daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

娘たち②

2014年10月20日 | 詩人 - 鑑賞
                      

茨木のり子

イヤリングを見るたびに おもいます
縄文時代の女たちとおんなじね

ネックレスをつらねるたびに おもいます
卑弥呼のころと変わりはしない

指輪はおろか腕輪も足輪もありました
今はブレスレット アンクレットなんて気取ってはいるけれど

頬紅を刷(は)くたびに おもいます
埴輪の女も丹(に)を塗りたくったわ

ミニを見るたびに 思います
早乙女のすこやかな野良着スタイル

ロングひるがえるたびに おもいます
青丹(あおに)よし奈良のみやこのファッションを

くりかえしくりかえし よそおい
波のように行ったり 来たりして

波が貝殻を残してゆくように
女たちはかたみを残し 生きたしるしを置いてゆく

勾玉(まがたま)や真珠 櫛やかんざし 半襟や刺子(さしこ)
家々のたんすの奥に 博物館の片隅にひっそり息づいて

そしてまた あらたな旅立ち
遠いいのちをひきついで さらに華やぐ娘たち

母や祖母の名残の品を
身のどこかに ひとつだけ飾ったりして
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


あら! 茨木のり子の世界にお洒落を発見
それで思った‥それで好いって、女の子だって
そして思った‥お洒落は進化する、少しずつね

お洒落の初め‥身だしなみだったんだろうな
清潔にして‥邪悪を寄せつけないためだったのかな
手を洗ったり、顔を洗ったり、髪を束ねたんだね

猫だって顔を洗ったり、頭や体を洗うからね
きれいさっぱり汚れを落として病魔を近寄らせない
お洒落の初めは身ぎれいにすることに意味があった

宝石を身につけ、お香を焚いたり、ネイルも忘れず
お洒落‥この世界を生きるための女性の智恵だよ
茨木のり子はやさしい‥改めてそう想う私だったよ

それ以上は要求すまい‥な想いだったんだろう
誰でもがジャンヌダルクになれるものでなし
苦しい想いは詩人が・自分が引き受ける覚悟なんだ

そんな茨木のり子像が私の脳裏に浮かんだよ

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自分の感受性くらい①

2014年10月20日 | 詩人 - 鑑賞
             

詩人・茨木のり子(1926-2006)を見つけた。
私はこれほど気持ち良い歯切れの詩人を他に知らない。

茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


茨木のり子と私の違い‥その差は僅差だが大きい
彼女は社会的な成功を収める才能に恵まれていた
もっともっともっと世に知られていい存在だった
だが彼女は世間的成功に価値を見なかったようだ
彼女は勇気の人・覚悟の詩人だったと言えそうだ
その茨木のり子に私が惹かれるのは生き方なのだ
百年後に生れたら時代の寵児と持て囃されたかも
しかし現代に生れたから彼女には高い価値がある
ちやほやする空気に呑みこまれることなく生きた
彼女の環境に生れ育ったとしても真似を出来まい
大概の人は欠点が目立つが、彼女は長所が大きい
いやいや、私は足元にも及ばない偉大さを感じる

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憎い奴かたはら痛い笑ひだけ

2014年10月20日 | 気紛れ猫にゃん
             

 堪へるほどかたはら痛い笑ひだけ

お気の毒で、お気の毒で‥いやいや、本当です。
みなさんもどうぞお気をつけくださいね。(-.-)

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懲りん子です

2014年10月20日 | 詩心
             

  人の行く裏に道あり花の山

これ上手に金儲けする呼吸を述べてるそうなです。そうとは知らず良いこと言ってる程に思ってて、いやいや、俳句もそうですからね。裏の意味がある句は脳トレにもなって愉快で役に立つ。ま、それは良いのですが‥

この写真の紅葉は見事で‥漆(うるし)が採れる櫨(はぜ)、皮膚が弱い人はかぶれます。そんなこと知らなくて‥まだ坊ちゃんのころの私のこと‥あまりの綺麗さに真下に寄ってしばらく見惚れてました。こんなに綺麗な葉っぱがあるんや‥感激して帰ってきて体中が痒い痒い、かぶれとも知らずに掻いてて汁が出てきました。

綺麗な薔薇には棘があって、綺麗な櫨には祟られて、なんも悪さしてへんのに‥いやいや、スズメバチの巣に近づいたような、つまり相手にも都合があるってことですなあ。相手構わずに恋したら痛い目に遭うのに似てますな。それにしても櫨は綺麗です‥って、まだ懲りてませんな )^o^(


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座の文芸の壁(5/5)

2014年10月20日 | 詩篇
             

俳句の原点はなんだろうか? 句会の原点はなんだろうか?

気の合うもの同士で集まってお茶呑んで饅頭食べて唄って踊って楽しくやって、そうした面白い雰囲気で五七五して笑い合って、そんな仲間は心許せていい。それこそが原点だと‥そういう人がいても当然いい訳で、だからといってそれを座の文芸の原点とするのは如何なものだろうか。その理屈がとおるならスサノオが肩で風切って歩くじゃないか。

古い伝統があるから良い訳じゃない、目的観を持たない座にどれだけの価値があるか。いや、高い目的をもたない座がどんなに害悪をなすだろうか!社会に害悪を為し、人に害悪を為し、未来に害悪を引きずらせてしまう。面白ければいいとばかりに無責任な運営の座を続けては日を追い年を追うごとに集団も構成員も社会もどんどん荒れていくんだ。

幼稚園は楽しいことばかりだった‥だからって幼稚園が教育の原点という訳にはいかない。幼稚園は教育のワンステップで、毎時毎日毎月毎年がワンステップで、いくら楽しくてもそこは留まる場所でない。やんちゃ坊主のスサノオは許せても齢食って悪さするスサノオが許されないのは当然で、おなじく句座も初歩のままに留められては劣化するのさ。

人は高い目標に向かうときに輝くことができて、目標がないと‥たとえば部屋に大事に仕舞いこまれた日にゃ、誰でも腐ってしまうのは知ってるだろ? しかも低いのは目標の意味がない。寝たままで手が届く饅頭を食べたからって目標にならない。だから一仕事終えて食べる饅頭は仕事終えなきゃ食べられないから目標に出来るってのはもう常識だ。

座の文芸の当面の目標はレベルアップかも知れないが、真の目標は芭蕉を超えた先の先、遥か遠くの先にある。その高い目標を設定できなきゃ浮かれ騒いで飲み痴れる狂態をさらすことになるのは私たちの先達の愚かな振る舞いが証明しているのは誰でも知っているのであり、彼らがいくら勿体ぶっても廃れて荒れて、心まで荒廃することに決っている。

何のための文芸か? これは句座に限らない。生活のあらゆる場面で必要となる心を養うための修練であり修養であり教養であり教育であって、詩心が未熟なままでは訓練を受けていない犬‥むやみに吠えたり噛みついたり暴れる犬は皆に迷惑をかける結果・人に迷惑をかけて疎まれる‥そんな不幸な目に遭わせたくない詩心を皆も具える‥分かるかな。

俳句ごときではあるけれど、されど俳句が人を救い社会を救う原動力ともなる。一瞬で越えられる壁だがあなたに掛った呪いが壁になっていると言えばいいのか‥呪いから覚めなければ業苦の淵に喘ぐしかないのだねえ‥断言するよ。

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座の文芸の壁(4)

2014年10月19日 | 詩篇
             

もうお分かりと思うが和の心は社会を明るくする詩心なんだ
座の文芸の心は、それゆえ詩心でなければならないと分かる
八百万の神が集った天岩戸のようでなければならない座の心

句会を名のっていて宴会が主目的になってはいけないだろう?
栄誉・栄達や営利・事業が主目的になってはいけないだろう?
詰らない退屈な日々をわいわい騒ぎたく思うのは理解したい

参加者の癒し目的や射幸心を煽ろうとする所で詩心は失せる
しかもこの根源の問題から目をそらすから更に詩心は失せる
そうなると営利集団でしかなく、心を食い物にする粗悪集団

句会維持のためのテクニックに意識が向えば‥向上心はない
ヤル気ない幹部社員が集ってする意味のない企画会議みたい
そこは己の座席確保が最優先されるから未来を語る者は去る

そんな場で発展的な意識の育ちようもなく衰退する座の文芸
どうだろう? こんなふうな澱み腐ったドブでなかったのか?
詩の清流がいっこうに流れないドブのままに留まってないか?

これは俳人を責めているのでなく、牽引者の知恵不足だろう
智恵のない者がリード線を引張って、犬は迷って勝手をする
どうように智恵のない者が集団を無理に引張って混乱が起る

責任者のベクトルが悪く下がって、集団を後ろ向きにさせる
詩心のない愚か者が己の栄耀栄華を図って集団を堕落させる
無責任なスサノオの末裔が集団のトップに君臨しているなら?

そこは時間つぶしの言葉遊びの場でしかなくドンチャン騒ぎ
酔い痴れた脳みそで俳句談義で得意がっている白痴の集まり
そんな白痴の一人が酔って草田男を指したのかも知れないな

 真直ぐ往け白痴が指しぬ秋の道

おい、草田男‥とでも指されて気分を悪くした草田男なのか?
酔払い男のグダグダを聞かされたかも知れない草田男なのか?
「こんなことしてて、おれはなにをやっているんだ」なのか?

草田男は覚めた頭で生涯を終えたか‥それとも悔いが残った?
あのワケ分らんちんが腐ってると罵ってたが、どう違うのか?
同じことしてたらオレも同じだ」とでも瞬間思っただけか?

真直ぐ往け‥それを知る文人はゐない、憶病者だけだろ?

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座の文芸の壁(3)

2014年10月19日 | 詩篇
   

和の精神とは何か‥あなたはきっとご存じにちがいない
しかしご存じない方もいらっしゃるから説明しておきたい。

①天岩戸に集った八百万の神々とは全ての神々を意味します
心を痛めて閉じ籠るアマテラスの周りに全ての神が集まった
心を病んだ者は放っておけと誰も言わない和の心が満つ神々
この程度のことは天岩戸の伝説を知ってればお分かりですね?
問題には全ての命が解決に向けて力を合せる和の精神でしょ?

②宴会目的で八百万の神々が集まったのではありませんよ
踊り・騒ぐ目的で八百万の神々が集まったのでもありません
オレが一番と言いたがる愚か者を崇めるためでは勿論ないさ
しかし愚か者スサノオは「オレが一番」と認められたかった
破壊者スサノオが荒狂って世界は闇になったのは知ってるね?

③八百万の神々は愚者・破壊者スサノオを和を以って諌めた
八百万の神が仲良く・食べ・舞い・謳う座に光が差したんだ
あいつは放っておけ・それはオレのだはスサノオの思想だろ?
我がまま勝手な言動は和を乱し・世界は暗くなるに違いない
自分さえ良ければのスサノオは改まらなければならないだろ?
座の心・和の心・八百万の精神が失われたときスサノオだろ?

④座の文芸と名づけるのは勝手だが、座の心は具わってるか?
僻んだり・妬んだり・憎んだり・恨んだりは座の心だろうか?
オレがオレが、あいつは要らん‥そんなあなたはスサノオか?
スサノオの末裔は話し合いが出来ず、疑問を口にしないのだ。
スサノオの末裔はドンチャン騒いで酔い狂ってまくし立てる。
正当な意見を見て見ぬふり‥そんなあなたはスサノオの末裔。

いくら「座の文芸」と名づけても愚か者ではみっともないだろ?

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蚯蚓鳴き小便小僧脹れてくる

2014年10月19日 | 蚯蚓鳴く杜
子供のころ、こんなふうにおどされました、
おや、あなたもでしたか? )^o^(

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不意なれば驚かせたか蚯蚓鳴く

2014年10月18日 | 蚯蚓鳴く杜
             

何すんだよお‥って怒られました。
そりゃ、私でも怒るような状況でしたからね、いやあ、御免ごめん!

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座の文芸の壁(2)

2014年10月18日 | 詩篇
            

「座の文芸」を調べていて次のアドレスを見つけたのでご紹介しておく。
     連歌・連句(れんが・れんく) (和歌・俳諧)

私なりの理解で述べるなら「座の文芸」の源流は既に天岩戸にあった。和を乱したスサノオがいてアマテラスは天岩戸に隠れたが神々は心を一つに和して宴を催し・詠ってアマテラスを呼び出すことに成功した、それで世界は明るさを取戻したという。

上記アドレス『古事記』『日本書紀』記載のイザナギ・イザナミの子がアマテラスやスサノオであってみれば天岩戸の催しはイザナギ・イザナミの伝統を引継いで当然で、座に集い・唱和した記憶は忘れ去られても伝統は「座の文化」として今に引継がれているのでしょう。

神話なんか信じられないとあなたが思うのは構わないが、和の伝統・座の文化を否定する意味はなく、それを「座の文芸」に仕分けすることで文人たちに納得されるのであれば、それに反発する意味もまた無いのではなかろうかと‥これは私の想いです。

ともあれ、和の文化・座の文化の出発点は「心を和して唱和し詠った」ということを確認するとき、座の文芸の意味をあなたも再確認したのではないだろうか。すなわち、座の文芸の目的は私たちが考えているような軽いモノでなくて実に奥が深いことになる。

天岩戸の前に集まった神々は酒を供え・食べ物を供え・唱和した詞を供え・舞いを供え・座に和した悦びの心をイザナギ・イザナミに供えたであろうと私には思われる。その尊い伝統を引き継ぐ座の文芸であれば誰が軽々に批判などをできるだろうか。

座の文芸の伝統として残すべきは残し・新たに興すべきは興し・あるいは復旧・復興を図るべきは当然であれば文芸・文学界は挙って協力を惜しむものでないのはこれまた当然なのです。神々が産み広めた倭の国は文化立国たるべきは当然でないだろうか。

そうすると座の文芸の壁があるなら、それは私たちの意識にあるに違いない。

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座の文芸の壁(1)

2014年10月18日 | 詩篇
               

草田男の件で触れた自句自解‥もう少し考えておきたい。

  真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道  草田男

草田男の自句自解(観)を「黒姫四百号(記念号)に寄せて」に観てみよう。
>この句は師の自句自解によると、「ある日、田舎道を一人で歩いていた。村人に自分の行先を告げ、そこへ行く道順を尋ねた所、たまたま村人の傍に居た一人の白痴(現代の遅進障害児)が、その指で道を真直ぐに指し示した。その瞬間的動作から一種の啓示を得てこの句が生まれた」との事で、

(このように)黒姫の主宰・神田氏は草田男の自句自解を人伝に知った。これは何を意味するかというと草田男の自句自解(観)は育っていない時代であり環境だったと云えそうです。『自句自解』の出生は認められてなくて数多の辞書に現在はまだ載っていない。それで合点がいく。今から31年前に亡くなった草田男に自句自解観が育ってなくても仕方ないと理解してやらねば気の毒だ。俳句を「座の文芸」と観ていたらしい草田男が私と同じ感覚でないのは寧ろ当然でしょう。

解放(5)で触れたが芭蕉の俳諧は川柳~俳句の広きに亘るのであり、下流の川柳は座の文芸に相当し、民衆の意識を俳句に高める入口・導入部に当たると理解すると分かりやすい。そのような場で自句自解論を展開したところで理解されるものでなく、わいわい騒いで遊んでいたユルイ談義の座で発したフレーズを誰かが書き留めたものを草田男の自句自解としたのであれば文書として残っている筈なく、これは草田男がきっちり説明したと考えないほうが辻褄があう。それなら未熟な弟子にヒントを与えたつもりの草田男の気配りに混乱の原因があり、これは草田男の勇み足・蛇足と云われても仕方ない。

これは「座の文芸」が駄目というのでなくて、限界と捉えるべきであり、限界は乗越えることで次のステップへと進むのが正しいが、これにどっぷり浸かってしまうと脱け出すのが困難になる。何ごとも入口で立ちどまっていてはそれ以上の成長は望めず、後続の邪魔になるからこれは教育をほどこす感覚が必要な場面であり、しかし教育観が育ってなければどうして未来を考えることができるだろうか。芭蕉が平均台から下りてきたのは永住するためでなかったのは明らかで弟子は先へ先へと進むべきなのに、これは俳句界全体に言えることだが、彼らが立ちどまって動かない・前向きの意識が働かないのには原因があることになる。


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小林一茶ってさあ

2014年10月17日 | 俳人 - 鑑賞
            

一茶の句は他の人の句とは一風変わってるよね
正岡子規は一茶の句を滑稽・諷刺・慈愛だと特徴づけたんだ
滑稽とか風刺は川柳に突出した特徴だとも言えそうだけどね
それを確かめるため一茶の代表的ともいえる有名な句を観た

①雀の子そこのけそこのけお馬が通る
②我ときて遊べや親のない雀
③やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
④これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺


①~④のどの句にあなたは滑稽とか風刺を感じるだろうか?
慈愛なら私は④以外の①~③に感じる。それで思った
子規は滑稽や風刺だと想ってもそれは普遍的な感覚ではない。

雀の子にお馬が通ってあぶないからよけなさいと教える一茶、
その一茶の姿を滑稽と感じるか優しいって感じるか‥個人差か。
食べる物がなく住まいもなく飢えて凍えてる人を見てどう想う?
可哀相だと想う人がいるし、汚い・どっかへ消えろの人もいる。

風刺についてはどうだ?
④は風刺と捉える人もいるとは想うが、皆が皆そうではない。
風刺と採るばあい、批判されてるのは? 一茶か? 政治か?
批判してる一人は子規だろうけど、それは健康的感覚なのか?
つまり、正岡子規は俳句をつかって何かを批判する感覚なの?
まあ、一茶の俳句四句しか挙げてないから結論は出せないが‥

ともあれ、
一茶の作句姿勢に無理は感じられなく、道理に則った感覚だ。
それゆえ一茶のは俳句以外の何物でもないと結論づけておく。

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無理を通せば?

2014年10月17日 | 詩心
             

金持ちのバカ息子‥高価な玩具で遊んでたら好いのに
このバカ息子は庶民の広場に現れて見せびらかしたがる
バカ息子の親は庶民を馬鹿にしてバカ息子が真似るんだね
この品性下劣にして卑しいバカ親子は庶民にたかるんだね
それでこのバカ親子はなんでバカなんだろうか?
正解は、無理して暮らしているからバカなんだなあ。

役人の子はにぎにぎをよく憶え

これは川柳だが、どうしてこれは川柳になるんだろうか?
無理するところに生れるのが川柳と知っては如何かしら?
道理と道理がよく交流するところ川柳になるでしょうか?
そんなの面白くもなんともない‥せいぜい俳句でしょ?
熱々のお饂飩食べた汗かいた‥日記の俳句として使える。

面白さや感動が伝わったとき‥名句と呼ばれるでしょ?
無理しなくても感動・共感があれば素敵な俳句でしょ?
感動・共感は新発見するたんびに生れるものじゃない?

新発見がなければ駄句と呼ばれたり標語と呼ばれるさ
新発見がある俳句こそは人々の感動を生むに違いない
発見に気づく人・気づかない人‥そういった違いはある

気づきやすい発見は痛い目を見た場合が多いでしょ?
転んで擦りむいて泣いたときは多くを発見しやすい
だったら発見は川柳に多くて俳句は少ない訳でしょ?

なぜって? 無理したときに痛い目に遭うじゃない?
誰かが無理してそれで誰かが痛い目に遭うじゃない?
自業自得とか、誰かが痛い目に遭わされるのでしょ?

笑える程度の痛みなら川柳になっていいのだけどね。
すなわち、許せるていどの無理をとおす所に川柳だ。

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台風の進路無理せず荷片付け

2014年10月16日 | 気紛れ猫にゃん
             

台風の進路無理せず荷片付け‥無理とは何でしょうか?

理屈に合わないことを強行するから無理になる、
台風は無理に進路を変えることはありませんから、
それなら無理するのはイツデモ人間の側なのです、
無理しては川柳ネタを大量提供する破目になる、
そうしたくなければ無理しないことでしょう?
結局、お題は標語の類いになってしまってますね。

台風の進路○○○○荷片付け

即ち、ここは「無理せず」でなく別の言葉が好い。
以上、俳句と川柳の違い‥私なりの仕訳基準でした。笑

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角立てば荒ぶ台風疎ましき

2014年10月16日 | 気紛れ猫にゃん
4) 角立てば荒ぶ台風疎ましき

私的には俳句をこんなふうには作りたくありません。
台風がきたら荒れるのは分ってて角立てるならそれは私が悪い、
こんなふうに作れば俳句でなく、私的には川柳の感覚ですからね、
喧嘩腰は揉めて当然、揉めないように心掛けたいと思います。
だけど私は人間が出来てなくて、なかなかで反省してばかり‥アセ、

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