人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

神の子について

2012-02-16 09:53:36 | スピリチュアル
 神様というもの、それから神の子というもの、
これはもう切り離せない。聖書やお経なんか
読んでも、仏子とか神の子とか書いてあって、
何となく分かりにくいけれども、くだいて言えば、
皆平等に誰一人として違うということなく、
神様の子供なんだということですね。その神様の
子供というのはどういうことかといいますと、
神様から流れてくる絶えることのない生き通しの
生命というものを受けて、働く生命なんだ
ということですね。

 神の子というものはね、皆が神の子になっちゃえば、
迷いがないんですよ。迷う必要がないんです。
 だけども迷いますね。世の中に生きてる以上はね。
 ただ何度も言うようだけれども、肉体を持ってる
我々自身を我々だと思ってしまうと、迷うんですよ。
 だから、迷ったり悩んだり悲しんだり寂しく
なったり、色んな事がありますよね。あるけれども、
しかし、それが自分だと思う心をちょっと横に置いて
本当の自分はどこだろうと訪ね求める。それが祈る
ということなんですけれども、訪ね求めてずっと
旅をして行くと、そこに神様がいらして、そうして、
神様に愛されてる子供である自分というものが
でてくる。そして、その喜びで一杯になり祈りで
一杯になってる時に、自分というものが消えて、
光だけになって、そこにただある。あるいは、自分
というものをなくして、無になって、一所懸命何か
やっている。そこに神様の生命が深く働いてゆく。
 その時、皆神の子なんです。

 みんな、どこどこの出身とか、何歳であるとか、
経験がどうであるとかいいますね。いいますけれども、
そういうものは全然神様は頓着しない。みんな自分の
流れから出てった子供たちでしょ。みんな浄化を
してゆく役割を持ってる人ですよね。皆そうです。
 そこを間違うと大変です。あの人は経験が
浅いから、そんなことはとても出来ないだろう
とかね。誰が決めるんでしょうねえ、そういう
ことを。そんなことは決めちゃあいけないんですよ。
 流れというものがあるでしょ。気の流れという
ものがね。その気の流れというものはね、時に
乱暴なことしますよ。この人にやらせときゃ間違い
ないというものをね、何をまかり間違ったか、全然
無神経な無責任なね、一見そう見える人に任せて、
もう会が滅茶苦茶になっちゃうとかねえ、仕事が
滅茶苦茶になっちゃったとか、ブツブツ言うような
事が出てきたりしますよ。本当はああいう人に
任せときゃとか思いますよ。

 ところが、そういう事を通して神様というのは、
色んな難しい人間の複雑な気持ちの有様だとか、
それから人との付き合い方とかね、いわゆる人生の
苦労というものを味あわせる。この世に生きてる
限りはやっぱりどこか皆人生苦労しますでしょう。
 又、苦労しなきゃ駄目なんだよ。苦労
しないとねえやっぱり。すっといって
良かった良かった目出度し目出度しだと、何の深い
喜びも湧いてこないということになりましてね。
 あるいは、色々悩みを持って来られたってね、
その経験がなかったら分からないということに
なりましてねえ。
 この何とかという本の中に五井先生が
こう書いてますから、それ読んで下さい、私は
分かりませんなんてことになる。それじゃあ困るん
ですよ。確かにね、来られてどうしましょうと
言われた時に、それは五井先生と呼んで下さるのは
いいけどね、その人は五井先生よりも、あなた方の
智恵を借りたい。まず目の前にいる生きている
あなた方のそういう言葉を通して、何かすがりたい
訳でしょ。ところがここに書いてありますって、
もうオロオロしちゃって本持ってくる。持って来て
下すって構いません。その本から光が出てるんだから
それでいいんだけど、やっぱりあなた方の言葉で、
あなた方の流れで、あなた方がこうと思うことを
自信をもって言うというところまで、自分を高めて
いってはじめてね、言葉も生きるし、光も満ちてくる。

 それが出来なきゃ駄目なんです。講師とかね、
それから、お浄めをする人たちというのはね、
我々ずれがというのは困る。その我々ずれを
動かしてるのは神様なんですよね。我々ずれがと
言っちゃうと、神様ずれがになっちゃう。神様をね、
低くみることになっちゃうんです。しかし、そう
じゃない。やっぱり我々ずれの内容は未熟でも、
一所懸命やればね、そこへ神様の光がいく。そして、
ああ、あの人はあの先生は親身になって私のことを
考えてくれた、何だかこう生きる勇気が湧いて
きたとか、あそこへ悩みを置いてきてよかったとか。
 あとはお任せですよ。そこのところが皆もう一つ
自信がもてない。

 私というものに把われたら、それはそう
なりますよ。絶対にそうなる。私はね、把われる
ものがなかったね。おもいは神様だけでしょ。
 神様がいいようにして下さるんだから、この
世の中で皆が悪いと思うことでも、ああと思う
ようなことでも、あっこれはと思ったら、やっぱり
その通りにしましたよ。それは色んな相談が
来るから、ああいやだなと思うことありますよ。
 思うけどすっとそれが短く消える。何故か
というと、私がやるんじゃないと思うもの。いつも
言うように、私は場所だと思うのね。
 だから、五井昌久個人から智恵が出るんじゃ
ないんです。私は場所でカラッポになってて、
そこへ空海さんだの親鸞さんだの法然さんだの
キリストだの、皆降りてきて下さって、そこで私が、
その人たちに智恵の言葉を語るんですよね。私は
語らせてもらってるんですよね。

 私は、天の私と地の私と合体した時にと
よくいいましたけれど、本当の自分自身という
ものを見たら、これはもう安心するより他しようが
ないんです。輝いてるから。皆輝いてますよ。
 輝いてますよといって皆にそれを見せて
あげたいけれども、まだそこまで時が来て
なかったから。カラッポになってニコニコしてる
五井先生というものを通して、皆ここへ
ゆけるんだな、ここを通して神様のみ許に
行けるんだな、そばに行けるんだな、一緒なんだな
ということを勉強してほしい。そう思いましたよね。
 みんな私が引き連れて引き受けて、自信が
なかったら出来ませんよ。神の子であるという
そういう自信がなきゃあ、そんなことは喋べれない。
 五井先生そんなこと言ったってと思う。そういう
想いも一杯受ける。だけども、私は間違いのない
神様の愛というものを知ってしまってるから、
その中にいるから、それは皆が行ける場所だから、
だから、自信をもって、皆の中に神様の流れが
入ってるんだよ、皆一人一人が平等に神様の子供
なんだよ、あなた方は光なんだよ、ということを
ずっと言ってきたし、今も言ってるし、これからも
言っていくんですけどね。

 でも、私がというのを消したら気持ちが
いいんですよ。もう大安心ですねえ。神様しか
残らないでしょ。もう委ねちゃったら、何と
言ったらいいかしら、非常に生き生きしてくるのね。
自分が疲れていても、別の体力がふっとちがう所
から出てくるんです。
 私がお浄めしますでしょ、してましたね。
 ああいうお浄めでも、我とか業とかいっぱい
来るんだから、肉体人間だったらとっくに私は
死んでますよね。あの時に私はそこに
いないんですよ。あの時神様の心の中にすっと
入っちゃってるから。だから、私がやってるお浄め
じゃないでしょ。神様の神界の流れの方から流れて
くる光ですよね。そりゃあ肉体人間ですからね、
叩きながら痛みが来ますよね、想いも来ます、
寄って来ます。でもそれを上まわって倍して、
神様が私たちを愛して下さるということを
思ってるから恐くも何ともない。痛みなんて何でも
ないですよ。痛みというのは、私は皆さんからの
プレゼントだと思ってるね。
 だからね、晩年に色々痛んで痛んで自分の奥さん
だけには本当に、痛いよ痛いよと言いましたけどさ、
まあ声あげなきゃしようがなかったけども、でも
痛いから恨むということじゃないですね。それより
もっと深いところで、私が神様に愛して
いただいてる。で、皆さんも神様に愛して
もらってる同じ生命だということが分かってるから、
恨みっこないですよ。痛みなんてものはね、
受けてしまってそれを浄めてゆけば、上がって
いってね、光になっちゃうんです。業というものも
そうなんですね。

 ただ、人間というのは、肉体というものと
いっしょに暮らしてますからね。狭い箱なんだ
けども肉体というのは。だけど、肉体もって生きる
以上は、やっぱりそれを大事にしてやらなきゃ
いけないというところもあるでしょ。可愛がって
やらなきゃいけないというとこありますよね。だから、
養いながら、又、そこに把われないというのもね、
非常に難しいことなんです。私が言いましたでしょ、
いいことにも悪いことにも把われるなというのはね、
それは真理なんだけど、そういう気持ちで祈って
ゆけば、私がという気持ちを向こうに受けとって
もらって、神様に受けとってもらって、そして、
ただただ神様の器になるべき光だけが入ってくる。
 どういう働きが自分に出来るんだろうかとか、
私はこれだけしか出来ないとか、色々自分を限定
してやっていくと、もう本当にほんの小っちゃな
働きしか出来ないけども、そうではなく、神様に
預けてしまって何でもやらせていただきます
と言うと、あの人がこんなことが出来るかなあ
というようなことが出来ますよ。それがね神様の
不思議なところ。神様の奇跡というのは本当は
そういうことですねえ。神様の奇跡というものを、
皆いやしというものに求めるけれども、本当は、
人間の中に限りのない神様のエネルギーがあって、
そのエネルギーに動かされて、喜んで、あるいは
無意識に動いていく時に、我々の生命というものは
喜んで、深くなって、大きくなって、いつの間にか
すごいところにいたとか、いつの間にかすごい事を
やらせていただいたとか、それこそ奇跡でしょうね。

 人間というものは、いつも言いますようにね、
この肉体の五尺何寸の体だけじゃないんですね。
 いつも言いますでしょ。宇宙のように大きくも
なれば、針のように小っちゃくもなる。もう
融通無碍、それが人間の生命の本来なんですね。
 それが神様に抱きとられている。神の子の本質は
そういうものなんです。無碍なんです。ゆるし
ですね。そういうものを我々はいただいて毎日を
生きてる。だから、この真理というものは、本当に
悟って明るくなった人ならば、私でなくったって
どんな人でも言いますよ。誰だって言います。
 キリストだって釈迦だってこれを言ったしね。
 あるいは、今生きてる宗教者で明るい所へ
行ってる人というのは絶対にここを言いますね。
 ここへ向かって皆がゆけるんですよ。何故ならば、
皆が神様の器だから、神様の子供だから。

 もう今日はね、何とか速く喋ろうというのをね、
ゆっくり喋ってね。でないと聴きとれないでしょ。
 原稿にも出来ないからゆっくり喋ってますけどね。
 あんまり速くってね、私のいつもの喋り方は迷惑
かけてるからね。これの倍位の、あるいは3倍位の
速さで若い時喋ったと思いますね。5倍かな?
 高橋君なんか聴きとれなくってね、いらいら
して、本当にあの頃は録音技術も悪かったしねえ。
 私も言いたかったしねえ。そしたら、五井先生
聞き取れませんとかね。何言ってるんだか分から
なかったけど、先生の情熱だけ分かったとかね。
 後で言われてがっかりしたりして、そういう
ことがありましたけどね。だけど、今私はゆったり
してますよ。向こうの世界というものは、本当に
もう何の不安もないでしょ。安心だけでしょ。
 そういう意味でゆったりしてる。大安心の中へ
帰ってきてる。その大安心というものはこっちへ
来ようと来まいと皆の中にあるんだから、その
大安心の中に抱かれた時に、ふっと皆
神の子になる。

 その神の子というのは、もひとつ言えば、意識
しようとしまいと、皆神の子なんだから。神の子
というのは、特別に選ばれたとか、そういうもの
じゃありませんよ。偉くなったとか、そういうこと
じゃないんですよ。心を素直にして、祈り心で
神様を呼んで、そうして毎日気持ちを豊かにして、
明るく生きる。その時に皆神の子になるんです。

 私たちは、特別なんだとか、私達は五井先生に
抱かれてるんだとか、神様の大愛の中にいるんだ
とか、だから、私達は他の人よりも、もっともっと
祈りを知ってるんだとか、そういうものを高慢と
いいます。遜(へりくだ)らなければいけません。
 遜るところがないとね、人間というのはどうにも
なってゆかないんです。それこそさっき言った
座からね落ちてしまいます。遜って、そうして
自分を低くして。ただ神様だけが絶対の愛
でしょう。そこへ任せて生きてゆかないとね。
 そのことによって、あなた方の中にある眠ってる
とてつもない力もエネルギーも、可能性も
出てくるんですよ。そのことによってのみ
出てくるんです。分かりますか。それ以外に出て
くるものは我なんですよ。

 決っしてね、才能とか力とか個性とか、そういう
ものを否定はしません。それは神様から送られて
来た贈り物なんだから、それはそれでいいんです。
 だけれども、自分の力でもってこれが出来た
とかね、あの人の我を押さえつけるのに往生した
とか、そう想っちゃうと後で苦しくなりますよ。皆
同じ生命なんですね。だから、さっき言ったけども、
悪口言われて、やっぱりありがとうございます。
 足を踏まれてありがとうございます。と言える
ところまで自分を精進させていく。出来る出来ない
は問題じゃないんです。そういう風に言える自分を
いつか出して下さい。何生かかっても出して下さい。
 その為に祈らせて下さい。そういう風に想うこと。
 そういう風に祈ること。それを目指すことね。
 それが我々の領土を広くしてゆく。神の子の光を
深くしてゆく。輝かしていくということなんですね。
 皆に仕えるんですよ。皆に奉仕するんです。
 我々の生命というものはね、我々だけのもんじゃ
ない。皆のもんですよ。世界人類の人の為の
もんでしょ。

 だから、どこでどんな風に私達は使われてゆくか
分からないんです。使ってもらえるか分からないん
です。それをね、私はこういう風に生きたいん
です。こういう風に叶えて下さいと、そりゃあ
幾分かありますよ。全部神様事で、神様の言う
まんまなんていったら、もう皆パニックに
なっちゃうからね。そこのところはちゃあんと
守護霊さんだって守護神さんだって、きっちりと
分かってます。ちゃんとその辺は、採算が
とれてるんですね。だけど、決しておもい間違いを
してはいけないのは、我々の生命というものは、
神様から分かれて来ているけれども、しかし、
だからといって、高慢になって、我々は神様が
付いているから、何を言ったって業は消えるんだ、
何をしたって我は受けとってもらえるんだと
思って、努力するということを忘れたら、
これはもうとてつもないことなんです。

 本心の座というものは、そういうもんじゃない。
 本心の座というものは、そこも全部つき抜けて、
空になって溶けてね、解放されて、明るくなる、
そういう座が本心の座ですね。それをやっぱり思わ
なければ。それを修行してゆくのがこの世の中の
修行です。そこを目指してゆくのが祈りですね。
 さっきも言ったように、だから、祈りという
のはね、何でも放り込んでもいいんですよ。色々
言ってもいいんですよ。あれが欲しいこれが欲しい
と、色々言っても構わない。ただ構わないけど、
絶対に、神様がそれをどんな風に叶えるかという
のは、そこのところは任せてしまわないと。私達の
想い描いたことからは、うんとかけ離れた答えが
返ってくる時がやっぱりあるんですね。

 その時に、どうしたら神様から離れないで、
祈ってゆけるかというのが、これが人間にとっては
ものすごい難題なんです。私と神様の祈りだけ
じゃあ、とてもじゃないけどやっていけない。
 だから、世界平和の祈りがあって、神の子人間
というね、生長の家のああいうものをずっと
噛み砕いて、そうして、いい所だけを、透き通った
所だけをとって、無理のないように、背伸びの
ないように、本質だけをとってね皆に教えた。その
平和の祈りがあるんですよ。

 だから、業だって我だってね、色んな人間が
出していく余分な想いだって、否定はしません。
 だけども、その色んな我の上にあぐらをかいて、
業の上にあぐらをかいて、弱いから仕方がないんだ
じゃあやっぱりね、精進ということは出来ないん
です。釈迦が死ぬ時に、汝ら比丘よ精進せよと
言ったでしょ。我々は我々の本質を知って、その
本心の座に近づくように、光に近づくように、
一瞬間でも長く光になる為に、我々自身の為にも、
他の人たちの為にも、光になって動くことが
出来るように、はたを楽にすることが出来るように、
働くということはそういうことですよね。愛を
もってはたを楽にする。その為に祈るんです。その
為に光を望むんです。

 その事をおもい間違えしないで。決してへんな
選民意識が神の子じゃありません。皆平等に神の子
なんです。だから、神の子が神の子に呼びかけるん
ですよ。例えどんなに腹立つ相手だって神の子
なんです。あなた方が道で会って、ああこの人は
本当にいやだと思えば、ちょっと道をさけて会わ
ないようにしようと思いますよ。だけども、そこを
押してね、相手が知らん顔をしても何をしても、
やっぱり、おはようございますといって、それを
ずっと続けてごらんなさいな。やっぱりむこうも
お早ようございますと言うから。そこをね、いやな
人だから挨拶するのをやめようとか、この子は
いじわるそうだからちょっとさけて通ろうとか、
そう思っちゃうとね、もういじわるなその子供しか
見えてこない。その人しか見えてこない。それは、
自分の中でかってにその人の生命を判断して測って
やってることですよね。そんなもんじゃないんです。
 それがその人の本質だと思ったら大間違いですね。

 それは、祈りによってそういう想いというのは
消していただけるんだから、出たら、ああ消えて
ゆく姿だと思いながらね、非難されてもね、中傷
されても意地悪されても、明るい生命の源である
神様が我々を受けとって下さるんだからという
ことを信じて、信じ抜いてですね、私達は生きて
ゆかないと、とても自分を狭くしてゆくことになる。
 世界平和の祈りが、自分だけの平和の祈りに
なっちゃう。

 平和というのは、ただ単に事なかれ主義では
ないんですよ。イエスが言ったでしょ、私がこの
地上に来たのは、兄弟を分かれさせて家を分かれ
させて、争いを起こさせる為だ、剣を投じる為に
地上に来たんだという風なことを言います。
 何という言葉だと皆思いますよ。肉体もってる
人はね。イエスがそんな人だったらついていけない
と思いますよ。でもそうじゃないんです。色んな
事が起こるんです。本当に真理に従おうとすれば。
 だけど、私達は神様に任せてるんだからね、
お願いしてあるんだから、預けてるんだから、そこ
からの祈りであれば、絶対に私達は間違った方向へ
行きっこないんだ、そういう想い、信仰、そういう
ものをもって進んでゆく時に、いつの間にか
分かれた家が握手するんですよ。気の合わなかった
人と挨拶が出来るようになるんですよ。一旦
分かれさせるかもしれないよ。一旦辛いことをね、
神様というのは降ろすかもしれないよ。だけども、
決して分かれさせたままとか、喧嘩をさせたまま
とかね、そういうことは絶対にないんです。どこか
で結んで下さるんです。
 
 光を結ぶのが神様なんですからね。闇を降ろす
のが神様じゃないんだから。闇の問屋じゃないん
です。光の問屋なんだよ。神様というのはね。
 だから、そこに信をおかなきゃ何をおくんですか。
 そこへ深く入ってかなきゃ何に入っていくん
ですか。そこを信じてもらって、そうして道を
説いてもらわないことには、神様の光が途中で
止まっちゃいますよ。

 信ずるということは、ただあなた任せじゃ
ないんです。私の信仰は駄目だけど、あの人の
信仰はすごいから、あの人の信仰の話を聞いたら
少しは私の信仰がって、そりゃあ確かにそうだけど、
その人にいつまでも引っぱってもらってる信仰じゃ
ないんですよ。その人に開いてもらって、そして、
自分でも驚くような力が出て、神様ありがとう
ございますと言えた時に、あなた方が輝くんだよね。
 その辺のことをね、きっちりと腹の中に入れて、
そうして、五井先生のことも神様のことも、
向こうの世界のこともこの世のことも色んなことを
思って、説いて、祈ってやっていかなきゃ。我々の
中の本心開いて下さるのは神様なんです。我々じゃ
ないんです。だから、任せるいうのは、私がさっき
あなた任せと言ったのはね、人に頼っちゃいかん
ということです。人に頼る前に神様に頼らなきゃ。

 人というものはね、自分も含めて我が
ありますよ。想いがありますよ。都合の悪いことは
やっぱり避けて通りたい想いがある。皆そう
でしょう。だから、そういう人を頼んだって、
頼みきれるもんじゃないんです。皆弱いんだから。
 信頼関係をこわせというんじゃないんですよ。皆
合い和して生きていかなきゃならないの。生命を
尊敬していかなきゃならないの。けれども、
そういう意味じゃない。

 やはり、朽ちることのない生命というのは
神様にしかない。裏切られない愛というものも
神様にしかないんです。我々はそこから愛情を
もらってる、光をもらってる訳でしょ。だから、
そこへ帰っていかなきゃどうするんですか。そこへ
信をおいて初めて深く祈ることが出来る。そこを
基盤にしなかったら、誰々先生の言うことを基盤
にしたら駄目なんです。私だって、私が喋ってる
と思ってない。私は場所なんだとさっきも言った
けども、本当に私が喋ってるんじゃないんです。
 神様の流れのその光が来て、奥深いところから
光が来て、私が喋らせてもらってるんですよ。
 五井先生が偉いことも何ともないんです。皆、
五井先生が偉いとか何とかと言うけれども、そう
じゃないんですよ。本当は、大きな深い働きという
ものは、底知れない神様の愛と祈りと調和と、
そういう皆を平等に愛する心、そこから出るん
です。みんなその宝を持ってるんです。だから
しっかりして下さい。
               昭和63年8月26日