小学館の『少年少女世界名作文学全集』。
実は、この度、一連のツレアイの実家の片付けで、古本屋さんに行かなかった本である。
あの頃、私の親の世代は戦時中の物資不足に更に統制された日常と、戦後の混沌とした時代を過ぎて、朝鮮動乱による神武景気から始まる高度経済成長にあって、我が子には物量、質量ともに充分なものを与えたいと思ったようだ。
そして父の実家が禅寺であったこや、母方の祖父は「懐にはいつも書をいれておけ」という人だったのこともあり、私は物心ついたときから、書物がいつも手に取れるところにあった。
それらの本の中に、強烈な印象を残した本は、以前、このブログにupしたシュミットボンの『ななつの山のかなたに』であったし、今日のupするこの『アルネ』も、そうである。
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昭和39年の出版である。
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定価220円というのも、驚きだが、昭和39年、1964年に、児童書として『アルネ』が出版されているのだ。
現在の児童書というカテゴリーを取り囲む、あたかも識者顔の面々たちの、差し詰め、上から目線で「今の子どもたちに、わかるんですかね?」という声が聞こえてきそうだ。あほらしいこと極まりない。
ビョルンソンの『アルネ』は、私の心に深く刻まれ影響を受けた書である。
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翻訳された矢崎源九郎氏の序文である。
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昨年末、ノルウェイを旅し、つくづくとビョルンソンを思い出し『アルネ』を、沸々と思い出していた。
その昔、10歳ごろの、北海道の片隅に生きる女の子が、心に刻んだ風景が、あった。
読書というものが、どれほども、人生に深い意味を与た得るものかと、いうことを、心から感じる。
現在、読書会などで、ともすると「今のこどもに、わかのか?」という言葉を度々、聞かされる。
「今のこども」って、だれを指しているのか、その上から目線には、いつも私は腹が立つ。
「今、おとなのあなた」こそ、わかるのか、と問いたい。
「今のこども」は、いったい、どこにいるんだろう。
こどもは、いつの時代でも、読んだり見たり聴いたりして、自分の心に響くものを、自分の心にしまっておけばいいのだ。
ただ、それだけのことではないか。
それ以外の意味はいらない。
私の心に響いたシュミットボンの『ななつの山のかなたに』や、ビョルンソンの『アルネ』を、60歳も過ぎて、その彼らが執筆に至った思いを知りたくて、その地を訪ねる人間がいるようだ、というそんなことで、いいではないか。
いや、その地を訪ねるなんて、酔狂過ぎるかも知れない。
こどもの時、こんな本を読んだなぁと、思い出すだけでも、いいではないか。
それが、読書というものだ。
と、思う。
それが、私の、心の宝だ。
しかし、ビョルンソンの『アルネ』にしても、シュトルムの詩『さびしい町』にしても、昭和30年代に出版された児童向け世界文学全集の、その内容に驚く。
因みに小学館の『少年少女世界名作文学全集』の編集委員は、亀井勝一郎、川端康成、佐藤春夫、波多野勤子、浜田廣助、宮本三郎、村岡花子である。
編集委員の彼らは、きっと、未来を信じていたのだろう。
「今の、こどもにわかるのか」などという愚問はきっと脳裡をかすめもしなかっただろう。
<追記>
実は、以前に私のブログで、この岩波版の『アルネ』紹介させて頂いた。
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そのブログの文章を読んで下さって、このような地味な本に興味を抱いて検索して下さる方が思いの外、沢山いらっしゃることに、心から感謝している。ありがたいことと思う。