ駄目なのね。それは、業という
ものは消えるんだから。色んな意味でです。神様
すいませんお願いしますと言ったとたんに神様が
受けとって下さってるんですよ。目には見えなく
てもね。そこをちゃんと信じて、そこをおもいながら
祈って統一して、印なら印をきらないと。僕みたい
なのがやって出来るかなあとかね、私みたいなのが
やって出来るかしらとかね。それがやる間ってのは
あれは大変ですよ。上に昇らない。昇りきらない。
もうちょっとなんだよね。又別の課題を
出しますから、その時にはちゃんと今度は切るんだよ。
結局ね、自分がさせていただいているというのを
もう少し進めていくと、私がするんじゃないになる
でしょ。そして、私がするんじゃないというのを
もっと進めていくと、神様の愛がこの業を消して
下さるんだでしょ。業というものはなくなって、
光になっていくということになりますね。
闇というものはないんです。本質的に言えば。
本来の世界から言えばね。だけど、闇と見える
ものはいっぱいあるんですよ。その闇と見えるものを
闇だとおもい間違えてね、とらえ間違えて、そこへ
引っかかっちゃうと、苦しくって苦しくってしょうが
なくなる。例えば、痛みがくる、痛みが辛い、
もう本当に痛みが辛いという時に、その辛い辛い
つらいで辛いにひっかかってるとね、その痛み
そのものがずっと続いていきますよ。頭の中から
心の中から離れないから、あるいは、体から
離れないように自分でぐっとおもっちゃってるから。
ところが、痛みの最中でも、誰かから電話が
かかってくるとか、何かしなきゃなんないことがある
とか、何かそういうことがあると、何分間かでも
その痛みを忘れているということがありましょう。
あら痛みが消えてる、何故か。その時に、そういう
仕事を通して守護の神霊がね、後で、痛みどころじゃ
ない、何かそういうものがあるんだよということを
皆さんに知らせるんですよ。皆さんだって、そういう
意味で、祈りじゃなくったってちゃんと統一
できるんですよ。そういう体を持っているんです。
肉体というものは業がとっつきやすいかも
しれないけれども、本来の皆さんの心だって
本心だって体だってね、痛みとか業とか把われとか、
そういうものが寄りつきっこない体になってるんです。
人間の体というものはそういうもんなんですね。
本当の自分自身に返す為にお浄めするんだということ
ですよね。
五井先生なんかは、もう私もあなたもないし。私はね、
本にも書いたけれど、色んな人が来ますよ。そして、
ひどいのになると、先生、受験を受からして下さい
とかね、色々ありますって。そういう人の色んな想いを
お浄めする時に、何とお浄めするか、一つしかない。
この人の天命が完うされますようにしかないんです。
それによってそりゃあ運命修正してゆきますよ。それ
によって叶えられることがある。
斉藤さんだってさ、巡講した時に、斉藤さんの話を
聞いただけで足の痛みが治りました、入院してたのに
退院できました、とでてくる。それで斉藤さんは、何か
あの先生が来ると奇跡が来るとか言われて困ってさ、
私にこぼしたことがあるけれども、そういうことじゃ
ないんです。本当はね。それは、ちゃんと喜びを
分け与えるんだけれども、そういうことじゃなくって、
斉藤さんなら斉藤さんが、村田さんなら村田さんが、
高橋君なら高橋君がね、無になって、そうして神様の
言葉をしゃべってる時に、本当に自分というものを
忘れて、神様だけのおもいで一杯になって言葉を
しゃべっている時に、やっぱり、その人はその人
なりに皆光になるんですね。誰一人として、この人の
光が高い、この人の光が低いというものはないんですよ。
だから、その時斉藤さんの話を聞いて、村田さんの
話を聞いて、ね、病気が治ったとか痛みが少なくなった
とかということになれば、それはその二人を通して、
その一人一人を通して、神様の光がパーッと
行ったんですよ。そこまで。そういうことなんです。
例えば、ここから北海道の誰それの為に祈ると
いっても、離れているからなあーとか想いながらお浄め
したら駄目ですよ。想いが入っちゃあ駄目なんです。
そういう人間の想いが湧いてくるのは当然だけれども。
しかし、神様ってものは、どんなことでも出来る。
何でも出来る。癒し方は我々の都合とは違うかも
わからないけれども、決して我々を悪くなさらない
方でしょ。だから、神様の中に想いを投げ込んでね、
そして、お願いしますといって、叩いたり印を切ったり
しちゃえば、その光というのはすごい光が
いきますからね。そこを信じることですね。色んな
業がありますよ。もう間断なく来ますね。だけども、
その業の数よりも量よりも神様の愛の方が、何十倍
何百倍何千倍深いか分からない。そうでなかったら、
地球だけでなく宇宙ってものはとっくの昔に
潰れちゃってね、人間なんてものもとっくの昔に
死んでますよ。死滅している。それがこうやって
生きてられるというのは、神様の愛というものが
何物にもまして優っているからです。ただ物だけの
世界だったら、ただ科学だけの世界だったら、祈りの
ない世界だったら、もうとっくの昔に色んな所で
戦争が始まって滅んでますよ。
我々は滅びのない生命へ向かう為に祈りを
やっている。その滅びのない生命というのは、ただ
我々だけが助かろうとか、我々だけの神様であって
欲しいとか、愛念であって欲しいとか、そういう利己を
求めての祈りではないわけです。我々の本来心
というもの、本心の座というものね、そこへ深く
信頼して、それが皆の生命の中に平等にあるという
ことを思って、そして、その光のおもいを世界中に
まくんだ結ぶんだという信仰でもって、この祈りを
ずっと続けていった時に、私達のこの祈りというものは、
ただ本当に光になって光明になってかけ巡るんです。
だから、私よりもあの人の方が経験があるからとかね、
そんなことは、神様から見たら問題じゃありません。
あなた方の魂というのはだいたい古いんだからね。皆
それ相応に古いんですよ。誰が特別古いとかいうんじゃ
なくって皆古いんです。古い魂をもった人たちが、
何十代何百代と生きてきて、五井昌久に会ったんです。
だから、あなた方に印をきれとか、何とかという。
私に出来るだろうかという様なことをいう時と
いうのは、あなた方がやるんじゃないの。あなた方を
通して神様が働くんですよ。私に出来っこないとかね。
そんなこといってたらいつまでたっても地上の
光明化というのは、狭い範囲でしか出来ていかないん
ですね。そんなことでは駄目なんです。
世界平和の祈りというのは、人間本来の生命に
根ざしたエネルギーというものをね、それぞれの立場の
人達の心の中に植えて、そうして、それを引き出して
広がらせる。そういうものすごい力を持っている。
だから、ピースポールが一本しか立たないとか何とか、
そんな小っぽけなこと考えるなということですよ。
ピースポールが一本立つか立たないかというのは、
それはその時の時期の問題ね。色んなことが
からまってるんです。で、その色んなことがからまる
上に、皆の想いとか思惑(わく)とか、そういうものが
邪魔をしちゃあ駄目なんです。何事も神様が
いいようにして下さる。だから、そこへ向かって、
想いを明るく切り変えてね、そうして精進してゆく。
するだけのことはしました。後はお任せしますってね、
ということばがありますよ、あれなんですね。
イエスの十字架だってそうです。釈迦だって
そうですよ。大涅槃に入ってね、後は、あれはお任せ
しますなんです。任せるということがないことには
宗教というものは本当には根づいてゆかない。我々を
導く生命の根元の神様の大愛というものがあるという
ことを信頼しないことには、我々の信仰というものは
深まってゆかないんです。
何も無理なこととか、あなた方の分相応以上の
ことを突然やらせようなんてことは誰も思わない。
だけども、あなた方がこれが私の分相応だとか、
これ以上私は出来ないとか思ってるその枠というものを、
神様というのは守護の神霊というのは取っぱらってね、
本当の人間というものはそんな小っぽけなもんじゃ
ないよ、あなた方の中にも本当の人間が息づいて
いるんだよということを知らせよう知らせようと
している。だから一番いいのは、私は何も
出来ないけれど、神様がさせて下さるんだったら
私はやりましょうという、そういう心ですよ。
そういう心でもって、皆で和顔愛語でやってかないと。
神様の言葉だからといって、しかめっ面で
やっていっちゃあ駄目。和顔愛語なんです。色んな
人がいるんですから。色んな人の悲しみがあり
悩みがあり苦しみがあるでしょう。それをね、
溶かしてゆくのは柔らげていくのは笑顔なんです。
何をどう難しいことを真理の言葉を言えるか
言えないか、そうじゃない。やっぱり笑顔なんです。
笑顔というものはね、色んなものをとかしますよ。
色んな立場の人、たとえ宗教の人であっても何
であっても、笑顔というものを見た時に、人間
というものはやっぱり慰められるね。笑顔には
ぬくもりがある。笑顔とぬくもりというものでもって
人間は息づいていくんです。ほっとするんです。
何故かというと、その笑顔とぬくもりの中に神様の
愛の源というものはあるんだから。
だから、難しいことを言おうとかね、これは
こう言わなきゃいけないとかね。ねばならぬからは
何も生まれてこない。ねばならぬと思わないで
神様に任せてしまえばね、そこから言葉も出てくる、
想いも出てくる、ね。真理の言葉だって、自分が
こんなことを言おうと思わなくったって、色んないい
深い言葉が出てくる。口をついて出てくる。それは
神様がしゃべらせて下さる。語らして下さる。
あるいは、そこへおもむかせて下さる訳ですから。
だから、人間への他力本願ではなくて、本当の意味で
神様に任せて、他力になって、そうしてその他力に
なった上での自力をね、自分の努力をね。自分の癖は
自分がよく知ってましょ。だからその癖をよくとらえて、
自分が息をしやすいように、決して自分に無理が
いかないようにね、自力と他力を融合させて明るい
生命の宗教というものを作っていかないといけない。
それが、私が大神様から命じられたことなんだから。
今、もう人類が、人間がね、分かれて、ああだこうだ、
こっちだあっちだと言ってる。そういう時代じゃ
ないんです。どんな人でも、とに角、結び合って
寄り合って生きていける、そういう世界をつくってゆく。
それが神様の本来の願いなんだから、祈りなんだから、
その心で人間が皆ここへ来ているんですからね。その
為に皆が生きてる訳だから。そこへ目指しての祈りを
やっていかなきゃいけません。ね、だから、私は
出来ないというのだけはやめて、私にさせて下さい、
何が来ても、私は出来ないと思うかもしれないけれども、
次の瞬間には、神様、あなたの中に全部放り込みます、
というそういう信仰を養っていただきたいと思います。
昭和63年8月26日