新・ほんとうがいちばんさんの記事です。
http://mizu8882.blog.fc2.com/blog-entry-1772.html
ウィリアム・ブレイクが言ったように、「その人が見るものはその人自身である」ということです。
すべては私たちの自己から始まります。
全ては私たちが自己をどのように見て、どのように体験するかによって決まります。
■ 人間関係は、潜在的な感情を浮き彫りにする
なぜ、「あなたが人と争うか」というと、「あなたが相手を恐怖に思っているから」です。
あなたは「向こうの攻撃から、自分を守らなくては」と感じているのです。
ですから、あなたは誰かに会う以前から、あなたには深い感情があるのです。
あなたの心に恐怖が浮かび上がってくる前から、その感情があるのです。
あなたが関わろうとしているその人は、あなたにとって怖い存在です。
ですからあなたは、「自分を守らなければ」という気持ちを抱きながら、その人と話すことになります。
ですから、その人との会話においてなされることのほとんどは、あなたが持っているその感情を「単に投影するもの」となります。
あなたは、相手の脅威から自分を守らなくてはならない、自己防衛しなくてはならないと思っています。
驚くべきことに、実際、相手があなたを脅しているように感じてきます。
それは、彼らが実際に脅しているからではなく、あなたがその関係性において、「自分を守るという態度を出しているから」です。
相手は、あなたの潜在的な感情を浮上させるために現れているのです。
■自分を萎縮させるか、あるいは誇張させるか
では、なぜ私たちは「人から脅かされている」と感じるような、潜在的な感情を持っているのでしょうか?
なぜなら、私たちにはそのさらに根底に「自分たちは破壊されうる対象であり、脅かされる対象である」という感情があるからです。
関係性において、私たちは「自分を萎縮させるか、あるいは誇張させるか」ということをしているのです。
ですから、私たちが関係性を持つ時は、その関係性の中で、自分を誇張させようとする方向に向かうか
(あなたの場合はこれではありませんね)
あるいは、自分を萎縮させないように、自分を守り抜こうとする方向に向かうかのどちらかなのです。
あなたの場合は、後者になります。
自分を誇張させようとする動きも、自分を萎縮させないように自分を守る動きも、両方共同じ動きです。
つまり、どちらも「分離した自己」が永存していくためのやり方です。
ですから、「好ましくない相手から、自分を守る必要がある」という感情の根本には、
「私という存在は小さくて制限があり、壊れやすいものである」という信念があるのです。
「私というのはいとも簡単に壊れるし、虐待されるし、正当に扱われない存在だ」と信じ込んでいるのです。
(しかし)あなたはそういう存在ではありません。
■すべてはあなたが自分のことをどう感じているかによる
この「何もない空間」を、どうしたら虐待できますか?
どうしたら、この空間を痛めつけることができますか?
映画の中の俳優が「スクリーンの機嫌」を損ねるために、何ができますか?
スクリーンが、カップルが別れることを気にしたりしますか?
スクリーンが、試合でどっちが勝つか気にしたりしますか?
そんなことはありませんね。
どんなことが起こっても、まったく問題はありません。
「攻撃から守る必要」も、何もありません。
「本質は物体ではない」からです。
物体だけが防衛できたり、拡大したりすることができるのです。
あなたが関係性の中で繰り返し体験している争いは、「他者とはまったく関係がない」のです。
「あなたが自分のことをどう感じているか」、それがすべてなのです。
人生のこの状況において注意を向けるべきところは、「他者との関係ではない」のです。
お母さんとの関係でもありません。そこではありません。
注意を向けるべきところは、あなた自身の中にあるのです。
■体験のなかに入り込んで本質を見出す
最も直接的で有効的なのは「本質としてのあなた」に「真っ向から向き合っていくこと」です。
あなたの本質を見出すのです。
「あなたでないもの」を向上させようと、時間を無駄にしないでください。
体や思考を、どうにかしようと頑張らないでください。
それらは後からついてくるものです。
あなたの人間関係は、これを理解していくことで、その副産物として、次第に良くなっていきます。
あなたの本質を見出すのです。
私が「見出す」と言っているのは「考える」とか「そのことを話す」という意味ではありません。
あなたの体験に入り込んでみるということです。
「私」とは、確かに「この広大なる自由な空間そのもの」なのだとわかるまで、自分の体験に入り込んでみるのです。
すべての体験は、この広大なる自由な空間の中で起こっているのです。
これは鈍感な空間なのではなく、すべてを知っている空間なのです。
その空間に「私の思考」「私の母に対するイメージ」「隣の家の人の音」が現れているのです。
これらが現れることを、すべて完璧に可能にしている空間が、私の本質なのです。
そこには、何に対する意見もないし、好き嫌いもないし、好みも課題もないのです。
人間関係から得るものも、失うものも、何もないのです。
「それ」を見出すのです。
質問者: 問題なのは「好き嫌い」があることなのですか?
誰にとっての好きで、誰にとっての嫌いなのですか?「誰」のことを話しているのですか?
質問者: 私です!
■本質であるあなたに意識を向ける
この「自由な空間」である「あなた」に、好き嫌いはありません。
この部屋の空間が、私たちがこの部屋に入ってくるたびに「彼女のイヤリングが好きじゃない」「彼のシャツが気に入らない」なんて
思いますか?
「彼女は素晴らしいわ、入っていいわ」「でも彼は嫌いだからだめ!」空間がそんなことをすると思いますか?しませんよね。
「その空間」が「あなた」なのです。
「なんでも知っている空間」が「あなた」なのです。
そこに、あなたの人生の出来事、好きだとか嫌いだとかが起こっているのです。
好きだとか嫌いとやっているのは、「思考」なのです。
あなたではありません。
思考には構わないでください。思考に意識を向けないでください。
「あなたの本質」に意識を向けてください。
そこに「好きとか嫌い」があるかどうか、よく確かめてください。
あるいは、「あなたの本質」は、体験をあるがままに受け止める、単に広がる無条件の空間なのか、それを確かめるのです。
あなたがあなたの内面に見出さなくてはならないのは「それ」なのです。
「それ」はものではありませんから、あなたの内面に探すのではなく「それ」自体が「あなたであること」を見出すのです。
自分自身とは「それ」なのだと知るのです。
私は見せかけのことを言っているのではありません。
それは、これらの物体があるのと同様に、確かなものなのです。
そのくらいはっきりわかるものなのです。
「私の体験」を知り、「私の思考」を知り「私の感情」を知っている「それ」が私の本質なのです。
でも「それ」自体が感情でも思考でもないのです。
「私の感覚」「私のものの見方」を知っている「それ」。
でも「それ」自体が感覚でも見識でもないのです。
言い換えると、私というのは純粋に「知っているもの」、純粋な感性、純粋な空間なのです。
by ルパート・スパイラ
(転載終了)
http://mizu8882.blog.fc2.com/blog-entry-1772.html
ウィリアム・ブレイクが言ったように、「その人が見るものはその人自身である」ということです。
すべては私たちの自己から始まります。
全ては私たちが自己をどのように見て、どのように体験するかによって決まります。
■ 人間関係は、潜在的な感情を浮き彫りにする
なぜ、「あなたが人と争うか」というと、「あなたが相手を恐怖に思っているから」です。
あなたは「向こうの攻撃から、自分を守らなくては」と感じているのです。
ですから、あなたは誰かに会う以前から、あなたには深い感情があるのです。
あなたの心に恐怖が浮かび上がってくる前から、その感情があるのです。
あなたが関わろうとしているその人は、あなたにとって怖い存在です。
ですからあなたは、「自分を守らなければ」という気持ちを抱きながら、その人と話すことになります。
ですから、その人との会話においてなされることのほとんどは、あなたが持っているその感情を「単に投影するもの」となります。
あなたは、相手の脅威から自分を守らなくてはならない、自己防衛しなくてはならないと思っています。
驚くべきことに、実際、相手があなたを脅しているように感じてきます。
それは、彼らが実際に脅しているからではなく、あなたがその関係性において、「自分を守るという態度を出しているから」です。
相手は、あなたの潜在的な感情を浮上させるために現れているのです。
■自分を萎縮させるか、あるいは誇張させるか
では、なぜ私たちは「人から脅かされている」と感じるような、潜在的な感情を持っているのでしょうか?
なぜなら、私たちにはそのさらに根底に「自分たちは破壊されうる対象であり、脅かされる対象である」という感情があるからです。
関係性において、私たちは「自分を萎縮させるか、あるいは誇張させるか」ということをしているのです。
ですから、私たちが関係性を持つ時は、その関係性の中で、自分を誇張させようとする方向に向かうか
(あなたの場合はこれではありませんね)
あるいは、自分を萎縮させないように、自分を守り抜こうとする方向に向かうかのどちらかなのです。
あなたの場合は、後者になります。
自分を誇張させようとする動きも、自分を萎縮させないように自分を守る動きも、両方共同じ動きです。
つまり、どちらも「分離した自己」が永存していくためのやり方です。
ですから、「好ましくない相手から、自分を守る必要がある」という感情の根本には、
「私という存在は小さくて制限があり、壊れやすいものである」という信念があるのです。
「私というのはいとも簡単に壊れるし、虐待されるし、正当に扱われない存在だ」と信じ込んでいるのです。
(しかし)あなたはそういう存在ではありません。
■すべてはあなたが自分のことをどう感じているかによる
この「何もない空間」を、どうしたら虐待できますか?
どうしたら、この空間を痛めつけることができますか?
映画の中の俳優が「スクリーンの機嫌」を損ねるために、何ができますか?
スクリーンが、カップルが別れることを気にしたりしますか?
スクリーンが、試合でどっちが勝つか気にしたりしますか?
そんなことはありませんね。
どんなことが起こっても、まったく問題はありません。
「攻撃から守る必要」も、何もありません。
「本質は物体ではない」からです。
物体だけが防衛できたり、拡大したりすることができるのです。
あなたが関係性の中で繰り返し体験している争いは、「他者とはまったく関係がない」のです。
「あなたが自分のことをどう感じているか」、それがすべてなのです。
人生のこの状況において注意を向けるべきところは、「他者との関係ではない」のです。
お母さんとの関係でもありません。そこではありません。
注意を向けるべきところは、あなた自身の中にあるのです。
■体験のなかに入り込んで本質を見出す
最も直接的で有効的なのは「本質としてのあなた」に「真っ向から向き合っていくこと」です。
あなたの本質を見出すのです。
「あなたでないもの」を向上させようと、時間を無駄にしないでください。
体や思考を、どうにかしようと頑張らないでください。
それらは後からついてくるものです。
あなたの人間関係は、これを理解していくことで、その副産物として、次第に良くなっていきます。
あなたの本質を見出すのです。
私が「見出す」と言っているのは「考える」とか「そのことを話す」という意味ではありません。
あなたの体験に入り込んでみるということです。
「私」とは、確かに「この広大なる自由な空間そのもの」なのだとわかるまで、自分の体験に入り込んでみるのです。
すべての体験は、この広大なる自由な空間の中で起こっているのです。
これは鈍感な空間なのではなく、すべてを知っている空間なのです。
その空間に「私の思考」「私の母に対するイメージ」「隣の家の人の音」が現れているのです。
これらが現れることを、すべて完璧に可能にしている空間が、私の本質なのです。
そこには、何に対する意見もないし、好き嫌いもないし、好みも課題もないのです。
人間関係から得るものも、失うものも、何もないのです。
「それ」を見出すのです。
質問者: 問題なのは「好き嫌い」があることなのですか?
誰にとっての好きで、誰にとっての嫌いなのですか?「誰」のことを話しているのですか?
質問者: 私です!
■本質であるあなたに意識を向ける
この「自由な空間」である「あなた」に、好き嫌いはありません。
この部屋の空間が、私たちがこの部屋に入ってくるたびに「彼女のイヤリングが好きじゃない」「彼のシャツが気に入らない」なんて
思いますか?
「彼女は素晴らしいわ、入っていいわ」「でも彼は嫌いだからだめ!」空間がそんなことをすると思いますか?しませんよね。
「その空間」が「あなた」なのです。
「なんでも知っている空間」が「あなた」なのです。
そこに、あなたの人生の出来事、好きだとか嫌いだとかが起こっているのです。
好きだとか嫌いとやっているのは、「思考」なのです。
あなたではありません。
思考には構わないでください。思考に意識を向けないでください。
「あなたの本質」に意識を向けてください。
そこに「好きとか嫌い」があるかどうか、よく確かめてください。
あるいは、「あなたの本質」は、体験をあるがままに受け止める、単に広がる無条件の空間なのか、それを確かめるのです。
あなたがあなたの内面に見出さなくてはならないのは「それ」なのです。
「それ」はものではありませんから、あなたの内面に探すのではなく「それ」自体が「あなたであること」を見出すのです。
自分自身とは「それ」なのだと知るのです。
私は見せかけのことを言っているのではありません。
それは、これらの物体があるのと同様に、確かなものなのです。
そのくらいはっきりわかるものなのです。
「私の体験」を知り、「私の思考」を知り「私の感情」を知っている「それ」が私の本質なのです。
でも「それ」自体が感情でも思考でもないのです。
「私の感覚」「私のものの見方」を知っている「それ」。
でも「それ」自体が感覚でも見識でもないのです。
言い換えると、私というのは純粋に「知っているもの」、純粋な感性、純粋な空間なのです。
by ルパート・スパイラ
(転載終了)