昨晩、一気に読んでしまった。
おおぎやなぎさんは、岩手県と秋田県にご縁のある作家だということは知っていたけれど、本作のシチュエーションはその両県ではなくて、青森県。
表紙をめくると、三行のセンテンスがる。
「ここは、北の小さな町。
———まるで降ってくる雪がすべての音を吸い取っているかのように、静かだ。山も町も、
体もも心も、すべてが冷たい雪にうもれてしまいそうだ」
冬が来て、雪が降りしきる日、私は、いつも、思っていた。
全ての音が雪に吸いこまれ、静謐な世界に、全てが埋もれてしまいそうだと。
多分、北国に生まれ育った人に共通する原体験みたいな感覚なのだろうと、思う。
主人公の少年は五年生。
親の離婚で、母の故郷である青森の冬に、引っ越して来た。
雪は、全ての音を吸収し、静謐な世界である。
その静謐な世界は、なにもかもしんしんと、しんしんと、すべてを包み込んでくれると、思う。
猛吹雪は、なにもかもが視界から消え失せる。
横断歩道に立って、信号の色さえ、判らない。
北海道では、毎年、猛吹雪のために死者が出る。
それが北国の冬。
この物語の主人公小5の少年である唯志君は、両親の離婚によって、劇的に変化した環境に在って、淡々と黙々と、問題の本質に対峙している。
変化した状況への理解をするその姿勢、そしてその周囲を思いやる唯志の意志力と判断力が、小5の少年を取り巻くには見方によってはとても危うい出来事の数々を、主人公唯志君の穏やかな眼差しが、読者にさえも静かに見守ろうとする視点を与えているようだ。
多分、唯志という存在の描写表現は、作家自身の、本質的な資質のなせる日々への意識の在り方のように感じられる。
そして、思う。
冬来たりなば、春遠からじと。
積もった雪の地面に接した面から、ちろちろと、水が流れ始める。
春、間近になると、土が雪をとかしてゆく。
必ず、春が来ることを知っている。
ゆっくりと、ゆっくりと、春が、やってくる。
そんなことを思う、おおぎやなぎさんの心根の寧さを、感じる作品。
<追記>
作品中、とても好きなシーンがある。
唯志君が、ゴミ置き場で、ゴミの袋を開いて、その出した人の探索をしている女性に、プライバシーの侵害ではありませんかと、これまた淡々と、(あれ? このおばさんの行動、変だよね)みたいに、ごく自然に生じた気持ちを、逡巡することなく、忖度することなく、素直に言葉にするシーン。
ここ、とっても良い。
変だなと感じたことを、変だねと言えることって、とても大切なことだ。
唯志君って、心、すくすくと育っているんだなぁと思わせる場面。