人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

心と本心

2012-02-14 10:38:10 | スピリチュアル
 これも何度も話をしたことですけれどもね。
 心というものと本心というものは、これは
違うんですね。元々から言ってしまうと、本心
というものがあなた方の本来の姿。光り輝く姿
なんです。どうもね、言葉というものは
不自由でねえ、本心というとその本心という
イメージが湧いてくるでしょう。自分の
イメージに訴えてその像をつくっちゃうからねえ。
 それで、どうにもしょうがなくなっちゃって
把われちゃうんだけれども、なるだけそれを
くだいて言おうと思うとね。つまり、光明が
あるところですね。神様の光が渦巻いて
いるところですよ。それが本心ですね。
 それは、あなた方の肉体のもっと奥の奥の
自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、
どこともなくスポッとおさまってる、それが
本心ですね。

 その本心というものは、いつも私が
申しますように、全く迷いのない姿。言葉を
かえて言えば、本心というのは、迷いも疑いも
悲しみも悩みも何にもないところで、ただ神様
だけを仰いで、神様と一体になってね、神様と
いるということも忘れて、ただその生命を
輝かしている。そういう場所、そこが本心の座
なんですね。

 我々は、本当は色々な座にいるんです。
 それは、特に統一しなくてもね。日常の
世界の中でもね。例えば、遊びに行ったり
食事をしたりとか、そういう信仰のことを
離れても、その時その時色んな座に
いるんですね。それはどういうことか
というと、やっぱり気持ちのいい人と会えば
自然に心が和んでね、言葉もやわらかに
なって、色んな話も弾みますでしょ。
 そういう時には心が喜んでくるんですねえ。
 そうして、色々な煩いを一時忘れて、
子供のように素直になって、その時には、
私達は素直という座にいますね。そういう
自覚をもたなくても、そういうところへ
導いて下さるのが守護霊さんであり守護神
さんですね。我々の生命とか生き方とかいう
ものは、もちろんこの世の中においても
向こうに行っても努力が必要ですが、しかし、
知らず知らずの間に守護霊さんとか守護神
さんが、きっちりと我々を行くべきところへ
導いて下すってる。自分も気がつかない内に、
いつの間にか、悩みとか悲しみとかいうものを
少なくして下すってる。その座というものは、
あなた方のあるいは我々の気持ちによって、
上がったり下がったりするんですよ。

 向こうへ霊界移行するでしょう。霊界移行
したばかりの人達というのはね、やっぱり
こっちの世の中の想いとかありますよね。
 早く死んじゃって、(残してきた)子供が
小さいのにとか、ありますでしょ。
 そうすると、向こうは素直というのを
貫いて修行するんですよ。さっき申し
ましたね。神様の愛念というものは、
生き死にを貫いて、そういうものをとっ払っ
ちゃってあなた方を愛してるんだという
ことを申しましたね。だから、そこの
ところを深く信じる。難しいけれども深く
信じる。任せてしまう。それを向こうへ
行ってもやるんです。座禅したりね、色々
ありますよ。色んな修行の仕方がある
けれども、あなた方にもさせたけれどもね。
 だけど、それは何の為か。すっきり自分の
生命が神様の方に抱きとられているという
ことを喜ぶ為の修行なんですね。
 そうでなきゃあ、苦しむ為の修行だったら
何もならない。けれども、向こうへ移行した
ばかりの霊(こっちへ来たての霊)たちと
いうのは、残してきた人のことがやっぱり
気になるでしょ。それはやっぱり、肉体の我
といいますかね、肉体の想いの座に転落
しちゃうのね。で又、一からやり直す。
 そりゃあ厳しいですよ。この世の中で、
子供の為にとか孫の為にとかね、あるいは、
この人の為にとかやってる方がよっぽどやり
やすい。その位厳しい。よく、ひとおもいに
向こうへ行ったらと想うけれども、そうも
いかないんですね。

 やはり、人間のこういう日々の営みの中で、
色々なおもいを経験して、そうしてそれを
乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう
色んなところを通り過ぎて、祈りという
ところへ行くんでしょ。ですから、その祈り
というのはただ祈ればいいというもんじゃない。
 神様へ呼びかける。こんな私ですけれども
といって呼びかける。その時に、神様
というのは、ああいいよといってあなた方に
答えて下さる。

 前も申し上げたかもしれないけれども、神様
というのは人間を裏切らないんです。人間は
しょっちゅう神様を裏切るけれどもね。
 何故、こんなことがあるんなら、神様なんて
信じるものかとかね。たいてい、自分にとって
辛いこと苦しいこと受け入れ難いことが
起こってくると、人間というものはやっぱり
神様を否定したくなる。そうでしょう。
 でもそれは、自分の都合の悪いことが
起こってきた時には苦しくなるから
そう思うんですね。

 ところが、神様というのはものすごい大愛
でね。それで、あなた方にずっと愛の光を
送ってるから、そういう叫びだとか恨みごと
だとか色んなものが来てもね、そういう涙顔を
見ても、可哀想になあと思いながら、本当の
ところはずっと光を与え続けているんですね。
 そういう絶え間のない光、それが本心
ですよね。

 そして、いつも申しますように、あなた方が
神様からの分霊(わけみたま)であり
分生命(わけいのち)なんだから、その本心の
光というものは神様から流れてくるだけ
じゃない。見えないけれども、あなた方の
奥の体の中にどこともなく入っている、光
そのもの、本心。あなた方の中にある訳
だから、その本心と神様の宇宙神の大御心とが
交流し合って、この世の中というものは
息づいているんです。あるいは、植物でも
鉱物でも動物たちでもね。そういう交流が
なかったら生命というものはすぐに
枯れてしまいますよ。そういう素晴らしい
宝を我々は神様からいただいているんだねえ。

 ところが、心というものがあってね、あるいは
感情と言った方がいいかもわからない。
 恨みごとだとか、もう勘弁してほしいとか、
いやだとか、そういうものというのはここから
出るんですね。肉体にまとわりついてくる我
というものもここなんですよね。ここに
からみついてるんです。だから、これを
自分自身だ、私の心だと思ってしまうと、
思い間違いする訳ですね。

 もう何十回も言ったことだけども、我々の
心の奥底ずっと降りていくと、やっぱり本心
というものがある。そして、先程申しました
けどね、毎日毎日の生活の中で色々な座
がある。その座に座らせていただいている。
 喜びごとがある時には喜びの座に
座ってるんです。悲しみのときには悲しみの
座に座ってるんです。あるいは、孤独の座
にも座るんです。そうして、そういうところへ
座らせていただきながら、私たちは、神様の
大きな愛の座、本心の座、光の座、神様の
座に招かれて、そこへ進んでゆく訳ですね。
 それは何も向こうへ行って修行しなくっ
たって、毎日毎日がそうなんですよ。この世と
向こうは続いているんだからね。
 この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が
意識しようとしまいとね、その座が進んで
ゆくかどうか、転落するかしないか、毎日
毎日の想いが修行の場なんです。霊界だって
想いでみんなつくられているでしょ。だから、
物欲の強い人が向こうへ行ったら、そりゃあ
もう物欲かたまりの世界ができますよね。
 無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いて
というような清浄な空気のところを歩くと。
 みんなイメージなんです。イメージだ
けれども、じゃあ霊界がないかというとそう
じゃない。真実の生命につらなっていく、
そういうものというのは確固としてある。
 だから、その本心というものをたずねて
祈ってね、できる限りの消えてゆく姿を
やって、その座が進んでいくように、
そうして、進むも進まないも、もうひとつ
いけば、神様に任せます、いいように
なすって下さいという風に言えるように
もっていくのが信仰ですねえ。

 そして、それを助けるのが五井先生ですね。
 世界平和の祈りですね。決してあなた方
だけの力で絶対そんなことはできませんよ。
 だけど、あなた方の祈り心が一人になり
二人になり十人になり三十人にとやって
いけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあ
すごい力を発揮するんです。目には見えない
けれども、その光がサーッと全世界に
うずまいて、全宇宙に広がってね、そうして、
光明があたりを浄めていくんですね。その
ことを忘れたらいけません。そのことを
忘れて祈りをしたら、これはただ単なる
ご利益の祈りになっちゃう。そうじゃ
ないんですよ。南無阿弥陀仏にしても南無妙
法蓮華経にしても、世界平和の祈りにしても
主の祈りにしたって、本当の真実の祈りの
奥底にあるものは、何か、こうして下さい、
ああして下さい、運がよくなりますように、
そりゃあ大事ですよ、みんな生き生きと
いかなきゃいけないんだから、やっぱり
そういうものはなきゃ困る。でも本当に
目指すものは何かというと、神様と一体に
なる我々は生命なんだという、その喜びに
至る。そこが大事なんです。それを忘れた
祈りはないんです。

 神様というものが我々の為にいて下すってね、
神様というものから我々は分かれてきた分生命、
分霊で、そうして、我々が我々の分に応じて、
あるいはそれ以上の働きを、神様の力によって
愛念によってさせていただくんだということね。
 本心と心というものは分かれてるものじゃ
ないんですよ。本心からずっと光明が
出ましてね、我々の肉体も想いも、想いを
出してる心も浄めていくんです。祈りが
それを浄めていくんですよ。だから、世界
平和の祈りの中に、あるいは、南無阿弥
陀仏の中に、色んな祈りの中に溶け込んで
そうして最後には、自分自身が役に立つも
立たないも、とに角神様の光になって無に
なって動いていく時に、この世の中という
のは光明波動になっていく訳ですね。
 だから、役に立たない生命なんていうのは
この世の中に一つもないんです。無駄という
ものも一つもないんです。

 生きるということにしたって死ぬという
ことにしたって時があってね。我々のこの
肉体人間の情から言えばとてもやりきれない
色んな出来事だって、それはやはり選びの時
なんですね。向こう側からすれば選びの時
なんです。そうして皆のことを考えてる。そう
いう時が与えられる時はね。だから、ああ
これは神様が与えて下すったものなんだな
と考えることですねえ。それを目指して、
世界平和の祈りというものがあり、皆さんの
統一というものがあり、印というものがある。
 皆離れてるもんじゃないんですよ。

 あなた方の祈り心が深くなって、自分を深く
省みて、自分の中に、そうだ神様からの宝物を
私たちはいただいているんだなと、そう思える
心になった時に、そう思える心が一瞬間きたら、
これはもう大変なことですね。
 で、それをずっと続けていって下されば、
それはもう大変なことですよ。それを出来ない
と思っているのが人間ですよ。出来ると
思っているのが神様です。

 宗教というのは、その出来ると思ってる
神様の大きな愛念に、我々全部を預けて
しまうことですね。生命もすべてね。投げ出す
というのは大変なことだけど、やってしまえば
簡単なんですよ。なかなか情としては
大変だけどね。やってしまえばと言ったって、
出来ないですよ先生とくるかもわからない
けれども、あなた方、祈ってる時は
投げ出してるんだよ。自分たちは分からない
けれどね。世界平和の祈りを祈ってる時は、
色んな雑念があろうと何していようと、
やっぱり投げ出してるんです。だから、
あなた方は毎日毎日投げ出して、自分を
カラッポにする修行をやっぱり
やってるんですよ。気がつかない内に
させていただいてるんです。

 だから、任せるということは朗らかになる
ことですよ。神様と一つ生命になるという
ことですよ。あるいは、神様の愛が私達の
中に流れているということを知ることです。
 その為に祈りがある。その為に生きる。その
為に悩むんです。すべて無駄な事はないんです。
 皆必要なんですね。決まってる事なんです。
 必定なんです。だけども、神様というのは
宿命じゃない。宿命論者じゃないし運命論者
じゃない。だから、運命修正というものが
出来るでしょ。皆さんの祈りによって
出来るでしょう。あるいは、皆さんの愛念に
よって動いていくんですよ。そこに世の中の
人々が言う奇跡というものも生まれて
来るんです。だから、もうこれは神様事
だから神様に任せなければ仕方がないと
いって投げ出してね。投げ出してというのは
放り投げて努力もしない、ねえ、もうとても
私達の力では及びませんといって投げて
しまっちゃあ、こりゃあ駄目なんです。
 やっぱり祈る。祈って祈って祈って
祈りきったところに光が出てくる。

 その時に、例えば生き死にの問題で
言えばね、つまり、一人の人に、生命を
向こうにもっていかれるか、まだこっちに
いて皆さんの役に立つか、どちらになるか
分からないけれど、祈って光がパーッと
来て、そうして、そうかそれじゃあといって
向こうで変更になるかもわからない。その辺
わからないんです。ただ分かってる事は、
どんな風な現われ方をしても、神様という
ものは絶対に私達一人一人を愛している
ということ。憎んだりは絶対しない。恨んだり
も絶対しない。何故なら、みんな神様の子供
なんだから。ね、子供を愛さない親はいない
でしょう。そうでしょう。絶対みんな子供は
可愛いいですよ。その何十倍何千倍、神様
というものは一人一人を愛している。今の
あなた方のありのままを愛しているし、
あなた方の中に貫いて流れている深い生命
というものも愛してるし、あなた方全体の、
もう全部を愛してる。それを引き出して
用いようとなすってらっしゃる。だから、
遠慮しちゃあいけないんです。

 今、白光真宏会が、あなた方は神の子です
と言ってるけど、それは、あなた方の中に
ある神様の深い生命というもの、それを
用いていただく時には遠慮しちゃあいけない
ということです。それをどう用いて下さるか
は向こうが決めることであって、我々は
そこへ導いて下さるままに、祈って進んで
ゆけばいいんです。ただだまって座って
いても構わないんです。任せてしまえば、
向こうがきっちりして下さるんだから。

 ただ、我々の中に、性格というものが
あるでしょ、気持ちというものがありますよ。
 だから、そんな私なんかとか思うけれども、
そうじゃない。毎日毎日投げ出して
祈ってるんだから、カラッポになる修行を
しているんだから、ある時に、ものすごい
大役がくるかもしれない。ある時に、
ものすごい辛いことがくるかもしれない。
 いいことも悪いことも来ますよ。その時に、
いざという時に、そうだ神様と投げ出してね。
 今まで投げ出してくる練習をして来ました、
だから、どうか用いて下さい、器にして
下さいって祈ってごらんなさい。本当に
祈りの光でいっぱいになるから。で、呼んで
下さる時には、私はどこでも行くんです
からね。だから、呼んで呼んで祈って
祈ってね、やって行かなきゃあこの世の中と
いうのは、辛くて辛くてしょうがないんです。
 その為に本心も心もあるんですよ。あなた方の
中に神の宮があるんですよ。神様とつらなっ
てるんですよ。そのことをどうぞ忘れないでね、
祈ってやって下さい。

       昭和63年8月26日

神の愛念について

2012-02-13 11:17:25 | スピリチュアル
 神の愛念についてということでありますが、
いつも申しておりますように、神様の愛念
というものは、これは絶えることなく、
ゆるしの大河ともいうべき大生命の根元から
流れてきているものであります。そして、
神様の愛念というものは、我々人間のこの
肉体や想いや、我だとか何だとか、余分な
ものが色々くっついてはいるけれども、
しかし、その中を貫いて流れている。つまり、
神様の愛念というものは、離れて何か遠くに
あるものではなくて、自分の中に絶えず
息づいている。生命そのものなんだという
ことをまずここで覚えておかないと、我々は
大変な間違いをすることになってゆく。

 今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。不安がある、色んなことが起こってくる。
 事故はあるし、災害はあるし、今年みたいに
天候が不順じゃあとか言ってるけれども。実際に
毎日毎日、今もどこかで大雨が降り雷が鳴って、
雷に打たれて死ぬ人だってある。雨に流されて
家がどっかへいっちゃう人もある。つぶれて
下敷きになってけがをする人やなくなっちゃう
人がある。そういう不浄の世の中というもの、
これを見ていると、何を頼りにして何を
よりどころにして生きていったらいいか
分からないという不安がつきあげてくる。と
いうのがこの世の中の本当のところであります。

 で、そういうところをふまえて、私は何を
申し上げるかというと、我々というものは、
常に神様の愛によって生きているのである
ということ。これを忘れてしまっては
困るんです。ここが本道なんです。
 なくなったり何だかんだしているが、
それが何で神様の愛なんだと、肉体をもつ
人間は思うけれども、しかし、神様の愛と
いうのはね、あなた方一人一人の天命を
抱きとって、この世だけじゃなくてずっと
深い天命を愛して、そうして、もちろん、
あなた方という一人一人を愛して、そこを
見つめての光をむこうから流し続けて
いらっしゃる。その愛なんですね。だから、
個人の小さな喜びもささやかな喜びも、
良かったねといってむこうから光を送って
下さるけれども、しかし、一人の人間の
生き死にが問題ではないというところに
神様の愛というものがあるんです。

 こう言うと、非常に無情のように
思うけれどもね、そうじゃない。つまり、
本当に人間の姿、そして、神様の愛というものを
知って行く時には、肉体の死とか、いくつで
死んだとか、若くて死んでしまってかわいそう
だとか、そういうことというのは何となく
問題にならなくなってくる。
 私なんかは、むこうの方からこっちを今
見てますでしょ。そうしますと、本当に
こっちもむこうもないんですよね。むこうの世界も
こっちの世界も、ずうっと連なっている。ただ、
あなた方の場合は、肉体の肉眼という目でもって
みているから、あっちの世界が見えてこないだけで。

 しかし、そういう把われも何もかも捨てて
しまってね、祈り一念、世界平和の祈り一念になって、
五井先生、神様、お願いしますと。世界平和の祈りで
教義を唱える。その教義を唱えるということは
どういうことかというと、つまり、無になって、
自分もなく人もなく、自分が祈るということも忘れて、
その大きな流れの中へ入ってしまえば、あなた方の
肉体が、その時、肉体をもったまま肉体が
消えるんですよ。肉体の波が消えて、そうして、
自分がここにいるということも忘れて、ただ、祈りの
光と一緒になっていく。そういうものなんですね。
 本来そういうものなんです。それは、どんな赤ん坊
であっても子供であっても、あるいは、老人
であっても、神様を知らないと思っている様な人で
あっても、あれは無神論者だと皆が非難するような
人であってもね、そのスイッチというものは
もってるんです。

 いつも申しますように、信仰というのは、例えば、
キリスト教なら礼拝堂へ行き、あるいは
お寺に行って、神様とか仏様に祈って、その祈る姿
だけが信仰じゃない。芸術家は芸術家で、音楽家は
音楽家で、大工さんは大工さんで、一所懸命に何か
一つのことに打ち込んで、無になって一つのことを
成し遂げる。その中に神様がいらっしゃる。その
中で神様が働くんです。自分をなくした時に神様
というものが現われてくる。愛念というものは
現われてくる。その愛念というものが現出して、
そうして、本当に今度は神様の愛に洗われる。
 我々の生命というものは、毎日毎日毎瞬毎瞬
新しくなってゆくんですね。そういうことが本当は
生きるということなんです。

 そんなこと言ってもね、五井先生、やっぱり毎日
死んでゆく人がある、重病の床にふしてる人がある、
事故にあって困ってる人がある、そういう悲しみ
というのはどうなるんですかと、皆思うでしょうねえ。
 確かにそれはそうなんですよ。私だって、愛弟子を
何人も失くしたり、大けがをして入院させたり、
ありますよ、この世の中にいた時にはね。だけども、
心配してるけれども心配しないんだよ。高橋君に
答えたことがあるけれども、分かるかね、
やっぱり心配してるけれども心配しないんです。
 心配してるというのは、この肉体の人間の
気持ちというものを味わってしまうと、確かに
心配なんです。オロオロしますよ。どうなる
だろう。手術が必要ならば早く手術が成功して
と思います。それは人間の情というもの
なんです。自然なんです。そこでオロオロ
したり、弱くなったり、神様がいるんだろうか
と思ったり、そういうことは私は否定しませんよ。
 私はそういう気持ちを通り抜けてきてるんだから。
 だけども、そこを通り抜けたところで、神様
というものは、もう一つ深いところでね、人間を
抱きとって、そうして、その人の天命が真っすぐに
明るく神様に向かって貫いて行けるように、守護霊
とか守護神が道を備えてね、そして、あなた達が
この世に生きていく糧も、肉体を養ってゆくべき
色々なものも、悲しみも辛さもいつの間にか
癒していくように、道をつけてゆく訳ですね。
 そこへの信仰というものが、我々にとって一番
大事になっていく訳です。

 ところが、やっぱり人間というのは弱いでしょう。
 斉藤さんが、おれがおれがというそのがを取って
と書いたでしょ。そのが(我)を取ってというけども、
なかなか我というものはなくならないんですよ。
 だから、世界平和の祈りがある。その我をもって、
すいません任せ切れない私ですけれども、どうぞ
世界平和の祈りの中で、祈りのエレベーターの中で、
五井先生の柏手によって口笛によって、あるいは
霊団の皆さんの光によって、神様の愛によって、
そうして、この我を少しでも少なくして下さい、
消して下さいと言って祈る。その時には、少なく
して欲しいと想って祈っていても、こっちから
見ていれば、もう空っぽになってるんです、皆さんは。
 だけども、皆私なんてとか私なんかが祈ったって
とか、そういう想いがしみついちゃってるからね、
だから出来ないんですよね。空っぽになっていると
想えないんですね。

 昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命やって
いる、それというのは、皆がね、空っぽになってる、
つまり、任せてしまうと器になれるんだということね。
 それは、私がやってるとか何とか想ってしまうと、
苦しくってなれないんですね。肉体の人間
というものは、余分なものを地球上に降りてから
一杯くっつけちゃったから、その肉体の人間を
自分自身だと思っている以上はね。自分の感情の動き
快不快だけを自分だと思ってる以上は、そこへ
とどまっちゃうんですよ。それが自分だと思っちゃう。
 ところが、神様というのはそうじゃない。
 あなた方の生き方とかおもい方とかね、それから、
過去の苦しみとか、全部、歴史というものは
ご存知の上でね、しかし、あなた方の中に貫いている、
明るい生命そのものを引っぱり出そう引っぱり出そう
と思ってる訳ね。で、素直にさせよう素直に
させようとね。苦しいけども行ったらこうなるよ
ということを示しながら、何とか明るい方へ明るい
方へというのが神様なんですよ。何故かというと、
あなた方の元の生命というのは明るいんだから。
 神様が明るい方へ明るい方へ、光明の方へ光明の
方へ、光の方へ光の方へなんです。だから皆が光の子
なんです。

 何度も言うけれども、やっぱり毎日のこと、煩い
とか何だとかやって過ごしてゆくと、とても
そんなこと思えないでしょ。だから、
その思えないなあ、とてもそうじゃあないなあ
というのを、もう死ぬまでね、何百回何千回
思ったって構わない。そうは思えない、そこまでは
私はいかない、そこまでは俺はそんなとても
じゃないけど、五井先生が言うようなところまで
いかないと思って構わないから、とに角、祈りの中へ
入っちゃいなさいよ。入っちゃったら後は、
守護霊さん守護神さんや私だとか皆で、洗って
きれいにして、そうして、又明日やっていく力を
こっちから与えてあげるんだからね。ただ、私が
するんだと思えば苦しくってしょうがないんです。
 それはさせていただくということなんです。
 そのさせていただくというのが皆間違うのはね、
いい事をさせていただくのならば、こりゃあ皆
気持ちいいですよ。ところがね、この世の中
人間関係です絶対にね。そうしますと、こっちが
いくら真心をこめて誠実を尽くしてやっても、ある時
とても辛いことがやってきたり、悪口雑言がきたりね。
 あるいは、集会なんかなすってますと、色んな
中傷が来たりね、つまんない我が出てきますでしょ。

 しかし、そういうことを勉強して、そうして、
荷を負わせていただいて、で、悪口を言われると、
やっぱりそれもありがとうなんですよ。それだって、
私が受けさせていただきますなんです。だから、
あの人はこんなこと言って、こんな考え方をして
けしからんというのは、やっぱり消えてゆく姿
なんだね。けしからんという想いは辛いけれども、
それで過去世のあなた方の何か業というものが
一つずつ消えるんですよ。だから、カッと腹が
立った時に、あっと思ってね、反省するだけ
じゃなくて、ああこれで消えたんだなあ、
ありがとうございますと思えたら、そこで光が
入るんですね。そこで、たとえあなた方が
思えなくても、その時にさあっと守護霊さんや
守護神さんや私の方から光が行くんですよ。そこを
信じるということが任せるということなんです。

 我々は、肉体の我々を我々だと思っている以上は
限界がありますよ。体力にだって気力にだってね
限界がある。肉体というものはいつか脱がなきゃ
いけない。百年生きる人は少ない訳でしょ。
 その百年の間たとえ生きたとしても、生き生きと
毎日喜び深くなんて、そんなことはなかなか
出来にくい訳ですよ。そうじゃなくて、肉体に
おもきを置くんじゃなくてね。私の生命を
つき動かしているものは神様なんだ、神様の愛
なんだ。私の深いところは神様がみんなご存知なんだ。
 だから、今は私は辛いけれども、何だか
分からない程辛いけれども、しかし、神様が全部
抱きとって、祈って、明るい方へ導いて下さるんだ
というそこだけ信じることが出来ればね、そういう
ことを思って、あるいは念じて祈ることが
出来ればですね、そうしたらもうこれは明るい方へ
生命の大元の方へ、皆さんの流れがいくに
決まってるんです。

 そうなるように、世界平和の祈りを私が
大神様から受けたんですね。これでなきゃ
救われないんですよ。皆凡夫なんだから。
 皆神様と同じですといったって、この
できそこないの自分のどこが神様なんだろうかと
思ったら、もう苦しくって辛くってやりきれない。
 つき詰めていくと、一日だって生きちゃ
いられない位になるね。そうじゃないんです。
 そういう弱さとか辛さとかいうものをもってて
構わない。この間も言ったけど、そういうものが
人の話を聞く時の財産になるんですよ。だから、
弱いから駄目なんだではなく、駄目をね
押し出す為に神様がいる訳じゃない。
 そういう弱さをあなた方はもってるけれど、
もっともっと奥には光をもってるんだと。
 光が自分たちの中にある、それをうまく
神様引き出して下さい。守護霊様守護神様
引き出して下さい。五井先生お願いします。皆さん
お願いしますと言って預けることね。想いの
銀行に預けることですよ。私に預けること。
 それをやっていくことですよ。
 そうすると、我々の生命がもういつの間にか
きれいに掃除をされて大生命の中へ完うされて
ゆくんです。私達の天命が完うされますように
という祈りがあるでしょ、あれはこれなんですよ。
 自分では掃除が出来ないけれども、神様
お願いしますといって任せてしまえば、
いつの間にか軽くして下さるんです。

 ただ人間は、毎日毎日二十四時間という時間の
単位で生きていますからね。今祈って、早く
とって欲しい。早く早くと想うとそれがやっぱり
業になるの。その早く早くという気持ちは
分かるけれども、早く早くと想えば想う程、
こっちは掃除しにくいんだな。しにくいから
任せる。そして、任せたんだからあとは
神様の方でよくして下さると思って、こっちへ
呼びかけて下さればね、とに角やりやすいんだ。
 ところが、それを人間というのはなかなか
やりにくいんですよ。だから、こっちから光を
送って色々やるんだけれどもね、とてもじゃ
ないけど、やっぱり呼びかける対象祈りの
対象がなきゃ駄目だ。
 そうして、その祈りの対象が、ただ神様と
いうんじゃなくて、世界人類が平和で
ありますようにと言って、世界の人々の、
全宇宙人類の真心に向かって呼びかける
ことによって、あなた方一人一人もその
真心の中に入っちゃうんです。そういう大きい
深い祈りの中で浄められることによって、神様の
愛念が私達をつき動かしているということをね、
ここで何ていうかなあ、胸が一杯になっちゃう
けれども、きっちりと覚えていただいて
やって行って欲しいなあと思いますねえ。

 壇上からこうやって見てますとねえ、この世の中の
色んな有様が分かる訳ですよ。そして、あなた方の
一人一人の気持ちの動きも分かるわけ。だから、
一人一人の中へ本当は降りていって、そうして、
辛いね苦しいねと言ってあげたいですよね。本当に
そうだよね。そうだけれども、そこにとどまっちゃあ、
肉体人間のこの限界のところだけに
終っちゃうんですね。

 我々の生命というのは、何度も言うけれど、本当は
明るいもんだから、そこを見つめた人間が
言うんだから、これは間違いないですよ。私が全部
引き受けたんだから、私の方へ色んな煩いを
みんな投げてくれればいいんです。
 ただ焦ったら駄目なんだね。私も本当に気短かで、
悟る前も悟った後もあんまりいい人間では
なかったけどさ、やっぱり焦るんですよ。でも、
焦ったら本当に神様が光を出しにくくなるんだよね。
 そのことだけを覚えてね、そうして、すいません
色々な想いが出ますけれども、よろしくお願いします
という気持ちで統一をして下さいな。そうすると、
こっちがあなた方のそういうものは全部分かって
いるから、悪いようにはしませんよ。絶対に
悪いようにはしませんから、そこのところを信じる
ということね、おもいではなくて、信仰というのはね、
神様が絶対に我々を悪いようにはしないんだ。神様は
絶対に私達を愛して下さるんだ。たとえ明日死んでも
私達は神様の器なんだ。その為に私達はここに
いるんだ。そういう自信をもって祈る。祈って、動く。
 それは言葉だけじゃないんです。そういう風に
一旦思っちゃえば、あなた方の体というのは、
あなた方が自覚するしないに関わらず、とに角、
祈りで一杯になるんですよ。世界平和の祈りで
一杯になる。あるいは、神様という想いで一杯に
なってるんですよ。あなた方にはそれは
分からないけれども、こっちから見てると
そうなんですよね。

 だから、神様の想いで一杯になって、神様の
祈りで一杯になって、神様という呼びかける声で
一杯になってるあなた方を、本当にいいように、
その場その場でね、用いて下さる。たとえ、祈りの
場所にいなくてもね、職場であっても、煩わしい
人間関係の中であっても、あなた方がふっと
自分を消して仕事に勤しむ時に、あるいは、人と話を
する時に、その相手だけじゃなくて、まわりにも
神様の光というものは及ぶんですね。そんな
ものなんです。神様というのは何だかんだ言い訳を
しませんよ。予告もしません。私だって預言を
したことはないですよね。預言は嫌いだもの。預言
なんかしたら、それに把われちゃって、五井先生は
ああ言ったのにならないじゃないか、という想いに
把われるでしょ。だから預言しません。預言しない
ということはね、ある意味で辛いことがあるけれども、
でも、本当に神様の生命にあなた方を導いて
いく為には、あなた方が素直で明るい生命である
ということを知らせていく為には、ただただ私は
無心に祈って、あなた方に光を送る。それだけ
なんです。だから、そのことをよく覚えて、祈りに
勤しんで下さい。
            昭和63年8月26日

五井先生と呼んで下さい

2012-02-12 09:39:52 | スピリチュアル
 私は落語家じゃないかなあと言われた時が随分
生きている時にあるんですね。それは、話の中に
冗談とかね軽口とか。やっぱり法話というものはね、
わかりやすくやさしい言葉で言って、5つ6つの
子供にも分かるような話し言葉でないと、本当に
深い言葉というものは入っていかない。深い真理
というものも入っていかない。で、こうしなきゃ
ならん、こうした方がいいということは分かって
いてもね、人間というものはそんなに出来る
もんじゃないんです。簡単に出来るのなら、
五井先生はいらないの。釈迦やキリスト、
その人たちでも救いきれない、今のこの世の中の
複雑な色んな要素があるでしょ。釈迦やキリスト
だけでもとうてい駄目というところにもってきて、
深淵な言葉だけじゃね駄目なんです。

 だから、本質論も必要だけれども、本質論と
同時に、具体的にやっぱり、寂しいですねえ悲しい
ですねえ、大変ですねえ、本当に大変でしょう
という、そういういたわりの気持ちがないと駄目
なんですよね。それがあって初めて、人を導く
ことも可愛がることも愛することも出来る。

 会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。皆
くい入るように話を聞いてくれてね、最初の白光の
人たちは。今の人たちが駄目だというんじゃない
ですよ。本当にくい入るように聞いてくれた
けれども、あんまり深い話をし過ぎるとくたびれ
ちゃってね、みんな。とっても私は出来ないわ
とかね、思っちゃうから。
 だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、
ある時は八百屋になったり、それから、本当に
落語家じゃないかという位軽口とばして、そうして、
ふーっと気がついたら神様のことを考えていた
という風にもっていく。これ方便なんですね。

 で、その時々によって色んな話し方をする。
 さっきの私と今の私と違うのかといったら、
違わないんですよ。全然違わない。だけども、
とに角機をみてね、人をみてね。人をみて法を説け
というでしょ。あれと一緒なんですよ。その時々
その場相手によってさっきのような
しゃっちょこばったああいう講演口調の、ねばならぬ
存じます式が通じる時もあるんです。そう
じゃなくて、こりゃあもうそんなこと言ったら
逃げ出しちゃうなあという場合は、こういう口調も
あるんですよね。どれも五井昌久。どれも神様。
神様といったって、私が神様じゃないですよ。そう
じゃなくって、神様が色んな働きをこうやってなさる
ということの証をここでやっているようなもんだね。
 そうじゃなきゃ、こんな講演会なんか
やりませんよ。そんな無駄なことを神様はやらないと
思いませんか。本当にそうですよ。やっぱり誰かに
聞いて欲しいという気持ちが皆あるでしょ、皆
苦しいから。聞いて欲しいといっても、吸いとり紙の
ようにね、自分というものをさしはさまないで、
深くうなずきながらね、ああそれは大変ですねえって
聞くというのはこれは大変なことよ。実際に。絶対に
自分が出るもの。そんなことはあなた言うけれども、
私の経験によればということになるよね。なる
けれども、そこは本当に難しい。

 人に対する時というのはね、私の経験によればと、
それを出しちゃうと相手が悲しむね。60 70 80
生きて来た人がね、私はこう生きて来たと言いたく
なるのもよく分かるけれども、悩んで苦しんで
切羽詰まって来る人というのは、それどころじゃ
ないんですよ。その人の経験談を聞きに来た訳じゃ
なくって、とに角ただ単純に慰めて欲しい。
 そこから悲しみをとって欲しい。軽くして
欲しいんです、まず。医者のね、頭痛がするから
頓服下さいというのと同じなんです。頓服
あげといてね、熱下げて頭痛とって、頭痛とった
後にね、何で頭痛くなったかというの一緒に
考えましょうよというゆとりを、そこから導き
出すんですよ。頭痛とらないでね、説教したって
しょうがないの。だから、ある人は頭痛で来るかも
わからない、ある人はおなかが痛いといってとんで
来るかもわからない。先生、姑が!という人も沢山
いたしね。嫁さんとうまくいきませんという人も
いたしね。どっちにもいい顔しなさいというの。
 それじゃあどっちもいい加減にしなさいというん
じゃないですよ。そうじゃなくって、どっちもに
対していたわりがないと、人間関係なんて
いうものは本当にうまくやってゆけないということ
ですよね。

 だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、
自己愛というものですね。自分を可愛がりすぎる
あまりに、相手が見えないということになっちゃうと
これはあぶないんです。自分自分自分が辛い辛い辛い
と想うとね、その辛い辛い辛いが相手を変に
傷つけたりね。あるいは、こう気持ちをにぶく
させてることがあるんですよ。自分が一番辛いと
想うからね。だけども、自分も辛いけれども本当は
相手も辛い。

 ところが、人間というのは不便というか何と
いうかね、そんな吸いとり紙みたいな人は、いない
でしょ。とってもじゃないけどありませんよ。
 だから私が出来たという訳じゃなくって、私は
もうずっと十字架にかかったようなもんですからね、
前も言ったように。神様に自分の生命というものを
差し上げちゃって、投げ出しちゃって、それで、
どうなとして下さいといったら、まあやくざみたい
だけれどもねえ、そこで自分の生命の本体という
ものを見たから。もう私安心しちゃいましたからね。
 安心した人間は今度、皆さんの中にその大安心
というものを分けないとね、いけませんでしょ。

 そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、そう
やって皆さんと話をしたり、今こっちから見たり
聞いたり、祈りを届いたりするのを見ていると、
あるいは感じてるとね、本当に何とかして下さい、
どうにかして下さい、本当に辛い祈りが多い。

 だけども、その辛さをね、とかして、そうして
本当は、あなたの中に光があるんですよという
ことを、こっちはね、皆さんの守護霊さん
守護神さんと一緒になって出してゆく訳ですからね、
その流れを。その役目を未来永劫五井先生は
引き受けた訳だから、だから、皆さんは安心してね、
五井先生と呼んで下すっていいんですよ。
 五井先生にこんなつまんないことを聞かせる
なんて、とてもじゃないけど私の気持ちが
ゆるさないとかね。どっかでかっこうつけたりとか、
ありますね。恥ずかしがったりとかね。だけども、
そんなこと言ってる内にストレスが
溜まってくんのね。そういう遠慮はいらないんです。
 どこでもいいんですよ、五井先生と呼べば
行くんですからこっちはね。行ってどういう手当てが
出来るか分からないけれども、しかし、最善の
手当てをするわけよ。どういう手当てが出来るか
分からないというのは、皆さんの心に思ってるような
手当てが果たしてこっちが出来るかどうか、
その時期かどうか、よくは分かんないけれども、
しかし、神様の愛というものを携えてこっちが行く
ということは確かなんです。
 そうして、皆さんの悩みも苦しみも抱きとって
浄めてるということも確かなんです。だから、
いつかその悩みとか苦しみとか辛さというものは
消えてゆくんだ、五井先生に任せてれば消えて
ゆくんだ、五井先生を通して神様の愛というものが
通ってきて、その大愛によって我々の諸々のもの
というのは消えてゆくんだということね。そこさえ
しっかり見ていてもらえば、こっちは本当に
守り易いんですよね。やりやすいんです。

 まあ、バカ話みたいにしゃべってますけど、
やっぱりねえ、生命の流れをね滞らせないように
しておかないとね。これはしんどいですよ。
 辛いんです。本当にね。今しんどいという
大阪弁を使ったけれどね、あれは心労なんですね。
 あれは心疲れるんです。心労ですね。だから、
しんどいという言葉はね、あれは実際、心の憂さ
という言葉があるけれども、本当に心が疲れて
疲れて大変だという言葉ですがね。ですけど、
ずっと申してますように、本心というものは、
心が疲れているように見えても、本当に疲れを
しらない。疲れを知らないどころか、神様の側から
光というものを受けとってね、そして、あなた方の
中のそういう想いとか悩みとかいうものを軽く軽く
して、光の方へ引っ張ろうとしている。そういう
ものが同時にあなた方の奥に深くにあるのです
からね。
 だから、心だけを感情だけを自分だと
思ってしまうと、勘定は払わなければいけない
ですね。勘定払って借金払ってね、そうして、
本心の方へ降りて行ってね、ハシゴを使わないと
降りてゆけないという人もあるかもしれないけれども、
だから祈りのエレベーターの世界人類が平和で
ありますようにというのをつくったんだから。
 せっかくエレベーターがあるんですから、
ハシゴで一段一段降りなくともね、エレベーターを
使って降りてくれればいいわけです。それで、
エレベーターでサーッとね神様のところへ行く。

 さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念が
どんどん出るけど大丈夫だろうかと。大丈夫です。
 自分の中の雑念というものはそんなに気にする
必要はありません。出させとけばいいんです。
 そういうものもこっち側はもうよく知ってますしね。
 前も話したかわからないけれども、法然さんという
偉いお坊さんが、ある信者さんに聞かれたでしょう。
 南無阿弥陀仏と言うんだけれども、南無阿弥陀仏
と言えば言う程雑念が出てきて困ると。法然さんが
偉い人でねえ。あんたもそうか、わしもだという話が
あったよね。あれと一緒なんですよ。統一会に来てね、
眠ってもいいいんです。本心のところで霊体は
聞いていますからね。肉体は疲れるから
眠っちゃってもいいんですよ。そこをねびしっとして、
絶対にお話だからお祈りだから、まっすぐに背筋を
伸ばしてと、そんなもんじゃないんです。
 もっと生命というものはほがらかでね、本当は
障りのないもんでしょ。ひろやかなもんですよ。
 だから、そこを目指して我々は祈っていくん
ですからねえ。窮屈になる為に祈るわけじゃない
でしょ。もっともっと自分のたがをはずす。それを
目指して祈るんです。何々をする為に祈るとかね、
そういう風にしてしまうとね、その為にが主人に
なっちゃってね、目指してるものがねえ、めざしが
嫌いでいわしがいいとかね。生がいいとかいう人も
あるかもしれないけれど、そんなんじゃ
ないんですよ。

 神様の御心というものは深くて暖かくって本当は
やわらかい。北風と太陽の話じゃないけど、北風が
吹いたって旅人の衣はずっと寒いから脱ぎっ放しに
できない、むしろ、どんな風が吹いてもしがみ
ついたでしょう。だけど、太陽の場合はポカポカ
照ったから、サーッと脱いじゃったね。あれと一緒
なんです。どんなものもゆるしてね、どんなものも
溶かす。それが太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
 そういうふるさとをあなた方は
もってるわけ、自分の中にね。それを日常の慌しい
中ではね、ここにふるさとがあると思えたって
なかなか思えないから、だから、祈るわけでしょ。
 で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除をして
もらって、そうして、そのひびきにのって統一して
もらってねえ、もらってというのは、私が
あなた方にしてもらうんですよ。あなた方が
五井先生にしてもらうんじゃないのよ。一緒に
祈って、祈りの階段をのぼってもらって、お互いに
神様の大生命の中に入ってゆくんです。その
お手伝いを私がしているんです。だから、安心して
どうぞ私のところへ色々もってきて下すって結構
ですから。

 やっぱり人間というものは、そんな窮屈なことを
目指すんじゃない。祈りというものは窮屈なことを
目指すんじゃない。こうしなければならぬという
ものじゃないからね。人間の中の想いの枠を
はずしてゆく。世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に朗らかに
ひろやかに深くね、広々とさせることですよ。

 しかし、人間にはそれぞれの立場というものが
あってね、立場によって出てくる言葉って
あるんですよ。私は前に妙好人ということを
言いましたよね。白光に寄ってくる人は特別な人は
来なくていいと言いましたよ。妙好人みたいな人が
集まりゃいいって。それは何も妙好人を理想にした
訳じゃない。けれども、神仏へのあるいは
大生命へのものすごく素直な祈りがあり希求が
ある。そういう人をやはり理想にしたい。他の、
社会的な地位だとか立場だとか、そういうものは
一切いらない。そういうものはむしろ宗教に
とっては本当に雑なものになるんです。やっぱり、
すっきりと生き通しの生命になってゆく為には、
自分の中のそういう雑物をのけてゆく、その為に
祈りがあるわけですから。

 ですけれどもね、さっき言いかけましたように
立場があってねえ。例えば、高橋君なんかは、
この人善人ですかって問いかけてくればねえ、
ああそうだよと答えなきゃしょうがないし。で、
善人だけがいいわけでもないんです。善人という
ことはいいことだけども、ある時にはいいけども、
ある時には大変だろうなあという時があります。
 例えば、バカ正直という言葉がありましょ。正直
ということはいいけれども、何でもかんでも言って
しまうということが、その人の人生にとっても
他の人の人生にとっても良いことか悪いことか
といったら、何でもかんでもつつみ隠さず自分の
気持ちを相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれないけれども、
それによって相手が傷つくということもある。
 だから、その立場立場によってね、ある時ある人が
善人に見えることもある。ある時ある人がずるく
見える時もある。それは、その人がその人の
生きてきた環境とか色んなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあとか
感じる。その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一たん認めてやらないといけない訳ですよ。
 善人なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど
放っとくとね、とてもじゃないけどすっきり
いい生命にはなっていかない。

 我々の目指してゆくところは、そういう色んな
面を持っていても、その生命をさながらに明るく
朗らかにしてゆくということですから、そこへ
向かってゆかなきゃいけないわけですからねえ。
 だから、私達はその立場立場によって、見える
感じる想えるということをまず認めた上でね、
その上でさらにその人の成長に従って、ああ
ここまでならこの人行けるなというところまで、
一段一段いっしょに階段を登ってやるということ。
 降りて行ってやるということね。それが大事
なんです。上からね、あなたこうしなきゃ
いけませんよ、こうすべきですよ、という風に
言ってしまいますとね、それがしたくとも出来ない
という人が沢山いるわけですよ。おもいは一杯ある
けれども弱くって出来ない、ありますよ。だから、
それがいけないと言ってしまうと、もうその人全体を
否定することになる。禁止することになる。おまえが
いけないということになる。

 だけど、神様というものは、おまえはいけないは
ないんです。おまえは可愛いけれど、おまえは
駄目だ、おまえは良い子だけど、おまえは悪い子だ、
それは全くないんですよ、神様の側からすれば。
 だから、それぞれその時々に応じてね、人間の
我々の目から見ますとね、ああしょうがない
人だなあ、やっかいな人だなあ、こんなつまんない
人がいるかしら、もう色々言ったって何にも
わからないような・・・と思いますよ、あせりますよ。
 だけども、やっぱりその人はその人なりに悟る時期、
分かる時期気づく時期、あるいは、傷ついて一歩進む
時期、色々あるわけね。そこで、へたに我々が
裁断をしてねえ、この人は駄目だとか、この人を
標準にして話をしようとかねえ、そういうことは
言っちゃあいけないし想っちゃあいけない。
 何故なら、神様というものはね、そういう標準を
何ももっていない無限定なんですよ。神様という
ものは、無限定な愛なんですよね。その愛という
ものは測り知れない、測るものはないんです。
 そういうものから我々の生命というものは
出てきているんですね。

 その生命というものは、どんなに豊かであることか。
これは分からない程豊かなんですよね。言葉なんか
では言いつくせないでしょう。量とか質の問題
じゃない。存在そのものが愛なんだから、その愛に
抱きとられて、そこから出てきた生命というものが
我々自身だとすれば、我々というのはすごい宝物を
もっていただいてこの世の中に出てきてる訳ですよ。
だから、その宝物をもってながら、もちきれません
すいませんということは、やっぱりこれは傲慢不遜
になる訳です。いただいたものなんだから、それを
どう使うかは神様の方でお決めになるんだから、
そこですっきりと神様にお任せをしてね、そうして、
どう使っていただくかはわかりませんけれども、
日々私共はつとめてまいりますというつもりで、
世界人類が平和でありますようにとやって
いきますとね、いつの間にか我々を使って下さる
わけですね。我々は、我々も気づかない内に
器になってまいります。その器になるということは
自分を磨くということでもあれば、皆さんに喜びを
分けるということでもあれば、自分の深い本心が
そこで満たされて光になってゆくということでも
ございます。そんなに難しいことでもないけれども、
しかし、不断に祈って、そうして、超越者に任せて
愛の源に任せてやっていくということが
大事だろうと。

 その為に、色々申しましたけど、てっとり早いのは、
五井先生と呼ばれれば私はゆく訳ですから。呼んで
下されば、引き出すお手伝いを致しますからね。その
引き出しがいくつあるか、その幅とか量とか
そんなものは神様の方で決めることであって、
皆さんの方で、私量が少ないからなんて、そんな
遠慮することはありません。ただ、そういうものを
引き出すお手伝いを私はしにまいりますので、どんな
時でも構いません。文句たらたら恨みごとたらたら、
色んなものを引き受けます。私はずっと十字架に
かかっておりますから、かかりっ放しですから。
私に全部言って下すって結構です。だけども、
神様の御心というものは、そういう深いところに
あるんだということをねやはり承知なすって、
その上で祈って下すったら、光のエレベーターも
もっと輝いて、皆さん方を光の世界へ引きつれて
ゆくことが出来る。そうして、自己の為にも他己の
為にも、世界人類の為、宇宙人類の為にも
なっていく。そういう世界が、皆さんとともに
築いてまいれることだと思っています。
             昭和63年8月26日

光満ちた世界

2012-02-11 10:13:13 | スピリチュアル
 こうやって壇上から見ていますと、本当に光が満ちて
おりましてね。皆さんの体からも心からも、それから、
気持ちの流れからもね、本心からも、ありとあらゆる
ところから光が出ていて、そうして、お互いの体とか
心だけじゃなくて、光がお互いに呼び合って、大光明に
なって内も外も浄めてゆく。そういう情景が私の方から
見えます。

 本当は、人間のその見える見えないということなどは
些細なことでしてね、ささやかなことで。光という
ものはとに角あるんだということ、光の命によって
我々は生きているんだということ、そのことが一番
大事なことなのであります。

 光の命というのは何かというと、これは神様の命だ。
 神様というのは何かというと、これは愛と平和と
ゆるしの源だ。愛と平和とゆるしというものが我々の
生命の根幹にもなっているし、大宇宙の秩序にもなって
いるし、もう話を大きく深くしていったら、神様という
方は、この三つのものを現わす為のものにすぎないと。
 大愛という大河の流れの中にいらっしゃる、それが
神様だということが言えるんでありますが、しかし、
そこまで話を大きくしなくても、私達の中にこの光が
交通しておりましてね、交流して我々は実は生きてゆく
ことが出来る。

 光というものを見えなくても、例えば、ほほえみ
ですね、笑顔によって心をなごませることができる、
なごむ心があるということを申しましたけれども、
その笑顔の中にやっぱり光が宿るんです。
 ろうそくの光がポーッとともるとそこが明るんで、
そうして、夕暮れ時や夜など、他にあかりが
ありませんと、そこにあかりが集中しますね。そして、
お盆に、宗派によってはね、浄土真宗なんかだと、
お迎えの桃燈があり、そのあかりを頼りにして
帰ってくるという信仰がありますね。
 そういうろうそくの一本のあかりというものが、
その中に何が入っているかというと、皆の愛念ですね。
迎えよう迎えたい、一緒になりたい一体になりたいと。
 私達は、生きている人も死んでいる人もそう
ですけれども、この人と一体になりたい、話がしたい、
仲良くなりたい、喧嘩をしたくない、色々な想い
でもって、相手と関係を結んでゆく。
 相手と仲良くなりたいということで笑顔を送る時に、
その中に光が入るんですね。祈りが入って
ゆくんですね。その時に、別に南無阿弥陀仏と
言わなくとも、祈り言を唱えなくとも。だから、
笑顔というものはすごいものです。笑顔は本当に
光を生み出すものですね。

 本当に信心深いということはどういうことかと
よく聞かれますけれど、本当に信心深いということは、
ただひたすら神様と一体になっていて、そして、
神がかりになるというんじゃなく、ちゃんと自分を
持ち、その上で何かひたすらに打ち込んで、喜んで、
動いている。語っている、働いている。その時に、
信仰というか信心というか、そういうものが動いて
ゆく。と私は思います。そのあたりが、我々の肉体を
本当に動かしてゆくもんである。

 ところが何か信仰といいますとね、遠く離れた
もののような、あるいは、神様や仏様というものも
遠く離れたもののような、光明とか何とかいいます
けれども、それも何か自分からは遠く離れたものの
ような、そういう気持ちに皆なりがちですけれども、
そうではないんですね。あなた方も一人一人が皆光
なんです。

 そうして、その光というのは、目には見えなくても、
例えば、笑顔で人に接する時に、自分の中のもともと
もたされている、いただいている生命というものの中
から光が奥深く出てまいりまして、その光がパーッと
あたりを照らしてゆく。だから、よく歩くだけで
お浄めになるということを申しましたが、実際
そうなんです。自分は何も思っていない、お浄めする
とか何とかいっさい考えないで、動いてゆく、歩いて
ゆく。ただ無心に歩いてる。何にも考えないで
ぼんやり歩いている。歩いているんだけれども、
それだけであたりが浄まってゆく。本当の人間
というものはそういうもんですね。

 神様の愛というのはそういうもんですね。例えば、
太陽というものは、誰を照らして誰を照らさない
ということはありません。又、この人は優しい人だから
ここには雨を降らせて、この人はいじわるだから
ここには日照りでと、そういうこともありません。皆
平等に、神様は雨を降らしたり照らしたり色々します。
あるいは、星の光などというものもずい分人間の心の
慰めになります。星の光や日の光をうたった詩だとか
言葉だとかいうものも沢山ありますね。そういうものを
通して我々の心が慰められるのは、私もうたを
よみますけれども、詩人や歌人という人々が神様の心
というものを感受いたしまして、感じとりましてね、
そうして、その心をいただいてうたや詩にする。
そうすると、それがひびきになって我々の中へ
帰ってきて、そして、我々の中の生命の火をかき立てて、
往相還相じゃありませんけれども、我々の中の光が
まわりまわってですね、あたりを浄めてゆくんですね。

 そういう風に考えますとね、ここだけが光に満ちて
いるとか、あそこは光に満ちているとか、ここは光が
ないとか、というのはこれはやはり人間の想い
なんですね。
 人間の想いというものは、実にさまざまな世界を
つくります。例えば、この人と仲良くなりたい、
この人といつまでもつき合いたいと思うと、やわらぎの
光が出ますね。そして、争いたくないというただ単なる
平和主義者ではなくて、本当に調和をして生きてゆく。
その為の祈りによって、祈りの光が出るから、
やわらぎがまことになっていって、なぐさめになって
いって、本物の光が出る。だけども、別のことも言える
訳です。我をもってる人間の側から言えば、こんな人とは
仲良くなりたくないとかね、ありますよね。あいつの顔
なんか見たくないとかね。ありますでしょ。そういう
ことで分けてしまうと、そこにたちまち闇が出てきますね。
 そして、何かいやな空気になってまいりますね。それは
人間の想いがつくり出す世界。不思議なことに、
やわらぎの世界も、それから、いやな空気の世界も
不安に満ちた世界も、皆これはどこから出てくるか
というと、これは人間の想いから出てくる。

 実に、人間というものはさまざまなものを
つくり出すことが出来る存在。ところがこれは皆
空なんです。本当の真実の姿のものではございません。

 本当の真実の姿というのは、それでは何かといえば、
それはどんな時にも動かされない、どんな時にも迷う
ことがない、疑う余地のない神様の愛の光というもの。
 例えば、どんな業の中にあっても、その業を
ゆるやかに、愛情をもって消してゆきながら、ついに、
その業の闇をも光に変えてゆく、そういう大愛。
それが真実の光の世界であります。で、この真実の
光の世界というものを、実は私達はそれぞれの心の
中にもっておりまして、本当はこれが原動力になって
私達が生きてゆくことが出来るということであります。
 ですから、そこへずっと気持ちを集中し心を集中し、
祈りを集中してゆけばですね、いつも私が
申しましたけど、一分キリスト一分釈迦一分老子に
なることができる。老子が無為と申しましたのは、
何もしないということではありません。あるがままの
自己というものをほがらかに認めて、そうして、
そのほがらかな自己というものをさらにポーンと
投げ出して、笑顔でもってそれを見つめていると、
そこから光というものが見えてくる。光以外に見えて
くるものはない。そういう世界であります。そういう
世界に本当は人間は遊ぶことができる。

 荘子に逍遙遊篇(しょうようゆうへん)というのが
ございます。逍遙遊篇というのは何かというと、
ご存じの方もあるかもわかりませんけれども、つまり、
大鳥鳳凰というのがあって、鳳凰(ほうおう)の
あの大きな鳥が天空をかけ巡ってゆく、その姿の
壮大なこと、それを最初にうたっております。
そうして、鳳凰というのは元を正せば、北の方に
大きな海があって、そこにこんという大きな魚がいて、
その大きなこんという魚が鳳凰になったんだ
という風に、冒頭に書いてあります。で、後の注釈者
などは、これは何を言っているのかよく分からない。
非常に混沌として、大魚が出てきたり、鳳凰が
出てきたり、なんだか気宇壮大ではあるけれども、
それ以上何を言おうとしているのか、非常に空想的な
物語であると、たいがいの人がそういうことを申します。

 けれども、人間の智恵とか知識とかいうものでは
推しはかれない程の、深くて大きい、天空そのもの
さえもおおいつくしてしまうような、そういう
絶対的な愛の存在というものがございまして、そして、
それが、この地上に生きている私達も、あるいは、
地上に這っているけものたちも、すべての草木たちも、
ありとあらゆる生命の中に息づきを与えているのだ
ということ。そのことを覚えていただきたいと
思うのであります。つまり、我々の生命というものは、
我々の想いいかんに関わらず、憂い辛いとか色々な
ことがございますけれども、そういうものに関わらず、
我々の中で光へ光へと導いていく、我々を明るい方へ
明るい方へと導いてゆく。そうしてついに、真実に
何ものにも動かされない、不動の心と私は
申しましたけれども、そういう不動の心に導かれて、
そうして、光そのもの、光一妙の世界へ連れていって
下さる。そういうことなんです。そして、それは
遠くにあるのではない。

 神様というのは、あなた方がお呼びになれば、
あなた方のすぐそばへ来て下さる。守護の神霊たちは、
お呼びになればすぐ来て下さる。そして、寄り添って
下さる。目には見えないかもわからない。けれども、
祈りの中に神様を呼べば、あるいは、五井先生を
呼んでもですね、すぐあなた方のそばに行って
あなた方を守り、あなた方を支えて、そうして、
光へ光へ、明るい方へ明るい方へ導いてゆく。で、
ここを根幹といたしませんことには、闇と見える
ものを闇と見まちがえてしまいます。思いまちがって、
憂い辛い世の中のこの表面の現象面のことだけに
把われてしまって、自分も憂い辛いそのうずに
巻き込まれてしまいます。けれども、本当に強い
やさしい真実の光の世界というものは、そういう
ものにのみ込まれないものであります。そういう
ものに引きずられないものであります。あるいは、
そういうものを労わり溶かし、そうして、人間の
色々な苦というものを包み込みながら、さらに深い
大きな神様の愛へと導いてゆくもんであります。で、
ここをやはり覚えていただきませんことには。

 例えば、色々な問題が・・・。皆様方の集会や支部や、
あるいは、全国を巡講なさる場合に、色々な問題が
皆様方のところへ山積みのようにくると思います。
 その時に、こんな大きな問題は今まで私は経験した
ことがない。そんなことは私の手にあまる。そういう
想いに皆把われると思います。それは把われて当然で
ございます。

 けれども、事の本質は、本当に大事な
つかまなければならないことは、色々な起こって
きている現象というものは二つあって、一つは、今
私が申しました、皆様のそれぞれの想いによって
つくられていく世界が現象になっていく。前にも
申しました様に、天変地異というものは、皆様の
業想念というものが、ある時ある一定の限度を越えて
破れて、そして、又、ある調和を取り戻そうとする時に、
大水になったり、大地震になったり、この世の中には
不幸と見える事柄でもって大調和へ還ろうとする時の
運動であります。その元の元の元を正してゆくと、
我々自身の恐怖であるとか色々な不安であるとか、
明日の生活への恐れであるとか悲しみであるとか、
大丈夫だろうかという心であるとか、そういうものが
一人二人の間は何でもございませんけれども、まだ
小さいものですけれども、何百人何千人何万人何億
という人のその想いが積み重なった時に、うっと
爆発をしまして、それがどっと大洪水になり、
あるいは、地震になり、大火事になり、あるいは、
今、南極の氷が解けているとか、そういう現象に
なっている。あれは決してフロンガスだけの問題
ではありません。あれは業のそういう積み重なりも
ございます。

 そういう想いの世界からつくられている場合と、
それから、守護の神霊がわざと置くつまずきの石、
修行への為の石という場合と両方ございます。これは
非常に難しいものでございまして、これを見分ける
ということは、とても人間わざではなかなか出来ません。

 その時に何が一番大事になってくるか。色々な問題を
皆様がお聞きになる時に、あるいは、どうしても
持ち込まれた時に、判断をあおられた時に、何を基準に
してそれに答えてゆくか、浄めてゆくか祈ってゆくか
というか、これは、神様の御心というものをやはり
大基盤においてしていただかないことには、やはり
道をまちがってしまうことになるのであります。

 例えて申しますと、私の手にあまる位の苦であっても、
神様の側から見れば、この人のこの時点での修行の為に
置かれたつまずきの石、つまずきの石ではあるけれども、
さらにこの人の光が輝いて、そうして、この人の人生が
深くなって、ついに天命に全くとけ入ってしまう。
そういう導きの為のつまずきの石ということが
ございます。

 そこで、ただとに角、それを見分ける。あるいは、
そういう深い智恵の言葉を出させていただく。そこへ
いきます為には、とに角お任せするんだ、私が
その時に判断をしてしまうと非常な苦になります。
 例えば、どちらへ行った方がいいでしょうか。右へ
行った方がいいでしょうか、左へ行った方がいい
でしょうか、というような質問。進学のことにしても
就職のことにしても、あるいは、思うようにならない
人生という風なことにしても、色々なことが
持ち込まれて、そして、自分の一言でその人の人生が
ある程度、方向方針が決まってしまうというような
場合に、自分の言葉でもってという風に思って
しまいますと、責任も重くなりますし、とても
引き受けられるものではございません。

 そうではなくて、そういう色々なことというのは、
現象から来ている場合もあります。つまり、想いの
世界からそれが起こってくる場合も、つまずきの石の
場合も両方ございますけれども、しかし、いずれに
しても、それが神様の御心によって、いただき直しの
生命をさらに深くいただく為のものであるという
信仰の上に立って、そうして任せきってですね、印を
きり、あるいは、祈っていただき統一をしていただき
柏手を打っていただきますと、おのずから深いところ
からの言葉というものが、守護の神霊によって支え
られて、皆様方の唇からその言葉が出てまいります。

 このことは一朝一夕に出来ることでは
ございませんので、大変だと思ってしまうとこれは
えらいことなので、そんなことは思う必要はありません。
 つまり、おろおろする自分も、頼りないと思う自分も、
色々な自分があってよろしい訳です。その一つ一つの
自分というものをしりぞけるのではなく、いとおしんで、
ああこういう自分があるんだなあということを見つめて、
そうしてその上で、あなた方なりにあなた方の立場で、
無理をせずに背伸びをせずに、その信仰を深めていって
いただきたい。

 ただ、物事の本質と申しますか、神様の本心と
いいますか、本体と申しますか、そういう一番はずし
てはならない御心の深いところというのは、先程から
申しておりますようなところにございます。ですから、
ここのところだけは、データーをまちがえて頭のすみに
おいてしまいますと、とんでもない苦になりますので、
そこのところだけをやはり自分の肝に銘じて、そして、
祈って、出来ることはできる、出来ないことはできない、
出来ないところは助けていただこう、つまり、他力と
自力を融合させて、そうして、皆がそういう難しいこと
ばかりではなしに、私も光の国の住人ならばあなたも
光の国の住人なのだというつもりで暮していって
いただいたら、随分とこの世の中は平和になっていく
と思いますし、光明波動というものは益々広がって
まいることであると存じます。
              昭和63年8月26日

柏手と印

2012-02-10 09:35:38 | スピリチュアル
 私は柏手と口笛と印でずっと浄めてきました。
 口笛というものは、これは特殊なんでね。
 なかなか皆にこうなんですって言って
あげられない。ただ、柏手とか印とか
というのは、これは時に応じて必要に応じて、
皆それぞれに出るように、器としては
今なってます。

 せっかくの機会ですから、実習を兼ねて
やろうと思いますが。人によってね、柏手も
印もこれはどういう違いがあるのかという、
まずそういう初歩的な質問があると思うけれども。
 どっちも違いはありません。柏手とか
印とかそういうものを使って大事な
ことは、神界からのね、高いところからの
神様の愛というか祈りというか、非常に
深い流れをあなた方の柏手や印を通して
流す。あるいは私の柏手や印を通して流す。
とそれだけですね。だから、中継地点に
なる訳です。

 皆がこう組む如来印があるでしょ。如来
というのは、要するに、仏様の中に私は
一体になって仏様の慈悲を現わします
という、そういう存在でしょう。その
如来印を組むことによって我々は、神様の
光と一体になってあなたのお役に立ちます
ということですよね。印形を組むという
ことはそういうことです。

 印というのは色んな形がある。皆泊まり
込んで色んなことをやらされたから覚えて
いるでしょうけれども。本当に色んな形が
あって、どれとどれを組み合わせて
どうのこうのと皆やるけれどもね。確かに
それは必要に応じて出てきますけどね。
 本当はそういうものじゃなく、柏手
にしろ印にしろ、そこで無になって打ち、
無になって切ればね、神様という方が
そこで立ち現われて、目には見えなくても、
浄めて下さるわけ。

 その上にね、統一というものがある。
 柏手と印を使って、あるいは口笛を使って、
私が何で統一のテープうんぬんとか、
統一会をやったかというとね、ああいうもの
というのは人間の意識を呼びさまされ
やすいんですよ。

 例えば、ふっと眠くなる。パァーンと
叩く。眠ったままでもいいんです。
 そのままでふっと叩くということはですね、
自分の中の肉体の奥の奥の体が目覚まされて、
つまり、霊性というものが目覚まされて、
そうして、それによって、あなた方の
行くべき世界というか、帰って行くべき
世界というか、そういう世界が色々ある
けれども、その中でも、一段二段三段無に
なってそれをきけばきく程、ずっと高い
ところへふっとつれていって下さる。守護の
神霊が。あなた方が意識するしないに
関わりません。そうして、色んな想いの掃除
をして下さる訳です。で、きれいになって、
地上で又たたかえる様に還ってくる。その時
空になれる訳です。

 空というのもね、これも本当に面倒な
言葉でね。空というのが悟りの最後の境地
とか何とかいうけれども、本当は空にも
把われちゃあいけない。無にも把われちゃあ
いけない。難しいですよね。
 ただそういう風に言葉で言っちゃうと、
もうその言葉に把われてしまうでしょ、
人間というものは。だから、私がいつか
言ったみたいに、テープにいつも吹き込ま
れているけれども、ただふんわりとして、
そのひびきにのって、流れにのってゆけば
いいんだといいますけれどもね。というのは、
皆おもいで世界を作っちゃう、人間は。

 だけども、本当はね、世界というものは
何で造られているかというと、神様の
ひびきで造られているんです。だから、
その霊妙なひびきに統一する時に、その
肉体の波動ではなくて、本来のあなた方の
奥の奥の奥にある霊妙な響きにつながらせて、
連結させて、そうして、私たちがもっと
細かな霊妙な働きが出来るような体に
いつの間にかさせて下さる。それが、柏手
とか印とか口笛とかということです。

 やっぱり、耳で聴いてね、ああ、お浄めを
していただいている、五井先生が今口笛を
吹いて下すってる。あるいは、印をきって
下すってるとか。

 人間というのは、やっぱりしるしを
求めましょ。それは仕方のないことです。
だから、しるしというものを通して、実は、
しるしの奥にある神様の愛というものを
こちらから光で降ろすンです。なげるんですね。
 いつも言いますけど、柏手というのもね
色々あって、長く叩けばいいというものじゃない。
 長く叩けば叩くほど、その人のもっている宿題
とかね、辛いこととか、多いんですよね。だから、
柏手というものはそんなに長く続くと、ああ
大変だなと思ってくれればいいんですけど。
 とに角、柏手というものは叩こうと思って
叩けるもんじゃないんですね。ひびきだから。
 人によって、真っすぐ叩けばいい人と、いい音
というと又そのいい音に把われるかも
しれないけれども、そうじゃなくって、神様の
ひびきというものが出やすい人とね、ななめに
叩けばいい人と色々あるんですよ。

 例えば叩いて見ましょうか。例えばね、
パンパンパン・・・こういう音とね、パンパン
パン・・・こういう音とね、色々あるんです。それは
種類によって色々あるけれども、ただこの人は、
今しゃべってるこの人はね、パンパンパン・・・
こう叩かせた方が高い音が出るし、人によってはね、
こういう叩き方じゃなくって、パンパンパン・・・
この方が高い音が出る人もある。又、こういう風に、
パンパンパン・・・もっと力を入れてパンパンパン・・・
はいよろしいです。これはね、こうやると
だいたい高い。これは何の時のものかというとね、
癒しをする時に、パンパンパン・・・この後の方に
ひびいてくる音ではなく、最初に出てくる音が
ありますね、高ーい、その高いひびきというものが、
この世の中でいえば、薬師如来さんの働きを
する訳です。

 だから、病気を治して下さい、祈って下さい、
お浄めをして下さいとかいう時には、会の方では
色々制約があるでしょうから、その辺うまく
してもらわないと今大変だろうけれども。一人で
ここでやる場合にはね、こういう風にして、
パンパンパン・・・、そうしてパンパンパン・・・
こう叩くパンパンパン・・・こういう風に。要するに
ここにはかからないですね。ここで叩かないと。
 親指はよけといて四本の指で、この人が
やっているように、左手でも右手でもいいけど、
手のひらを叩く。叩ききってゆくとね、
高ーい澄んだ音が出る。そうすると、それは
癒しになっていく。癒しの光になっていく。

 それからね、人の想いとかね、そういうものが
邪魔をしてくっついてきた時にはね、これは
たてにパンパンパン・・・こういう風に。そうすると
想いが散るんですね、光で。又、両方が
ある時には、それはもう向こうに任せてしまって、
パンパンパン・・・、役割分担じゃないけれど、
両方浄まってゆくんですね。

 これは何かというと、キリストの十字架
なんですよ。たてよこ十文字の。キリスト
というのは癒しましたからね。手当をしたのは
彼ですね。手を当てて病人を癒したでしょう。
 だから、これをこうして十文字にやる時に、
世界平和の、平和の光、そういうものがポーンと
ここへくるわけ。こうやって、パンパンパン・・・、
高い音を出した時に、癒しの光がスーッと
いくんです。

 これは一つの方法的なことですけれどね、
そういう形で浄めていったら、いつの間にか、
自分が叩き叩かせてもらってるんだけれども、
そのひびきの中へスーッと入っていく自分
というのがある訳ですね。出てくる。お浄めを
するかされるかどっちでもいいけれども、そこで
自分も浄まっているんです。人を浄めるだけ
じゃない、自分も浄まっているんです。だから、
人も自分もなんです。

 世界平和の祈りの教義の中にありますでしょ、
つまり、個人も人類も救われる祈りだというのは
それなんですよね。仏教的にいえば自分にとっても
おかげの深い祈りである。で、他の人にとっても
そうなんだ。自己の為にもなり他己の為にもなる。
 そういう祈りを基盤にして、我々はお浄めを
しているし、業を光に変えている。そこの祈りに
対しては本当に自信をもっていい。そして、この
キリストのね、まあキリストにこだわることは
ないけれども、そういう十字架に現わされた愛、
たてよこ十文字の世界全体をつなぐような愛と、
その愛に対して合掌するおもいですね、それが
両方交差したこの柏手というもの。そこから
出てくるひびきというものは、これは浄めずには
おかないんです。

 それから、印にしたってね、例えば、この人に
やらせているのは、色んな人が今来て
いますよ、ここへ。それでやらせているのはね、
ずっとくっついている霊体なんかがある、そういう
時には、こうするんですね。(実演)そして、
こっちもこうして。そして、背中というのは皆
くっつく。だから、ちょうどお掃除をするように、
この三本でかき出すんです。おもいをね。自分が
出来ているか出来ていないか別としましてね、
はき出す。そういう時に、こっちは受け皿に
ならなきゃならない。これは、仏教で言えば、
大乗の心ですよね。誰をも救わずにはおかない
という神様の御心ですね。そこへ皆入れるんです。

 お浄めをする時に一番大事なことは、その色々な
現象、とっついてきたもの、それに対して、
向こうへ行けあっちへ行けというんじゃなくてね、
神様というのは、本当はあなた達を愛して
いるんですよ、あなた達を本当に大事に思って
いるんですよ、だから、その大事におもって導いて
下さる世界へ一緒に帰りましょう。五井先生に
連れて帰ってもらいましょう、神様の大愛によって
愛念によって連れて帰ってもらいましょう。
 そうやってね、愛情をもって呼びかけること
なんです。

 困ったことだなあ、私に出来るかなあ、
やらせてもらえるかなあ、と思いながら自信なく
柏手を打ったり、印をきったり。フェロー印でも
何でもそうですよ。私なんかがもったいないとか
思ってやったりしたらね、せっかく上から
こうやろうと思っているのに、光がとどかない。
 そうじゃないんです。そういうものを全部含めてね、
自分も浄まり相手も浄まり、全体の為になる。一つの
修行なんですから。


 印にしろ柏手にしろ、五井先生の柏手にしても
印にしても口笛にしても、統一全体にしろ何にしろ、
皆が朗らかになってゆく、そのことの大本なんですよ。
 そのひびきを伝えるのが、印形であったり柏手で
あったり、色々な形である訳です。だから、そこを
信頼して信仰をしてやっていったらね、自分に対して
真実の信頼が出てくるし、信仰も出てくる。そういう
ことですね。
        昭和63年8月26日(金)