daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

ヒトラーに抗した女たち

2014年10月03日 | 小さな本箱

【ヒトラーに抗した女たち】
作者:マルタ・シャート 発行所:行路社  訳:田村万理・山本邦子 \2500E.
本代は高く感じるかも知れないけど、女性が社会を住み良く替える原動力ですもの。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★ひとつだけお願いしてよければ、私のことをすべての人に話してね。
  私たちの死は点滅するシグナルでなければならないのだから。
                         (リベルタス・シュルツェ)

1934年から1944年までの間に第三帝国内で11900人が処刑されました。
この中に軍事法廷で死刑判決を受けた人や親衛隊に殺された人、ユダヤ人は含まれない。
1100人の女性が含まれますが、これらの普通の女性たちはナチズムに抵抗したのです。

主義・思想・信条などの一致で抵抗運動に加わる人たちの話題はしばしば取上げられる。
抵抗運動を既知の運動グループに分類してそれから外れる物は対象外とされてきました。
過去には旧西ドイツの1944年7月20日の事件と白バラのメンバーに焦点が当てられ、
旧東ドイツで多数の女性が加わった共産主義者の抵抗運動の研究も関心は集中しました。

それに対して、
本書はドイツ民族の中からナチズムへの抵抗運動を起こした普通の女性たちの記録です。
独裁国家にもそれに抗する内面的・精神的な力をもった人びとがくり返し現れたのです。
ナチズムが席捲する時代にあっても、あらゆる階層から市民感覚をもった女性が現れた。
彼女たちは生活の全領域にまで押し入ってきたヒトラー政権に抵抗して死んだのでした。
彼女たちの政治信条や考え方は異なっても、人道的生き方を通すために抵抗したのです

次第に、
歴史家たちはドイツ民族の中から起きた抵抗運動に目を向ける重要性を感じていきます。
抵抗運動に関わった人たちを厳密なカテゴリーに入れることは不可能であり、抵抗運動
の境界は流動的であることに気づきます。

今、抵抗運動の世界的な定義は、
ヒトラー政権に対する或いは国家社会主義のイデオロギーに対する、全面的または部分
的な拒否を含み、一定の危険と結びついた能動的或いは受動的な行為の全てとされます。

本書は、
同時代人がほとんど理解せず、或いは理解しようとしなかった、抵抗運動を決意するに
至るさまざまな理由と、後世の人びとに常に理解してもらう必要のある抵抗運動の背景
・背後にある状況を「彼女たちの人生を通して」判りやすく明確に示すことを試みます。

★私の同志たちの凄絶で孤独な死に比べたら、私の人生などなんなのでしょう。
                                    (リーナ・ハーク)



◎カテゴリーを考えて、これはやはり、偉大な女性たちの史実ですから「偉人」伝なのでしょう。

「モンテクリスト伯」より(下)

2014年10月03日 | 小さな本箱
騎士の心


「かつての婚約者メルセデスと息子アルバート子爵」の事

ダンテスは監獄に幽閉され、婚約者メルセデスをフェルナンに奪われました。
そしてメルセデスはパリ社交界にデビューする息子・アルバートを生みます。
フェルナンは卑劣な手段で財産を築いて、今はモルセール伯爵を名乗ります。
脱獄して帰ってきたダンテスはそんなメルセデスの立場を理解して許します。
欧米人の「個人主義」の考え方は、私たち日本人の意識と異なっているかも。

フェルナンの罪はフェルナン一人に帰すべきモノであって、家族に罪はない。
家族だから、妻だから、息子だからという事では、責任を問われないのです。
即ち、アルバートはフェルナンの息子ですけど、ダンテスが憎むことはない。
ヴィルフィール検事総長の罪も本人限りの物であり、娘には関係ありません。
ダンテスが憎むべきは罪びとが犯した「罪」であって、人間ではありません。

誇り高きモンテクリスト伯爵(ダンテス)はフェルナンの罪を暴いていった。
ただし、罪を暴くのを目的にしたのでは無く、改心を願っていたと思われる。
その根拠は、横領して逃亡したダングラールに最後は生活資金を呉れている。
さて、フェルナンの罪を暴くに際し、アルバートに真実をそれとなく教える。
フェルナンが奴隷に売り飛ばした娘の口からフェルナンの卑劣さを語らせる。

父を殺され、母娘で奴隷に売られ、生き残った娘の悲しさ・悔しさ・恨み…。
汚れなき心のアルバートは、その卑劣な男を非難しつつ、奴隷女に同情する。
卑劣な男が実は自分の父親であったと知ったなら、生きていられただろうか。
それ故か、ダンテスは卑劣な男の名を伏せて、アルバートに知らせなかった。
いずれ、真実を知るにしても、今は心に留めるだけにして置きたかったろう。

だが、ダンテスの気遣いも若いアルバートにたやすく通じないのが現実です。
いや、信じたい父親の隠された闇を知ることなどは、息子としては耐え難い。
否定しようにも否定出来ない証拠が顕れた時、奴隷女の話が甦るアルバート。
誰かを悪者にすることで救われたい思いになるのも人間の悲しい性でしょう。
そんな卑屈な思いに囚われる惨めさに、死んでしまいたいのも人間でしょう。

卑劣な父親を護ることは考えないけれど、名誉を守るにはどうしたら良いか?
自殺を禁じられているキリスト教徒のアルバートはどうしたら良いでしょう?
アルバートは名誉ある死を得るためにモンテクリスト伯に決闘を申し入れる。
決闘は、己が汚した他者の名誉を回復してあげる崇高なる儀式でしょうから、
アルバートの名誉を守るためにモンテクリスト伯は決闘を受ける義務がある。

きっときっときっと、
相手を殺す事を目的とする、即ち己が生き残る事を目的とする決闘と異なり、
騎士道精神に則る決闘は、汚した相手の名誉を回復してあげる儀式なのです。
法廷で雪げる恥であれば、法廷で身の潔白を証明して恥を雪ぐだろうけれど、
法廷で晴らせない恥を受けた者に残された方途は、死ぬ名誉しかありません。
恥を知るアルバートは父親の冤罪を証明しようとして、父親の秘密を知った。

結局、侮辱を受けた者は死んで汚名を晴らそうと、手袋を相手に投げつける。
アルバートも作法に倣ってモンテクリスト伯に手袋を投げつけようとするが、
大好きなモンテクリスト伯であり、母の親友のモンテクリスト伯であります。
悲しみと苦しみの葛藤に躊躇しているアルバートの手から手袋を取り上げて、
名誉の死を与える約束の決闘を承知したことを伝えるモンテクリスト伯です。

この決闘は早撃ち競争でなく、受け手が先に撃つルールだったと創造します。
法廷が存在しない社会の決闘は、早撃ちで勝った無法者が正義だったのです。
剣を使用しての決闘では、剣の手だれが弱い者を殺す正義が通ったでしょう。
法廷が存在したパリ社会での正義は法廷闘争によって判断されたと考えたい。
ナポレオン在世当時のパリの決闘にデュマが見たモノは名誉の死と思いたい。

翌朝の決闘の約束がなされるけれど、メルセデスがダンテスを訪ねてきます。
ダンテスのかつての婚約者メルセデスは息子アルバートの命乞いに懸命です。
ダンテスは射撃を外し、己の死と引きかえにアルバートを助ける事にします。

「モンテクリスト伯」より (中)

2014年10月03日 | 小さな本箱
騎士道精神を支える心


さて、デュマは卑劣な奴らをどのような手段で叩きのめしたのでしょうか。
もちろん、デュマはモンテクリスト伯の意思と手に正義を行わせています。

ヴィルフィール検事総長・ダングラール男爵・モルセール伯爵の卑劣な心。
モンテクリスト伯(ダンテス)は卑劣な三人の罪を次々に暴いていきます。
金欲まみれ・権力欲まみれ・名誉欲まみれの卑劣な三人は自ら災いを招く。

ヴィルフィール検事総長の不倫した夫人との間に産れた子は殺人犯になる。
その殺人犯の公判中にヴィルフィールは被告が己の息子だと気づくのです。
しかもヴィルフィールの妻は殺人を重ねた末に追い詰められて自殺します。
罪が露見したヴィルフィールは全ての栄誉を失った末に、自滅するのです。

ダングラール男爵の妻は不倫した末に、極悪非道な殺人に奔る息子を産む。
成長した極悪の息子と娘を金目当で結婚させようとするダングラール男爵。
崩壊した家族を作ってきたダングラールは破滅して家族はバラバラになる。
ダングラールは預かった金を横領してイタリアに逃げ、盗賊に襲われます。
ダングラールは若き日のモルセールに卑劣な手口を教えた男でもあります。

モルセール伯爵はダンテスの恋人メルセデスに横恋慕して、奪った男です。
卑劣な手段をつかって無実のダンテスを密告して・監獄に送らせたのです。
仕えていた主人を敵に売り、その妻子を奴隷に売り飛ばして資産を築いた。
モルセールは息子を資産家ダングラールの娘と結婚させようと考えている。
妻メルセデスには愛想尽かしされ、息子にも去られるモルセール伯爵です。
結局、卑劣な行いは社交界の知るところとなり、モルセールは自殺します。

この物語が爆発的な人気を博したのは、フランスの老若男女の支持による。
正義が邪悪を倒すストーリーにフランスの子供は実に痛快に感じた訳です。
しかし今日の日本人の感覚を云えば『面白い物語だが…』と述べるけれど、
その後に『現実の世の中は正義だけでは生きていけない』と続けるのです。
己の国の正義を否定する…それが日本人なら、どのような国民でしょうか

「モンテクリスト伯」より (上)

2014年10月03日 | 小さな本箱
騎士道の根底に流れる心


1844年にフランスの新聞「デバ」に載った「モンテクリスト伯」でしたが、
若者だけでなく多くの層に爆発的な人気を得た訳は何だったのでしょうか。

日本ではしばしば・ダンテスが脱獄して復讐する物語として紹介されます。
しかし、私の理解では暴力や復讐を賞賛する筋書きではありませんでした。

船主の信頼厚く・前途有望な青年ダンテスは正義感に満ちた航海士でした。
その幸せなダンテスは三人の男の卑劣な手段によって監獄に幽閉されます。
物語は最初から、正義漢ダンテスと卑劣な三人との対立構図になっている。
つまり、フランスの人たちは正義の勝利を期待する心を備えていたのです。
邪悪が滅ぶことを望むフランスの読者は固唾を呑んで見守ったに違いない。
正義はどう闘うのか…青少年は清らかな胸を不安に曇らせつつ見守ります。
正義が邪悪を滅ぼさずして一体、その国の青少年の心を健全に導けようか。
読者は、国法が正義を為さなければ民が正義を実行して当然と考えたがる。
監獄での十四年の歳月が流れて、ダンテスに脱獄のチャンスが廻ってきた。
フランス全土の読者たちはダンテスの脱獄に喝采を送って歓びを表明した。

ここまでの流れだけで、フランスの民の正義感が充分に伺える仕掛けです。
さて、脱獄したダンテスは約束どおりに莫大な財宝を手に入れるのである。
そして、正義を実行するために「モンテクリスト伯」の称号を手に入れる。
モンテクリスト伯を名乗ろうとも、ダンテスのやさしい心は昔と変らない。
正義を生命に染めながら育った若者は、呼吸する度に正義を為すのである。
一方、卑劣な手段で欲望を叶えた者は、どこまでも卑劣な手段を画策する。
卑劣な奴、ヴィルフィール検事総長、モルセール伯爵、ダングラール男爵。
卑劣な手段で出世した三人とも、パリ社交界の重鎮と目されて権力を握る。
卑劣な奴らは危機的状況に陥る時は、たちまち卑劣な手段に走りたくなる。
デュマは、不正を暴くだけでも正義が容易に為されることを示したのです。
即ち「モンテクリスト伯」の主人公ダンテスは暴力を封印して・使わない。

今も昔も、いずこの若者も憎しみを晴らすのに力を以って為そうとします。
大人の知恵は力に依らずに正義を為すことを若者たちに示さねばならない。
それがデュマの描いた「モンテクリスト伯」の底流にある太い調べでしょう。

(追記)
私が読んだのは竹村猛編訳(岩波書店版)の「モンテクリスト伯」ですが、
竹村猛氏は原作の内容を変えないように忠実に和訳したと記しています。

蜘蛛の糸(欲)

2011年06月12日 | 小さな本箱
◇この記事は「芥川龍之介」からの続きです


 ― これは私のお友だちへのメッセージのつもり ―


犍陀多一人を救うことは多くのあなたを救うことに通じます。

即ち、私が幸せであるためにはあなたの幸せが必要なのです。

ペットや奴隷はいっときの慰めになっても真の仲間ではない。

それでわたしの真の仲間はどこにいるのでしょうか?



あなた…ある時は私の母親、ある時は父親、ある時は友だち。

私の恋人…あなたが不幸だなんて、決してあってはならない。

私の伴侶…あなたがツマラナイ様子で暮していたら堪らない。

私の大切な人…あなたは決してペットや奴隷なんかじゃない。



私の大好きな『かぐや姫』の物語りをネットで見つけました。

ていねいに書かれてますから、よろしければどうぞ読んでね。

現代語訳も載っていますから、読みやすいと思います。

 プッシュ ⇒  竹取物語



竹取物語をお読みいただきまして、ありがとうございます。

日本人がたいせつに培ってきた心情あふれるお話しですよね。

人はなんのために働くのか、なんのために生きるのかが大事。

せっかくの人生なのに、欲を掻いて失敗してはツマラナイよ



日本の昔話の筋書きは正直者を愛して敬う設定になってます。

意地悪してツヅラ一杯の毛虫や蛇をもらった舌切雀があって、

桃太郎を育てたお爺さんとお婆さんは正直でやさしい夫婦で、

ココ掘れワンワンの花咲爺さんも正直者でやさしかったよね。



竹取の翁と媼、つまりお爺さんとお婆さんは正直者でした。

そのご褒美にかぐや姫との楽しい暮しを味わえたのですけど、

お金持ちになって生活も楽になり、経済も豊かになりました、

偉い人たちとの交流も盛んになり夢のような日々を送ります。



欲張りというのではなかったけど、幸せを願う欲は持ってて、

かぐや姫が月に帰らなければならないと知って嘆き苦しんだ。

かぐや姫を好きになった世の男性も帝もそれは同じでしたし、

かぐや姫は財産や地位・名誉なんかに換えられない存在です。



欲深くなくても愛する人を失いたくないのは人の常であって、

かぐや姫を奪われまいと天帝に弓引く行為も辞さない帝なら、

かぐや姫のいない世に永遠の命を得る意味はないとも考える、

それほど生きてる人が煩悩を離れることは至難の業なのです。



竹取物語が愛されてきた訳はその美しい人間愛ゆえでしょう、

己の欲を満たすために人を踏みつけにする生き方は醜いけど、

人を幸せにしてあげたいと願う人の欲はなんと麗しく温かい。

自己愛に始まった欲が他人への愛に成長して皆を幸せにする。



お解りでしょうか…犍陀多の欲は誰かの幸せを願っていない。

あなたには蜘蛛の糸を登って辿りつく場所が問題でしょうか?

犍陀多は辿りついた場所で自己愛のために何をするだろうか?

不幸な人を生み広げる者はそこが自宅でも社会でも関係ない。



犍陀多がいる場所はいつでもどこでも地獄に変るに違いない。

幸せな人がいない…人が人を呪い憎み苦しめる無間地獄です。

ところであなたは、人を呪ったり・憎んだりしていませんか?

犍陀多は人が不幸になる働きをする地獄の生みの親なのです。



地獄の生みの親でいるかぎり、地獄を離れることは出来ない。

つまり、地獄を抜けられないのは誰が悪いのでもありません。

犍陀多が自分を地獄に送りこんでいる犯人に違いありません。

その犍陀多が誰かを呪っても、身から出た錆と言うしかない。



欲に取り付かれてしまうと頭が悪くなって判断力がなくなる。

欲に取り付かれる生き方、欲を昇華して極楽に替える生き方、

理屈で分かった顔をする知識人はなんと多いと思いませんか?

知識で地獄を抜け出せないという現実を私たちは知っている。



即ち私たちは知識だけでなく知恵を磨かなければなりません。

知識は盗み見できるし、盗んだ知識を我がもの顔でも使える。

それにしても盗んだ知識で得したとでも思っているのかしら。

盗みあう集団・社会・国家は必然的に乱れて不幸になります。



よろしければ気分転換に、童謡をプレゼントいたします。

 プッシュ ⇒ 歌を忘れたカナリヤ


歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てましょか

 いえいえ それはなりませぬ

歌を忘れたカナリヤは背戸の小薮に埋めましょか

 いえいえ それもなりませぬ

歌を忘れたカナリヤは柳の鞭でぶちましょか

 いえいえ それはかわいそう

歌を忘れたカナリヤは象牙の舟に銀のかい

月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す

童謡「カナリヤ」(詩・西条八十)



さて、

家庭は崩壊して、子どもは非行に奔り、夫婦仲は険悪になる。

それは身から出た錆ですから仕方ないと言ってしまえるけど、

その不幸になった頭は悪くなっていて結局原因もつかめない。

原因が判らないから、また被害者に当たり散らすのでしょう。



いじめっ子は旨くいかない腹いせに苛められっ子をいたぶる、

いじめがエスカレートする原因はいじめにあると言えるのに、

いじめに無関心な大人が日本には余りにも大勢いるようです。

結局、物事を論理的に考えられなくなっている日本なのです。



竹取物語に限らず、日本の昔話の多くは論理的に作られてて、

それはお伽噺にしても論理を踏まえて物語りは展開していく。

面白ければ好いじゃないか的なナンセンスな展開の詰らなさ、

お金のために幸せを捨てるのは狂った感覚なのに気づけない、



しかも「君はオカシイ、変だよ」と誰も教え合おうとしない、

ヒステリーで総うつ病化現象を起している今の日本なのです、

現代若者事情が瀕している危機的状況…想像するも恐ろしい、

そんな大人には犍陀多が蜘蛛の糸をよじ登る意味も分らない。



私は欲がいけないと思わないし、欲は不幸の原因と限らない、

只、欲に取り付かれ、欲に狂い、人を不幸にしてはいけない、

竹取の翁もかぐや姫を欲しがる帝の権威に従いそうになって、

しかしかぐや姫に換わる宝はこの世にないと気付いたのです。



どんな高い地位にもお金にも換えられないかぐや姫の命です。

それは帝の想いも翁とまったく同じ…かぐや姫を愛していて、

翁も帝も、籠の鳥ではない健やかで自由なかぐや姫を愛した。

人を愛するとはどのように愛するべきなのか…考えてほしい。


誰もが幸せになりたい欲を持って生きている。


それは人間に限らず、あらゆる生物に共通して備わる欲です。

気づくか気づかないかの違いだけで生物は欲を持って生きる。

だから寝てる人の鼻を摘まむと呼吸しようと盛んに動きます。

その点は地獄の犍陀多も極楽の住人も違いは少しもなかった。



幸せになりたくて好き放題して犍陀多は地獄の住人になった。

幸せになりたかった釈迦…こちらは極楽の住人になっている。

両者の違いは人を踏みつけた犍陀多と人を支えた釈迦の違い。

たったそれだけの違いが居場所を極楽と地獄の明暗に分けた。



わたしたちの立ち位置はどちら側に位置しているでしょうか。

人を踏みつけにする側でしょうか、嫌い・憎む側でしょうか。

人を思いやり・意地悪せず、自分の仲間とする側でしょうか。

どちら側に立つか、それはあなたに委ねられた専権事項です。



美味い物は俺たちで食おう、アイツには黴餅を喰わせろなら?

こっちは大事な病人さん、苦しんでるアイツは追い払えなら?

これらの人たちはどうやら犍陀多に似ていると思いませんか?

犍陀多の末裔かも知れないこの者共は地獄の闇へ真っ逆さま。



これらの者も、これらの者の家族・子供もまた可哀そうです。

地獄の縁で人を苛めて面白がっているのは実に危険なのです。

踏み外したり、落としっ子したり、地獄の淵が口を開けてる。

自分は解ってて落ちない…ぐらいに思っていても、危険です。



人に意地悪して悪い遊びを面白がっている犍陀多の末裔たち、

悪行…中毒症状に似て、麻痺して危険を感じなくなりやすい、

少しずつ毒性に慣れたつもりで、地獄の深みに嵌まっていく、

なによりも習慣化することで「癖」になり悪癖に身は染まる、



当人が地獄に嵌まるのは身から出た錆だけど…家族も染まる。

シンナー吸ってる横に居るだけでシンナーを吸わされますし、

寝タバコしてる人と同居してる家族は危険にさらされてるし、

人は環境に染まりますし、子どもは両親・家族に染まります。



そのように身も心も自分勝手な生き方に染まった犍陀多です。

その犍陀多が蜘蛛の糸に取り付いて極楽に入ろうとしている。

蜘蛛の糸の意味、蜘蛛の糸をのぼる意味…考えて見ましたか?

アル中患者がアルコールのない旅をする姿をお考えください。



そりゃ、あなた、地獄で美味いアルコールに有りつけません。

強い毒性に変じたアルコールが体を蝕み、のた打ち回ってる。

その毒性を抜いて楽になりたいが、抜けば苦しみに苛まれる。

毒を抜いてる最中に…その余りの苦しさに息絶える者もいる。



俺なら耐えられるなんて強がってみても、そんなの駄目です。

暴れて怪我してはいけないと、数人がかりで押さえつけても、

最後の最後までみんなで協力して手伝ってあげて、それでも、

毒が抜け切るまで「手を放せ、どけーッ、下りろー」と叫ぶ。



「俺のことは放っといてくれーッ」と犍陀多は叫んだのです。

「蜘蛛の糸」…この場合、犍陀多の色と考えて良いでしょう。

悪業に染まった犍陀多の色を抜いてあげたいと思っていても、

だけど心身を染めた犍陀多の罪は重く、治療するのさえ苦痛。



みんなが手を引いた時、犍陀多は元の地獄の淵に沈むのです。

「蜘蛛の糸」は地獄界から極楽まで通じている生命でもある。

極楽までもう一歩のところまで近づいても、一瞬にして地獄。

地獄に嵌まって抜け出すことの困難・苦しさは半端ではない。



だからどうしたら楽に抜け出せるかを考えたのは釈尊でした。

結局、どうしたら地獄に嵌まらないかに努めるほうが楽です。

だが現実は嵌まらないのと抜けるのは同時進行と思って良い。

なにせ善人である自信をあなたはお持ちでないでしょうし…。



善人でなければ既に片足は突っ込んでしまっている筈だから、

これから嵌まらない策を講じてどうすんだよと思われるかも、

だから両足とも、嵌まらない前に手を打たなければならない、

両足とも嵌まった人なら一気に抜け出さなければなりません。



勘違いしてならないのは「抜け出す」ことが最重要なのです。

犍陀多は慰めてほしかったし、抜け出したくなかったのです。

どっぷり嵌まった人は最早抜け出すのも苦痛で辛い状態です。

だから慰めを求めて『助けて~、苦しい、助けて~』と呻く。



身体に少し手が触れても痛みが走る痛風の比ではありません。

声を掛けられただけで苦しみが増す病人を想像してください。

周りは病人の癒やしに追い立てられて共倒れ状態になります。

介護する人が病人より先にダウンする厳しい介護現場に似る。



介護する周囲の状況が地獄の相を呈してきたらもう最悪です。

近寄って声を掛けたら病人は元より周囲まで罵り騒ぐような、

自分は悪役になりたくなくて、他人を貶したり罵ってさわぐ、

終には近づけば損だといって見て見ぬふりで遠目に観ている。



今のインターネットの環境をみれば、その通りになっていて、

腫れ物に触れないよう、だけど褒められるポジションに居る。

憎まれないことが「善」であるとばかりのポジションを探す。

憎まれないことは善でないが「生きる術」として理解できる。



この「生きる術」は「善」に劣ると気付かなければならない。

現実は「生きる術」を以て「善」を貶す誤りが横行している。

その根底に「善」を知るための知恵が欠けていると判ります。

それで「善」を口にするのも憚れる歪んだ環境になっている。



具体例をあげると、先生が生徒を叱れない状況に陥っている。

隣りの家の子を叱れない大人の感覚が正しいと思われている。

強者の過ちを指摘できない、強者が正義であるとされている。

多数決は弱肉強食の法則なのに、多数決を正義と思っている。



こうした状況を見れば、脳みそが危険に点滅しているのです。

その脳みそを手懐けようとしてか甘い言葉で囁く知識人たち。

救おうとせず、手懐けようとするイカレ脳みその知識人たち。

このようにして上から下までイカレ脳みそがウヨウヨしてる。



いったい知識人たちは何のために「蜘蛛の糸」を読むのか、

…と、口火を切って「芥川龍之介」を書き始めたのでした。

そっちに話題を振っては堂々巡りの無駄話に終ってしまう。



ともあれ、野次馬になって騒ぐしか出来ないイカレポンチ。

「生きる術」で善を貶す所にロジックは無く、だから狂う。

生きることは正義であり、生きる術は必要であり許される、

しかし「善く生きる」ことを目指さなければ犍陀多になる。

我ままに生きて人を切り捨てた犍陀多は自ら地獄に堕ちた。



日本を悪くリードしてる世の学者たちの現状をみるがいい。

犍陀多になって、頭は悪くなり、心は狂い、不正義を喜ぶ。

みんなで渡れば恐くないみたいな狂った集団になっている。

だが何をしても旨く行かなくなり、裏腹な結果を嘆くのだ。



『原発は安全ですが、その訳は庶民には理解できません』

…と、これが日本の学者の物言い・常套手段・詭弁でした。

詭弁でゴマカスことで庶民に対して偉ぶってきたのでした。

最早、詭弁が通ってはならない、詭弁を許してはならない。



能力があれば、本当に賢ければ、解りやすく説明できます。

庶民に理解できるように語る政治家や学者が正しいのです。

能力があるなら「善」が必要であると理解できるでしょう。

能力があるなら政治家は良い結果を出して示せるでしょう。


過去の実績から、どの政治家が良い仕事をしたかは分かる。


「善」の仕事は私たちの暮しを良くし、明るい社会を作る。

一部の人間だけ、一部の集団だけが儲かる話は詐欺と同じ。

あなただけに儲かる話を教えます…こんな政治はおかしい。

労働者だけが儲かる政治、企業だけが儲かる政治は変です。



詐欺師は「あなただけ」の儲け話をして欲ボケの頭を騙す。

詐欺師政治家も詐欺師学者も国や国民の幸せに関心はなく、

かならず欲ボケの人を騙して、富を一人占めしようとする。

そんなこと現在の社会の姿をみれば歴然ではありませんか。



善に関心を持たず、善に対して仇をなす結果は地獄に堕す。

善を嫉み、善を憎み、善を嫌い、善に害悪をなして堕地獄。

それはそうですよ…持ってくれる手を振り解けば落ちます。

支えになってる人の足をはらえば、自分もこけるしかない。



犍陀多も脳みそがダメになって、救いの手をはらい除けた。

自分を支えている善の手を嫌ってはとても救いようがない。

即ち、犍陀多の後に続いた人たちは犍陀多の支え手だった。

頭が狂ってしまうと助けてくれる人が憎く恨めしく思える。



ところで私は今、

昔話や小乗教の説教話、教養講座を開設しているのでなく、

知識とか教養として覚えても地獄を回避する役に立たない。

知識で幸せになれるなら、今、あなたは幸せなハズでした。

必要なことは、知恵として生命にしっかり染めることです。



それがあなたが地獄から回避していける唯一の道なのです。




 次の【普通って?】に続きます。





芥川龍之介

2011年06月09日 | 小さな本箱

カテゴリー『蜘蛛の糸』の縁続きで此処に書いておきます。


短編「蜘蛛の糸」は犍陀多を地獄から救おうとする話です。

犍陀多は凶悪で、生前多くの人を虫けらのように殺します。

只、犍陀多は一匹の蜘蛛を見逃してあげたことがあります。


寿命が尽きた後、犍陀多は地獄に堕ちて苛まれ苦しみます

御釈迦様は地獄にいる犍陀多の前に蜘蛛の糸を垂らします。

これは犍陀多に蜘蛛の糸を登ってらっしゃいという訳です。


犍陀多ほか・亡者たちが蜘蛛の糸に取り付いて這い上がる。

クライマックスで蜘蛛の糸は切れ、犍陀多たちは落下する。

切れる直前、犍陀多は後からくる亡者たちに下りろと喚く。



★犍陀多について芥川龍之介の重要証言は次のとおりです。

「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」



★犍陀多が喚いたフレーズ部分も次下に引用しておきます。

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。

 お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下り

 ろ。下りろ。」と喚きました。



★重要な証拠物件 : 犍陀多に見逃してもらった蜘蛛の存在

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

過去、

蜘蛛の糸が切れた真の原因を述べた人はいないようです。

それどころか、作者・芥川龍之介も答えは判らなかった。


それで

蜘蛛の糸が切れた訳、具体的に述べておきたいと思います。



三途の川を境にして、あちらは彼岸、こちらを此岸に譬えます。

此岸だの彼岸だのと、この物語は小乗教から借文して展開します。

此岸から彼岸へわたる…すなわち生き物はかならず往生します。


三途の川を亡者たちはどのようにして渡れば良いのでしょうか?

ともかく三途の川を無事に渡ったらもう「シメタモノ」でしょう。

すなわち、地獄へ堕ちるほどの者たちは三途の川を渡れる訳がない。


三途の川に嵌まってブクブク沈んで苦しみうめいて地獄へ直行する。

なぜかというと、なにしろ三途の川の渡し舟には船底がありません。

船底が無ければ…知識をお持ちのあなたの身体は落下するしかない。


三途の川の渡し舟…蜘蛛の糸バージョンを摸作したと考えてもいい。

芥川龍之介は蜘蛛の糸を辿って極楽へと誘導する救済策を考案した。

この小乗教的ないじましい発想はあまりに哀れに思われて憎めない。


地獄に堕ちた母を杜子春を借りて救いだそうと試みたような、

龍之介は恋慕する母を心の底において暮らしていたのかも知れない。

それにしても蜘蛛の糸は誰か一人でも救うことが出来たのだろうか。


過去『蜘蛛の糸』を読んで批判した知識人はあったかも知れないが、

『蜘蛛の糸』を論じる人群の「無駄むだ」と叫ぶ様こそは屋上屋か、

しかもそこに知恵を得て慈悲に至った知識人の存在を私は知らない。


三途の川の底なし舟を受入れるゆえに、蜘蛛の糸の発想も受入れる、

着目すべきは極楽に蜘蛛の存在を受入れるか否かなのですが、

知識人のあなたの能力で蜘蛛を極楽に受入れられるだろうか。


あるいは極楽に蜘蛛がいる不思議にさえ気付けなかったのか、

私は極楽に蜘蛛がいても一向に構わないとする立場なのです、

これは譬え話ゆえに蜘蛛が極楽に存在しない展開も可能です。


龍之介は迂闊にして蜘蛛の存在を計算しきれなかったと思う、

蜘蛛の存在を計算できる人の悩みは殆んど解消される筈です、

蜘蛛がなぜ極楽に存在するか…不思議でもなんでもないこと。


あなたの重大な問題は、あなたはなぜ極楽に行けないかです、

極楽に辿りつける途を見つけたら、龍之介の自殺はなかった、

法華経を口にしながら、法華経を知らぬ人はあまりにも多い。


芥川龍之介の蜘蛛は現に物語のなかで極楽にいる。

蜘蛛は過去に獲物を殺し続けて数え切れない命を奪っている。

すなわち他者の命を奪っても極楽に行けるということになる。


龍之介は犍陀多の罪について次のように述べている。

「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」

龍之介はこれ等の行為を堕地獄の因となる悪事として挙げた。


こういった物語の展開は小乗教に特徴的ですけど、それなら、

あなたにお尋ねしましよう。あなたはこの話を受入れますか?

「蜘蛛の糸」でGoogle検索すると16万件以上も引っ掛かる。


人々の関心の高さはこのように具体的な数字になって表れる。

但し、関心の高さはそのまま小乗教を受入れる数字ではない。

あなたもきっと「蜘蛛の糸」を譬え話にしても教義にしない。


それで「蜘蛛の糸」を受入れられるレベルはどの程度だろう。

小乗教を善く理解し受入れるのはどの程度のレベルだろうか。

あなたのレベルは恐らく『蜘蛛の糸』を知って批判的である。


結局、レベルが『蜘蛛の糸』を受入れる際のネックになる。


レベルを別の言葉に置換えるとしたら、どうなるでしょうか。

レベルは『蜘蛛の糸』からみたアナタの位置づけとなります。

たとえば『蜘蛛の糸』の読者層みたいな位置づけでしょうか。


いろんな読者…座右の銘にする人、教養にする人などがいて、

自分の生き方の基本にする人がいれば、それが信仰でしょう。

それに従ってたら安心し、どんな結果でも納得して受入れる。


「お父ちゃん信仰」の人はお父ちゃんに従ってたら安心する。

「共産党信仰」の人は共産党の言いつけに従ったら安心です。

「親分信仰」は親分の命令に従って悔いなく死ねるでしょう。


すなわち『蜘蛛の糸』側の都合で読者層を仕訳するみたいな、

この人はお金を落してくれる人、この人は宣伝してくれる人、

この人は株主、この人は熱心な信者…という感じでしょうか。


あなたから『蜘蛛の糸』をみた場合の仕分け法は述べました、

座右の書、教養、知識の一環、仕事に役立てる、信仰の対象、

そしてこれ等の他に別の視点に立たなければならないと思う。


それでは何故『別の視点の必要性』を言えるのでしょうか?

別の視点が見つからなければ、あなたは極楽に行けません。

別の視点が見つからなければ『蜘蛛の糸』は駄作でしかない。


即ち、別の視点、別の切り口によって、

あなたに極楽への途が開けて助けられることになるし、

また『蜘蛛の糸』は極楽への案内書の一端を果たせます。


もっとも、

あなたが『蜘蛛の糸』で極楽への途を既に見つけたのなら、

こんなとこをウロツクことはありません。時間の無駄です。

はい、さようなら (^o^)丿


前振りはここまでで終りです。

つぎは改めて本論に入ります。


 (続きます)

     プッシュ ⇒ 蜘蛛の糸(欲)


蜘蛛の糸

2011年06月06日 | 小さな本箱

ツイッターに茂木健一郎氏のツイートを見つけました。

そのツイートに引出されて現れた記憶が蜘蛛の糸でした。

内側に秘められている記憶は縁に触れて出てくるようです。

善縁に触れて善い記憶、悪縁に触れて悪い記憶が顕れるのか、


それで折角ですから、ブログに残しておきたいと思います。

カテゴリーは新たに『蜘蛛の糸』を作ることにしました。

芥川龍之介の短編小説で『蜘蛛の糸』は御存じですね。

蜘蛛の糸が切れた訳、あなたにはお判りでしょうか。


原因は犍陀多が悔い改めなかったからでしょうか。

あまりにも大勢がぶら下がったからでしょうか。

騒ぎ暴れたために、糸は切れたのでしょうか。

そんな所から「蜘蛛の糸」と名付けました。


切れた原因を御存じの方がいらっしゃったら教えてください。


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【素材の採取地】


茂木健一郎氏



女の一生

2007年11月26日 | 小さな本箱

題 名:女の一生
作家名:モーパッサン (斜陽貴族の息子。結婚生活に破れている。)
記入日:2007/11/26
評価度:④(当時のフランスの時代背景を見ながら読むと判りやすいだろう。)

(粗筋)
貴族の娘ジャンヌは幼い時から修道院で寄宿生活をしていた。
卒業したら修道女にと望まれるが、結婚に憬れていたジャンヌは実家に帰る。
ハンサムな若者と結ばれるが結婚生活のバラ色の夢は無残に砕け散る。
夫の不倫を知ってからジャンヌは夢を子供に託そうと思って妊娠する。
だが、期待していた子供は女タラシになってしまう。

(感想)
女性の権利が認められていなかった時代背景が色濃く反映している物語。
裕福な家庭の既婚女性の関心はパーティや恋愛遊戯であったようだ。
モーパッサンは貧乏貴族であり、女性に幻滅して「女の一生」を書いたの
だろうか。だが。モーパッサン本人も気ままな一生を送ったようではある。

徒然に“太宰治”する

2007年11月02日 | 小さな本箱

太宰治は人並み外れた感受性に恵まれた。
どちらかと云うと、太宰の作風は玄人好みだった。

何もない所に波風を立てる人間がいるが、
太宰はと言えば女性の生活を狂わせた生涯だった。

天に逆らい社会に背くことで、自他の命を
けずりながら著作に取り組み・生涯を閉じたのだろう。

不良と云うべきか・我がままな太宰治だが、
被害に遭った女性たちに慕われたのは間違いない。