人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

短 信(五)

2012-02-24 11:23:51 | スピリチュアル
 不幸をどう考えたらいいかという
お便り、胸を痛くしながら拝見
いたしました。

 私はおきよめをする時に、みなさん
一人一人の天命をみて、天命のながれを
受けて、そうして浄めているわけですが、
それにしても、このような深いかなしみ
には、ただ手を握ってさし上げるという
ことがまっ先になされる人間としての
行為のようにおもいます。

 私がかたく、あなたの手をにぎり
しめているのだと、そしてあなたに
代ってあなたの歎きを神に到らしめ、
光をお送りしているのだと
おもって下さい。

 世界人類が平和でありますように

               昌 久

短 信(四)

2012-02-23 11:28:11 | スピリチュアル
 おもいを明るくすることが大事です。
 とらわれやこだわりが一番苦しいのです。
 それを業想念とよぶのですが、今の
あなたには、言葉が頭の中で空まわり
するでしょうから、もう何も考えないで、
苦しくなったらただ世界平和の祈りを
なさい。それも苦しければ、ただ私を
よんで下さい。
 私はすぐ光を送りますから。何も心配
しないで、ただ自分は明るいんだと
おもっていらっしゃい。
                  昌 久

短 信(三)

2012-02-22 15:58:21 | スピリチュアル
 御手紙拝見致しました。

 先ず端的に申し上げますが、宗教は学問
ではありません。といって、あなたの
おっしゃるような情ばかり、こころばかりの
弱々しいものでもありません。

 宗教とは、本来、人の心をゆたかにし
生き生きとさせるものであります。

 それは深い本来心をかかえ込んで生き生きと
させてゆくのです。宗教という言葉を抜いて
いいますと、真実にやさしさを発揮する人を
育ててゆくのです。なぜなら、それが人間の
真性だからです。このやさしさを発揮させる
ために指導者は、そして宗教によってくる
人々は、ありのままの自分を、そのままに
投げ出す時に味わう平和を、祈りのなかに
見出すのです。

 決してたなからボタもちではないのです。
 人々の愛をよりつよくたくましくするために
神様はあらゆる手段をお使いになるのです。

 そして、このきたえは、人間の真性が光だ
ということをよく御存知の神様だからこそ
おできになるのです。

 私どもは、この神様の前にいのちを
投げ出していのちをやさしくやわらかにして
ゆくのであります。
                昌 久

短 信(二)

2012-02-21 11:18:14 | スピリチュアル
 お手紙拝見致しました。次から次へと御病気に
かかられて、気も弱っていらっしゃる
ことでしょう。けれど、人間は肉体のいのちが
すべてではありません。むしろ、肉体の
いのちをやしなっているのは、霊であります。
 神様のいのちであります。肉体はこういう
ことを思うと本当に不自由な場ですね。
 自由自在身、これが、分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)である人間の本来なのです。
 ですから肉体だけのいのちではないという
ことなのです。肉体だけのいのちなら、
病気をしつづけて、ずっとあなたのように病院で
すごしている人にとって、いのちとは、何と
つまらないものだということになる筈です。
 そうではないのです。すこやかな人も病んで
いる人も、神様は等しくそのいのちを
用いられる、各々の光を用いられるのであります。
 ですから、どうぞそのままで心に世界平和の
祈りをうかべ、日々、あなたのいのちを
かがやかせて下さい。
                   昌 久

短 信(一)

2012-02-20 11:45:03 | スピリチュアル
 久しくごぶさたしたが元気でやっているかい。

 色々おもいなやむこともあるようだが、
神様がすべてみていて下さるのだ。祈りを
忘れないことだよ。

 実際、祈りがすべてなのだ。祈りの他には
何もないといってもいいぐらいなのだ。

 けれども以前よりは短気が治ってきたと
嬉しく思っている。

 五井先生だって毎日色々な人に接したからね、
いきおい気が長くなったよ。
 いらいらしなくなったというより、自分の
本体をみちゃったからね、光りかがやく人間の
本体をみたら、とたんにはらを立てるのが
馬鹿馬鹿しくなったのだよ。

 だから感情の波がゆれ動いているように
みえても、私は決してゆるがなかった。

 私の守護霊守護神がしっかりと神に土台を
すえて下さったのだ。

 神からすべては流れている。僕らは
生かされている生命(いのち)なのだ。

 生きている生命とつい信仰をしているんでも
おもいがちだけれど、そうじゃない、徹底して
生かされたいのちなのだ。

 生かされているとおもうと、何もかもが
ありがたくなってくる。自分に対していやな
ことをいう相手でさえもありがたくなるものだ。
 なぜなら、自分というもの、我というものが
なくなっているんだから、ね、そうだろう。私
なんかありがたいことだらけだよ、神界に
いる今も情けなくなったり思わず怒鳴りたく
なるようなことにも出会うけれど、それは、
いつもいうように、私が怒るんじゃない、
みんなの守護霊、守護神をとおしての
その人への業が五井昌久という場を
かりるだけだ。

 私はみんなの我を預かって、そしてそれを光
にして返しているんだよ。嫌なこと、辛いこと
そういうみんなの思いが、つぶてのように
私のところに飛んでくる。

 よく目にとまらぬ早技というけれどそんな
ものじゃない。でも、奥の奥のいのちが、光
そのものだということを知っているから、
おそれる気持ちなんかないし、いくらでも
いらっしゃい、みんな引き受けましょう
ということになったんだ。これは神様と私との
約束事だよ。

 業想念のつよさを私はよく知っている。そして
光がそれに倍してすべてを明るくかえてゆく
ことを、私は一番知っているんだ。

 だから安心している。未来永劫安心しているよ。

 君、人間というのは光だよ。それ以外の何物
でもない。ただ、だからといって人間の心を
粗末にしていいなどとはいわないよ。

 まだまだ、色々な気持ちも味わい、ゆれ動く
ことも多いだろうが、いつも、私が君の側に
いることを忘れないで、日々世界平和の祈りを
唱え精進してくれ給え。
                     昌 久