人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

老人の生き方について(2)

2020-06-03 08:02:05 | スピリチュアル
    (前日からの続き)
若い時には、あの祈りは大調和の
祈りですから、ああいいなあと思っている。
ところが、歳を重ねる毎に、あの祈りは
難しいなあと思う筈なんですよ。
つまり、すべてにありがとうございますでしょう、
ありがとうございますどころじゃない
気持ちの人たちがね、世の中に一杯いるんですよ。
嫁と喧嘩をしている、息子とうまくいかない、
孫が自分と離れていく、子どもが自分の
思うような方向にいかないと、自分が生きて来た
人生は何だったろうと思う時にね、ありがとう
ございますとはなかなか言えない訳でね、
そのありがとうございますと言えない部分が
増えてゆく訳ですね。
だけれども、それが何故そうなってゆくか
というと、その人が生きて段々歳を重ねていって、
人生というのは一面から観れば、喜びや楽しみ
よりも何か寂しさと悲しみの方が多いという
ことを、自分の経験で知っていく訳ですよね。
ですから、その経験で計る以上は、何となく
虚しい寂しいのそっちの方が勝って、なかなか
ありがとうございますと言えなくなるんです。

ですけれども、そこでじゃあどうしたら
いいのかというと、それでも生命というのは
生きる事を止めないという、その事実
なんですよね。
みんな生命というものは、一つとして、
この人の生命は要らない、この草木の生命は
要らない、この大地の地球霊王の生命は
要らないというものは何一つとして
ないんですよ。
神様の目から観ると。
この人は悠揚で尊い高い魂だから、こういう
人には生きててもらわないと、優れた人を
見ると皆そう思いますよね。
ですけれども、黙って意見も言わないような、
居るか居ないか分からないような人を
見ていると、なんか尊敬する気にも
なれないし、その人が何十年も生きていると、
何をうすぼんやり生きているんだろうと、
別に残酷な意味ではなくても皆思うんですよ。
ところがね、こっち側から観ていますと、
さっきの話の続きじゃないけれど、やっぱり
誰一人として神様の光を出さない人間なんて
いないんですよね。
そういう人ほどね、つまり、何も主張せず
ぼんやり生きているように見えるけれども、
その中の火は燃えているというような人、
その人ほど本当に素直に生かされている、生命の
ままに流れのままに生きるということになるんです。
             (つづく)