これも何度も話をしたことですけれどもね。
心というものと本心というものは、これは
違うんですね。元々から言ってしまうと、本心
というものがあなた方の本来の姿。光り輝く姿
なんです。どうもね、言葉というものは
不自由でねえ、本心というとその本心という
イメージが湧いてくるでしょう。自分の
イメージに訴えてその像をつくっちゃうからねえ。
それで、どうにもしょうがなくなっちゃって
把われちゃうんだけれども、なるだけそれを
くだいて言おうと思うとね。つまり、光明が
あるところですね。神様の光が渦巻いて
いるところですよ。それが本心ですね。
それは、あなた方の肉体のもっと奥の奥の
自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、
どこともなくスポッとおさまってる、それが
本心ですね。
その本心というものは、いつも私が
申しますように、全く迷いのない姿。言葉を
かえて言えば、本心というのは、迷いも疑いも
悲しみも悩みも何にもないところで、ただ神様
だけを仰いで、神様と一体になってね、神様と
いるということも忘れて、ただその生命を
輝かしている。そういう場所、そこが本心の座
なんですね。
我々は、本当は色々な座にいるんです。
それは、特に統一しなくてもね。日常の
世界の中でもね。例えば、遊びに行ったり
食事をしたりとか、そういう信仰のことを
離れても、その時その時色んな座に
いるんですね。それはどういうことか
というと、やっぱり気持ちのいい人と会えば
自然に心が和んでね、言葉もやわらかに
なって、色んな話も弾みますでしょ。
そういう時には心が喜んでくるんですねえ。
そうして、色々な煩いを一時忘れて、
子供のように素直になって、その時には、
私達は素直という座にいますね。そういう
自覚をもたなくても、そういうところへ
導いて下さるのが守護霊さんであり守護神
さんですね。我々の生命とか生き方とかいう
ものは、もちろんこの世の中においても
向こうに行っても努力が必要ですが、しかし、
知らず知らずの間に守護霊さんとか守護神
さんが、きっちりと我々を行くべきところへ
導いて下すってる。自分も気がつかない内に、
いつの間にか、悩みとか悲しみとかいうものを
少なくして下すってる。その座というものは、
あなた方のあるいは我々の気持ちによって、
上がったり下がったりするんですよ。
向こうへ霊界移行するでしょう。霊界移行
したばかりの人達というのはね、やっぱり
こっちの世の中の想いとかありますよね。
早く死んじゃって、(残してきた)子供が
小さいのにとか、ありますでしょ。
そうすると、向こうは素直というのを
貫いて修行するんですよ。さっき申し
ましたね。神様の愛念というものは、
生き死にを貫いて、そういうものをとっ払っ
ちゃってあなた方を愛してるんだという
ことを申しましたね。だから、そこの
ところを深く信じる。難しいけれども深く
信じる。任せてしまう。それを向こうへ
行ってもやるんです。座禅したりね、色々
ありますよ。色んな修行の仕方がある
けれども、あなた方にもさせたけれどもね。
だけど、それは何の為か。すっきり自分の
生命が神様の方に抱きとられているという
ことを喜ぶ為の修行なんですね。
そうでなきゃあ、苦しむ為の修行だったら
何もならない。けれども、向こうへ移行した
ばかりの霊(こっちへ来たての霊)たちと
いうのは、残してきた人のことがやっぱり
気になるでしょ。それはやっぱり、肉体の我
といいますかね、肉体の想いの座に転落
しちゃうのね。で又、一からやり直す。
そりゃあ厳しいですよ。この世の中で、
子供の為にとか孫の為にとかね、あるいは、
この人の為にとかやってる方がよっぽどやり
やすい。その位厳しい。よく、ひとおもいに
向こうへ行ったらと想うけれども、そうも
いかないんですね。
やはり、人間のこういう日々の営みの中で、
色々なおもいを経験して、そうしてそれを
乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう
色んなところを通り過ぎて、祈りという
ところへ行くんでしょ。ですから、その祈り
というのはただ祈ればいいというもんじゃない。
神様へ呼びかける。こんな私ですけれども
といって呼びかける。その時に、神様
というのは、ああいいよといってあなた方に
答えて下さる。
前も申し上げたかもしれないけれども、神様
というのは人間を裏切らないんです。人間は
しょっちゅう神様を裏切るけれどもね。
何故、こんなことがあるんなら、神様なんて
信じるものかとかね。たいてい、自分にとって
辛いこと苦しいこと受け入れ難いことが
起こってくると、人間というものはやっぱり
神様を否定したくなる。そうでしょう。
でもそれは、自分の都合の悪いことが
起こってきた時には苦しくなるから
そう思うんですね。
ところが、神様というのはものすごい大愛
でね。それで、あなた方にずっと愛の光を
送ってるから、そういう叫びだとか恨みごと
だとか色んなものが来てもね、そういう涙顔を
見ても、可哀想になあと思いながら、本当の
ところはずっと光を与え続けているんですね。
そういう絶え間のない光、それが本心
ですよね。
そして、いつも申しますように、あなた方が
神様からの分霊(わけみたま)であり
分生命(わけいのち)なんだから、その本心の
光というものは神様から流れてくるだけ
じゃない。見えないけれども、あなた方の
奥の体の中にどこともなく入っている、光
そのもの、本心。あなた方の中にある訳
だから、その本心と神様の宇宙神の大御心とが
交流し合って、この世の中というものは
息づいているんです。あるいは、植物でも
鉱物でも動物たちでもね。そういう交流が
なかったら生命というものはすぐに
枯れてしまいますよ。そういう素晴らしい
宝を我々は神様からいただいているんだねえ。
ところが、心というものがあってね、あるいは
感情と言った方がいいかもわからない。
恨みごとだとか、もう勘弁してほしいとか、
いやだとか、そういうものというのはここから
出るんですね。肉体にまとわりついてくる我
というものもここなんですよね。ここに
からみついてるんです。だから、これを
自分自身だ、私の心だと思ってしまうと、
思い間違いする訳ですね。
もう何十回も言ったことだけども、我々の
心の奥底ずっと降りていくと、やっぱり本心
というものがある。そして、先程申しました
けどね、毎日毎日の生活の中で色々な座
がある。その座に座らせていただいている。
喜びごとがある時には喜びの座に
座ってるんです。悲しみのときには悲しみの
座に座ってるんです。あるいは、孤独の座
にも座るんです。そうして、そういうところへ
座らせていただきながら、私たちは、神様の
大きな愛の座、本心の座、光の座、神様の
座に招かれて、そこへ進んでゆく訳ですね。
それは何も向こうへ行って修行しなくっ
たって、毎日毎日がそうなんですよ。この世と
向こうは続いているんだからね。
この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が
意識しようとしまいとね、その座が進んで
ゆくかどうか、転落するかしないか、毎日
毎日の想いが修行の場なんです。霊界だって
想いでみんなつくられているでしょ。だから、
物欲の強い人が向こうへ行ったら、そりゃあ
もう物欲かたまりの世界ができますよね。
無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いて
というような清浄な空気のところを歩くと。
みんなイメージなんです。イメージだ
けれども、じゃあ霊界がないかというとそう
じゃない。真実の生命につらなっていく、
そういうものというのは確固としてある。
だから、その本心というものをたずねて
祈ってね、できる限りの消えてゆく姿を
やって、その座が進んでいくように、
そうして、進むも進まないも、もうひとつ
いけば、神様に任せます、いいように
なすって下さいという風に言えるように
もっていくのが信仰ですねえ。
そして、それを助けるのが五井先生ですね。
世界平和の祈りですね。決してあなた方
だけの力で絶対そんなことはできませんよ。
だけど、あなた方の祈り心が一人になり
二人になり十人になり三十人にとやって
いけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあ
すごい力を発揮するんです。目には見えない
けれども、その光がサーッと全世界に
うずまいて、全宇宙に広がってね、そうして、
光明があたりを浄めていくんですね。その
ことを忘れたらいけません。そのことを
忘れて祈りをしたら、これはただ単なる
ご利益の祈りになっちゃう。そうじゃ
ないんですよ。南無阿弥陀仏にしても南無妙
法蓮華経にしても、世界平和の祈りにしても
主の祈りにしたって、本当の真実の祈りの
奥底にあるものは、何か、こうして下さい、
ああして下さい、運がよくなりますように、
そりゃあ大事ですよ、みんな生き生きと
いかなきゃいけないんだから、やっぱり
そういうものはなきゃ困る。でも本当に
目指すものは何かというと、神様と一体に
なる我々は生命なんだという、その喜びに
至る。そこが大事なんです。それを忘れた
祈りはないんです。
神様というものが我々の為にいて下すってね、
神様というものから我々は分かれてきた分生命、
分霊で、そうして、我々が我々の分に応じて、
あるいはそれ以上の働きを、神様の力によって
愛念によってさせていただくんだということね。
本心と心というものは分かれてるものじゃ
ないんですよ。本心からずっと光明が
出ましてね、我々の肉体も想いも、想いを
出してる心も浄めていくんです。祈りが
それを浄めていくんですよ。だから、世界
平和の祈りの中に、あるいは、南無阿弥
陀仏の中に、色んな祈りの中に溶け込んで
そうして最後には、自分自身が役に立つも
立たないも、とに角神様の光になって無に
なって動いていく時に、この世の中という
のは光明波動になっていく訳ですね。
だから、役に立たない生命なんていうのは
この世の中に一つもないんです。無駄という
ものも一つもないんです。
生きるということにしたって死ぬという
ことにしたって時があってね。我々のこの
肉体人間の情から言えばとてもやりきれない
色んな出来事だって、それはやはり選びの時
なんですね。向こう側からすれば選びの時
なんです。そうして皆のことを考えてる。そう
いう時が与えられる時はね。だから、ああ
これは神様が与えて下すったものなんだな
と考えることですねえ。それを目指して、
世界平和の祈りというものがあり、皆さんの
統一というものがあり、印というものがある。
皆離れてるもんじゃないんですよ。
あなた方の祈り心が深くなって、自分を深く
省みて、自分の中に、そうだ神様からの宝物を
私たちはいただいているんだなと、そう思える
心になった時に、そう思える心が一瞬間きたら、
これはもう大変なことですね。
で、それをずっと続けていって下されば、
それはもう大変なことですよ。それを出来ない
と思っているのが人間ですよ。出来ると
思っているのが神様です。
宗教というのは、その出来ると思ってる
神様の大きな愛念に、我々全部を預けて
しまうことですね。生命もすべてね。投げ出す
というのは大変なことだけど、やってしまえば
簡単なんですよ。なかなか情としては
大変だけどね。やってしまえばと言ったって、
出来ないですよ先生とくるかもわからない
けれども、あなた方、祈ってる時は
投げ出してるんだよ。自分たちは分からない
けれどね。世界平和の祈りを祈ってる時は、
色んな雑念があろうと何していようと、
やっぱり投げ出してるんです。だから、
あなた方は毎日毎日投げ出して、自分を
カラッポにする修行をやっぱり
やってるんですよ。気がつかない内に
させていただいてるんです。
だから、任せるということは朗らかになる
ことですよ。神様と一つ生命になるという
ことですよ。あるいは、神様の愛が私達の
中に流れているということを知ることです。
その為に祈りがある。その為に生きる。その
為に悩むんです。すべて無駄な事はないんです。
皆必要なんですね。決まってる事なんです。
必定なんです。だけども、神様というのは
宿命じゃない。宿命論者じゃないし運命論者
じゃない。だから、運命修正というものが
出来るでしょ。皆さんの祈りによって
出来るでしょう。あるいは、皆さんの愛念に
よって動いていくんですよ。そこに世の中の
人々が言う奇跡というものも生まれて
来るんです。だから、もうこれは神様事
だから神様に任せなければ仕方がないと
いって投げ出してね。投げ出してというのは
放り投げて努力もしない、ねえ、もうとても
私達の力では及びませんといって投げて
しまっちゃあ、こりゃあ駄目なんです。
やっぱり祈る。祈って祈って祈って
祈りきったところに光が出てくる。
その時に、例えば生き死にの問題で
言えばね、つまり、一人の人に、生命を
向こうにもっていかれるか、まだこっちに
いて皆さんの役に立つか、どちらになるか
分からないけれど、祈って光がパーッと
来て、そうして、そうかそれじゃあといって
向こうで変更になるかもわからない。その辺
わからないんです。ただ分かってる事は、
どんな風な現われ方をしても、神様という
ものは絶対に私達一人一人を愛している
ということ。憎んだりは絶対しない。恨んだり
も絶対しない。何故なら、みんな神様の子供
なんだから。ね、子供を愛さない親はいない
でしょう。そうでしょう。絶対みんな子供は
可愛いいですよ。その何十倍何千倍、神様
というものは一人一人を愛している。今の
あなた方のありのままを愛しているし、
あなた方の中に貫いて流れている深い生命
というものも愛してるし、あなた方全体の、
もう全部を愛してる。それを引き出して
用いようとなすってらっしゃる。だから、
遠慮しちゃあいけないんです。
今、白光真宏会が、あなた方は神の子です
と言ってるけど、それは、あなた方の中に
ある神様の深い生命というもの、それを
用いていただく時には遠慮しちゃあいけない
ということです。それをどう用いて下さるか
は向こうが決めることであって、我々は
そこへ導いて下さるままに、祈って進んで
ゆけばいいんです。ただだまって座って
いても構わないんです。任せてしまえば、
向こうがきっちりして下さるんだから。
ただ、我々の中に、性格というものが
あるでしょ、気持ちというものがありますよ。
だから、そんな私なんかとか思うけれども、
そうじゃない。毎日毎日投げ出して
祈ってるんだから、カラッポになる修行を
しているんだから、ある時に、ものすごい
大役がくるかもしれない。ある時に、
ものすごい辛いことがくるかもしれない。
いいことも悪いことも来ますよ。その時に、
いざという時に、そうだ神様と投げ出してね。
今まで投げ出してくる練習をして来ました、
だから、どうか用いて下さい、器にして
下さいって祈ってごらんなさい。本当に
祈りの光でいっぱいになるから。で、呼んで
下さる時には、私はどこでも行くんです
からね。だから、呼んで呼んで祈って
祈ってね、やって行かなきゃあこの世の中と
いうのは、辛くて辛くてしょうがないんです。
その為に本心も心もあるんですよ。あなた方の
中に神の宮があるんですよ。神様とつらなっ
てるんですよ。そのことをどうぞ忘れないでね、
祈ってやって下さい。
昭和63年8月26日
心というものと本心というものは、これは
違うんですね。元々から言ってしまうと、本心
というものがあなた方の本来の姿。光り輝く姿
なんです。どうもね、言葉というものは
不自由でねえ、本心というとその本心という
イメージが湧いてくるでしょう。自分の
イメージに訴えてその像をつくっちゃうからねえ。
それで、どうにもしょうがなくなっちゃって
把われちゃうんだけれども、なるだけそれを
くだいて言おうと思うとね。つまり、光明が
あるところですね。神様の光が渦巻いて
いるところですよ。それが本心ですね。
それは、あなた方の肉体のもっと奥の奥の
自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、
どこともなくスポッとおさまってる、それが
本心ですね。
その本心というものは、いつも私が
申しますように、全く迷いのない姿。言葉を
かえて言えば、本心というのは、迷いも疑いも
悲しみも悩みも何にもないところで、ただ神様
だけを仰いで、神様と一体になってね、神様と
いるということも忘れて、ただその生命を
輝かしている。そういう場所、そこが本心の座
なんですね。
我々は、本当は色々な座にいるんです。
それは、特に統一しなくてもね。日常の
世界の中でもね。例えば、遊びに行ったり
食事をしたりとか、そういう信仰のことを
離れても、その時その時色んな座に
いるんですね。それはどういうことか
というと、やっぱり気持ちのいい人と会えば
自然に心が和んでね、言葉もやわらかに
なって、色んな話も弾みますでしょ。
そういう時には心が喜んでくるんですねえ。
そうして、色々な煩いを一時忘れて、
子供のように素直になって、その時には、
私達は素直という座にいますね。そういう
自覚をもたなくても、そういうところへ
導いて下さるのが守護霊さんであり守護神
さんですね。我々の生命とか生き方とかいう
ものは、もちろんこの世の中においても
向こうに行っても努力が必要ですが、しかし、
知らず知らずの間に守護霊さんとか守護神
さんが、きっちりと我々を行くべきところへ
導いて下すってる。自分も気がつかない内に、
いつの間にか、悩みとか悲しみとかいうものを
少なくして下すってる。その座というものは、
あなた方のあるいは我々の気持ちによって、
上がったり下がったりするんですよ。
向こうへ霊界移行するでしょう。霊界移行
したばかりの人達というのはね、やっぱり
こっちの世の中の想いとかありますよね。
早く死んじゃって、(残してきた)子供が
小さいのにとか、ありますでしょ。
そうすると、向こうは素直というのを
貫いて修行するんですよ。さっき申し
ましたね。神様の愛念というものは、
生き死にを貫いて、そういうものをとっ払っ
ちゃってあなた方を愛してるんだという
ことを申しましたね。だから、そこの
ところを深く信じる。難しいけれども深く
信じる。任せてしまう。それを向こうへ
行ってもやるんです。座禅したりね、色々
ありますよ。色んな修行の仕方がある
けれども、あなた方にもさせたけれどもね。
だけど、それは何の為か。すっきり自分の
生命が神様の方に抱きとられているという
ことを喜ぶ為の修行なんですね。
そうでなきゃあ、苦しむ為の修行だったら
何もならない。けれども、向こうへ移行した
ばかりの霊(こっちへ来たての霊)たちと
いうのは、残してきた人のことがやっぱり
気になるでしょ。それはやっぱり、肉体の我
といいますかね、肉体の想いの座に転落
しちゃうのね。で又、一からやり直す。
そりゃあ厳しいですよ。この世の中で、
子供の為にとか孫の為にとかね、あるいは、
この人の為にとかやってる方がよっぽどやり
やすい。その位厳しい。よく、ひとおもいに
向こうへ行ったらと想うけれども、そうも
いかないんですね。
やはり、人間のこういう日々の営みの中で、
色々なおもいを経験して、そうしてそれを
乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう
色んなところを通り過ぎて、祈りという
ところへ行くんでしょ。ですから、その祈り
というのはただ祈ればいいというもんじゃない。
神様へ呼びかける。こんな私ですけれども
といって呼びかける。その時に、神様
というのは、ああいいよといってあなた方に
答えて下さる。
前も申し上げたかもしれないけれども、神様
というのは人間を裏切らないんです。人間は
しょっちゅう神様を裏切るけれどもね。
何故、こんなことがあるんなら、神様なんて
信じるものかとかね。たいてい、自分にとって
辛いこと苦しいこと受け入れ難いことが
起こってくると、人間というものはやっぱり
神様を否定したくなる。そうでしょう。
でもそれは、自分の都合の悪いことが
起こってきた時には苦しくなるから
そう思うんですね。
ところが、神様というのはものすごい大愛
でね。それで、あなた方にずっと愛の光を
送ってるから、そういう叫びだとか恨みごと
だとか色んなものが来てもね、そういう涙顔を
見ても、可哀想になあと思いながら、本当の
ところはずっと光を与え続けているんですね。
そういう絶え間のない光、それが本心
ですよね。
そして、いつも申しますように、あなた方が
神様からの分霊(わけみたま)であり
分生命(わけいのち)なんだから、その本心の
光というものは神様から流れてくるだけ
じゃない。見えないけれども、あなた方の
奥の体の中にどこともなく入っている、光
そのもの、本心。あなた方の中にある訳
だから、その本心と神様の宇宙神の大御心とが
交流し合って、この世の中というものは
息づいているんです。あるいは、植物でも
鉱物でも動物たちでもね。そういう交流が
なかったら生命というものはすぐに
枯れてしまいますよ。そういう素晴らしい
宝を我々は神様からいただいているんだねえ。
ところが、心というものがあってね、あるいは
感情と言った方がいいかもわからない。
恨みごとだとか、もう勘弁してほしいとか、
いやだとか、そういうものというのはここから
出るんですね。肉体にまとわりついてくる我
というものもここなんですよね。ここに
からみついてるんです。だから、これを
自分自身だ、私の心だと思ってしまうと、
思い間違いする訳ですね。
もう何十回も言ったことだけども、我々の
心の奥底ずっと降りていくと、やっぱり本心
というものがある。そして、先程申しました
けどね、毎日毎日の生活の中で色々な座
がある。その座に座らせていただいている。
喜びごとがある時には喜びの座に
座ってるんです。悲しみのときには悲しみの
座に座ってるんです。あるいは、孤独の座
にも座るんです。そうして、そういうところへ
座らせていただきながら、私たちは、神様の
大きな愛の座、本心の座、光の座、神様の
座に招かれて、そこへ進んでゆく訳ですね。
それは何も向こうへ行って修行しなくっ
たって、毎日毎日がそうなんですよ。この世と
向こうは続いているんだからね。
この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が
意識しようとしまいとね、その座が進んで
ゆくかどうか、転落するかしないか、毎日
毎日の想いが修行の場なんです。霊界だって
想いでみんなつくられているでしょ。だから、
物欲の強い人が向こうへ行ったら、そりゃあ
もう物欲かたまりの世界ができますよね。
無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いて
というような清浄な空気のところを歩くと。
みんなイメージなんです。イメージだ
けれども、じゃあ霊界がないかというとそう
じゃない。真実の生命につらなっていく、
そういうものというのは確固としてある。
だから、その本心というものをたずねて
祈ってね、できる限りの消えてゆく姿を
やって、その座が進んでいくように、
そうして、進むも進まないも、もうひとつ
いけば、神様に任せます、いいように
なすって下さいという風に言えるように
もっていくのが信仰ですねえ。
そして、それを助けるのが五井先生ですね。
世界平和の祈りですね。決してあなた方
だけの力で絶対そんなことはできませんよ。
だけど、あなた方の祈り心が一人になり
二人になり十人になり三十人にとやって
いけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあ
すごい力を発揮するんです。目には見えない
けれども、その光がサーッと全世界に
うずまいて、全宇宙に広がってね、そうして、
光明があたりを浄めていくんですね。その
ことを忘れたらいけません。そのことを
忘れて祈りをしたら、これはただ単なる
ご利益の祈りになっちゃう。そうじゃ
ないんですよ。南無阿弥陀仏にしても南無妙
法蓮華経にしても、世界平和の祈りにしても
主の祈りにしたって、本当の真実の祈りの
奥底にあるものは、何か、こうして下さい、
ああして下さい、運がよくなりますように、
そりゃあ大事ですよ、みんな生き生きと
いかなきゃいけないんだから、やっぱり
そういうものはなきゃ困る。でも本当に
目指すものは何かというと、神様と一体に
なる我々は生命なんだという、その喜びに
至る。そこが大事なんです。それを忘れた
祈りはないんです。
神様というものが我々の為にいて下すってね、
神様というものから我々は分かれてきた分生命、
分霊で、そうして、我々が我々の分に応じて、
あるいはそれ以上の働きを、神様の力によって
愛念によってさせていただくんだということね。
本心と心というものは分かれてるものじゃ
ないんですよ。本心からずっと光明が
出ましてね、我々の肉体も想いも、想いを
出してる心も浄めていくんです。祈りが
それを浄めていくんですよ。だから、世界
平和の祈りの中に、あるいは、南無阿弥
陀仏の中に、色んな祈りの中に溶け込んで
そうして最後には、自分自身が役に立つも
立たないも、とに角神様の光になって無に
なって動いていく時に、この世の中という
のは光明波動になっていく訳ですね。
だから、役に立たない生命なんていうのは
この世の中に一つもないんです。無駄という
ものも一つもないんです。
生きるということにしたって死ぬという
ことにしたって時があってね。我々のこの
肉体人間の情から言えばとてもやりきれない
色んな出来事だって、それはやはり選びの時
なんですね。向こう側からすれば選びの時
なんです。そうして皆のことを考えてる。そう
いう時が与えられる時はね。だから、ああ
これは神様が与えて下すったものなんだな
と考えることですねえ。それを目指して、
世界平和の祈りというものがあり、皆さんの
統一というものがあり、印というものがある。
皆離れてるもんじゃないんですよ。
あなた方の祈り心が深くなって、自分を深く
省みて、自分の中に、そうだ神様からの宝物を
私たちはいただいているんだなと、そう思える
心になった時に、そう思える心が一瞬間きたら、
これはもう大変なことですね。
で、それをずっと続けていって下されば、
それはもう大変なことですよ。それを出来ない
と思っているのが人間ですよ。出来ると
思っているのが神様です。
宗教というのは、その出来ると思ってる
神様の大きな愛念に、我々全部を預けて
しまうことですね。生命もすべてね。投げ出す
というのは大変なことだけど、やってしまえば
簡単なんですよ。なかなか情としては
大変だけどね。やってしまえばと言ったって、
出来ないですよ先生とくるかもわからない
けれども、あなた方、祈ってる時は
投げ出してるんだよ。自分たちは分からない
けれどね。世界平和の祈りを祈ってる時は、
色んな雑念があろうと何していようと、
やっぱり投げ出してるんです。だから、
あなた方は毎日毎日投げ出して、自分を
カラッポにする修行をやっぱり
やってるんですよ。気がつかない内に
させていただいてるんです。
だから、任せるということは朗らかになる
ことですよ。神様と一つ生命になるという
ことですよ。あるいは、神様の愛が私達の
中に流れているということを知ることです。
その為に祈りがある。その為に生きる。その
為に悩むんです。すべて無駄な事はないんです。
皆必要なんですね。決まってる事なんです。
必定なんです。だけども、神様というのは
宿命じゃない。宿命論者じゃないし運命論者
じゃない。だから、運命修正というものが
出来るでしょ。皆さんの祈りによって
出来るでしょう。あるいは、皆さんの愛念に
よって動いていくんですよ。そこに世の中の
人々が言う奇跡というものも生まれて
来るんです。だから、もうこれは神様事
だから神様に任せなければ仕方がないと
いって投げ出してね。投げ出してというのは
放り投げて努力もしない、ねえ、もうとても
私達の力では及びませんといって投げて
しまっちゃあ、こりゃあ駄目なんです。
やっぱり祈る。祈って祈って祈って
祈りきったところに光が出てくる。
その時に、例えば生き死にの問題で
言えばね、つまり、一人の人に、生命を
向こうにもっていかれるか、まだこっちに
いて皆さんの役に立つか、どちらになるか
分からないけれど、祈って光がパーッと
来て、そうして、そうかそれじゃあといって
向こうで変更になるかもわからない。その辺
わからないんです。ただ分かってる事は、
どんな風な現われ方をしても、神様という
ものは絶対に私達一人一人を愛している
ということ。憎んだりは絶対しない。恨んだり
も絶対しない。何故なら、みんな神様の子供
なんだから。ね、子供を愛さない親はいない
でしょう。そうでしょう。絶対みんな子供は
可愛いいですよ。その何十倍何千倍、神様
というものは一人一人を愛している。今の
あなた方のありのままを愛しているし、
あなた方の中に貫いて流れている深い生命
というものも愛してるし、あなた方全体の、
もう全部を愛してる。それを引き出して
用いようとなすってらっしゃる。だから、
遠慮しちゃあいけないんです。
今、白光真宏会が、あなた方は神の子です
と言ってるけど、それは、あなた方の中に
ある神様の深い生命というもの、それを
用いていただく時には遠慮しちゃあいけない
ということです。それをどう用いて下さるか
は向こうが決めることであって、我々は
そこへ導いて下さるままに、祈って進んで
ゆけばいいんです。ただだまって座って
いても構わないんです。任せてしまえば、
向こうがきっちりして下さるんだから。
ただ、我々の中に、性格というものが
あるでしょ、気持ちというものがありますよ。
だから、そんな私なんかとか思うけれども、
そうじゃない。毎日毎日投げ出して
祈ってるんだから、カラッポになる修行を
しているんだから、ある時に、ものすごい
大役がくるかもしれない。ある時に、
ものすごい辛いことがくるかもしれない。
いいことも悪いことも来ますよ。その時に、
いざという時に、そうだ神様と投げ出してね。
今まで投げ出してくる練習をして来ました、
だから、どうか用いて下さい、器にして
下さいって祈ってごらんなさい。本当に
祈りの光でいっぱいになるから。で、呼んで
下さる時には、私はどこでも行くんです
からね。だから、呼んで呼んで祈って
祈ってね、やって行かなきゃあこの世の中と
いうのは、辛くて辛くてしょうがないんです。
その為に本心も心もあるんですよ。あなた方の
中に神の宮があるんですよ。神様とつらなっ
てるんですよ。そのことをどうぞ忘れないでね、
祈ってやって下さい。
昭和63年8月26日