ケセランパサラン読書記 ーそして私の日々ー

◆ 「八月五日という日に」

 息子の誕生日が近づくと、当時小学四年生だった息子の参観日のことを思い出す。
 息子のクラスでは、帰りの会に、日直さんが一分間スピーチをすることになっていた。

 その日も授業参観のあと、帰りの会が始まり、女の子が黒板の前に立ってスピーチを始めた。
 その子のスピーチが始まると、参観日のせいか落ち着かない子ども達が、しーんとなった。
 いや、子どもだけはない。
 参観の親たちも、しーんとなった。

 女の子の語り口は、とてもおだやかだった。

 女の子は八月五日、双子で生まれたのだという。
 
 私と妹は、天使病院という病院で生まれました。
 お母さんは、私たちを生んですぐに死んでしまいました。
 双子の妹も死んでしまいました。

 おばあちゃんは、私をきっと、天使病院のマリア様が助けたんだと言います。
 おばあちゃんが、私を育ててくれました。
 今年の春、お父さんが東京へ転勤になりました。私はお父さんと一緒に東京へ行きました。

 でも、やっぱり札幌でおばあちゃんと暮らしたくて一週間で帰ってきてしまいました。
 また、みんなと同じクラスで、うれしいです。
 お父さんは寂しがっているけれど、私はおばあちゃんと元気で暮らしています。
 

 女の子は「これで一分間スピーチ終わります」と言うと、ぺこんと頭を下げて席に着いた。


 八月五日、その同じ日に、同じ病院で、私は息子を生んだのだった。
 もうじき六日になろうとする深夜に、息子は生まれた。

 臍の緒が、襷掛けにかかっていると、助産婦さんが言った。
 難産だった。
 息子は、生まれて、すぐには、泣かなかった。
 動揺する私に、助産婦さんも、看護婦さんも、「大丈夫、大丈夫、こういうことはよくあるの」と、言いつづけた。
 赤ん坊が、ようやく泣き声をあげたときは、信仰心のない私だが、神に、マリア様に、感謝した。

 今日の最後に生まれた赤ちゃん、元気で生まれてよかったね、と助産婦さんが言った。
 この言葉は、ずっと記憶に残った。
 それは、私が難産だったからだと思っていた。
 

 あの年の、八月五日、晩ごはんのあと片付けが済んで、台所から居間へ行こうとしたとき、私は破水した。
 病院へ向かうタクシーの中で陣痛が始まり、息子は予定より一ヶ月、早く生まれ、小さな赤ちゃんだった。

 男の子か女の子かより、手足があるか、指はそろっているか、分娩台から身を起こして確認しないではいられなかった。

 妊娠初期からトラブル続きで殆どを病院で過ごし、ようやくの思いで出産したのだった。
 私が生んだ赤ん坊が、五体満足でさえあれば良いと思った。
 
 その同じ日の、同じ場所で、きっとほんの数十分前か、わずか数時間前か、あの女の子は生まれ、あの子のお母さんと双子の妹さんが亡くなった。

 息子の教室の出窓には、朝顔の鉢が並んでいた。
 私は泣いた。
 涙が滂沱のごとく目から溢れ出るのだ。
 周囲をはばかりもせず、泣いた。


 今年も、夏になった。
 息子とあの女の子の、31回目の八月五日。

 やっぱり今年も、八月五日になると、私は、鼻水をたらしながら泣いてしまう。


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