○ 空良の場合
『セカイの空がみえるまち』は、舞台が新大久保のコリアンタウンであることから、ヘイトスピーチなども描かれており、そのような社会性という視点からも注目された作品である。
勿論、この作品に於いて、その社会性という視点は大きな意味を持つものであるが、また <家族とはなにか> という視点も、極めて重要な要素となっている。
主人公の少女空良の父親は、ある日、突然に失踪する。
思春期あたりの少年なら家出も不思議ではないが、しかし、分別のある大人の行動として、これは突飛すぎると思った人もいるかも知れない。
例えば現実に分別があるとされる大人と言われる世代の、自殺、犯罪、その数は、近年の統計数字でみると、青少年以上なのである。
“キレる大人” 或いは “キレる熟年層”という現実がある。
しっかりと現実社会を見据えた場合、空良の父親の失踪は決して、有り得ないことではないのである。
いわゆる家庭の崩壊である。
しかし、工藤純子の描く主人公、空良は、自分のひと言が父親を追い詰め家を出る=失踪ということになったと思い込み自責の思いにかられて辛い日々であるが、決して、前を見ることをやめない。
空良は、前を見つづける。
同級生に、父親のことで揶揄されるが、毅然とした態度を崩さない。
母親も決して自暴自棄になることはなく、空良との生活を維持しようと努力する。
児童文学ってなんだろう。
絶望のなかに、うちひしがれて、自暴自棄になって、母親は売春をし、子どもはなすすべもなく腹を空かせて夜の巷を徘徊せざるえないのか。
なぜ児童文学を書こうと、書き手が、思ったのか。
それを考える。
後藤竜二は、かつて言っていた。
児童文学は、真っ正面から、正義とか愛と語れるからいいのだ、と。
八束澄子も、後藤さんのいうように、児童文学は、正義とか愛とか、語れるのがいい、のだと。
工藤純子も、同じだろう。
工藤純子も、やっぱり、正義とか、愛とか、それを、おおらかに前をむいて、力強く、語りたかったのだ。
絶望のなかにも希望をみいだしたいと思ったのだ。
それが、児童文学であろうと、私は、思う。
明日は、『セカイの空がみえるまち』のもう一人の主人公、翔について、書こうと思う。
空良は、父に捨てられた <14歳の少女> であったが、翔は、父を捨てることを選択した <14歳の少年> である。
14歳 ファイト! である。
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