daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

♬.恵まれている

2014年11月02日 | 詩心



信じられる羽があり

信じられる今があり

信じられる枝もあり

お陰で羽は休まれて

羽を繕う気にもなり

やがて小鳥は舞上る


微風と戯れたい小枝

陽射しが恋しい小枝

小枝に留りたい小鳥

休んで歌いたい小鳥

疲れ微睡む小鳥まで

今日は小枝に戯れる


ゴールは旅の宿ゆえ

今日の旅に今日の宿

今生の旅に今生の宿

小鳥の旅の小枝かな

遠慮しなくていいよ

世界は小鳥の所有さ

*・゜゜・*:.。..。.:*・゜

空を舞う小鳥が真空スポットに嵌ったら、息も出来ず、真っ逆さま~★
それで信じられなくなって飛立たなければ、そこには闇。

日差しに恵まれている幸せを信じられる能力・・・自信。かな~☆

気もそぞろ

2014年11月02日 | 詩心



おっちょこちょいだと笑い
変だぞと言いつつ大笑い
笑う仕様の仕上りだねえ

どこが好いってワケでなく
どこが好きってふうでなく
デキはむら気の好い加減

せかせか歩いて空まわり
そぞろ歩いてみる上の空
そんな風に流れる空の雲

気紛れに見える女の人も
身勝手気ままな男の人も
似た者同士も 秋の高空

有季俳句/表の面

2014年10月27日 | 詩心
    

俳句は詩か、詩でないか?
これの格好の素材が次のフレーズ・五七五
 味噌汁におとすいやしさ寒卵  草間時彦
       
(ある程度は述べたので、それについてはクリックして戴きたい)

この五七五を詩と見なすなら、ヘイトスピーチはどうなんだ?
ヘイトスピーチは詩でないし、その伝で言えばこれは詩でない。

ヘイトスピーチは詩でないと何故言えるのか?
お考えになったことはあなたはお有りだろうか?
いやしくも詩人を名のるほどなら考えた人だし、
考えたことがなければあなたは五七五の制作者。
それを俳句と呼んでも実質は宣伝コピーの類いだろ?
そして清水哲男氏がヘイトスピーチをも俳句と見做すのは勝手?
‥そうかも知れないが、それは勿体ないこと。

そしてそれならこそ私の俳句は違うと書いておくことになる。
それにしても出発点の五七五のままで停まっていて好いのか?
ま、これは私の考えであり、私の俳句は詩の空に高めたい。

味噌汁におとすいやしさ寒卵

このフレーズのどこにも悦びや希望は観られない
自嘲のフレーズ五七五は詩でないのは否定できまい。


(さて本題はここから)
無季や自由律は詩と云えないから私は俳句と見做さない
詩の条件は悦びを詠い、未来を視野に入れた希望溢れるもの
その意味では有季でも無季でも自由律でも詩と限らないが‥


まっすぐな道でさみしい  山頭火

このフレーズは真理の一部を述べている、
だからと云って詩だろうか、否否、詩ではない。
これが詩なら呪い文句も詩と云わねばならぬよ。

ついてくる犬よおまへも宿なしか  山頭火

これもヘイトスピーチの類いです。例えば次、

日本人、お前は宿なし、地獄往き

これを俳句とあなたは言うか?
こんなフレーズ、あなたはちっとも嬉しくないだろ?
犬なら好いか?他者なら遠まわしなら言っても好いか?
己が言われて好い気がしなければ他者に言ってはいけないよ。

有季俳句には表の面があり、表の面はヨソ様を向く面、
ヨソ様に向ける面は苦虫を噛んでいてはいけない、
もちろん嘘っぱちで騙す心は駄目に決まっている、
人様には自分の佳い面をみせて差上げるのが礼儀、
ゆえに私は私の真心を以ってこうして書くことが最善の礼儀。

所得てたちかへりくるあきつかな  括絲子

拙句を例に言うと、
表の面は季語に則るのは当たり前だろうな。
季語は「あきつ」、季語「蜻蛉」として読むのは常識だろう。
蜻蛉と読んで「詩」になっているだろうか‥だろうな。

季語に則らない解釈する人もいる‥いわゆる「裏読み」だ。
裏読みでは「あきつ」を自由に解釈することになる。
蜻蛉・秋津・安芸津・秋津島・蜻蛉島‥
裏読みするとき五七五に別の意味が表われる。
裏読みするとき、人は己の境涯で理解するだろう、
だから「ありがとう」に反発する人だっている‥いやはや
「いやいや、オレは嘆き節でいくんだ」はあなたの勝手。

ともあれ、表の面は礼儀正しくがいちばん良いに違いない
ひと様に失礼のない心遣いで悦びをもたらす詩が最善だろ?

懲りん子です

2014年10月20日 | 詩心
             

  人の行く裏に道あり花の山

これ上手に金儲けする呼吸を述べてるそうなです。そうとは知らず良いこと言ってる程に思ってて、いやいや、俳句もそうですからね。裏の意味がある句は脳トレにもなって愉快で役に立つ。ま、それは良いのですが‥

この写真の紅葉は見事で‥漆(うるし)が採れる櫨(はぜ)、皮膚が弱い人はかぶれます。そんなこと知らなくて‥まだ坊ちゃんのころの私のこと‥あまりの綺麗さに真下に寄ってしばらく見惚れてました。こんなに綺麗な葉っぱがあるんや‥感激して帰ってきて体中が痒い痒い、かぶれとも知らずに掻いてて汁が出てきました。

綺麗な薔薇には棘があって、綺麗な櫨には祟られて、なんも悪さしてへんのに‥いやいや、スズメバチの巣に近づいたような、つまり相手にも都合があるってことですなあ。相手構わずに恋したら痛い目に遭うのに似てますな。それにしても櫨は綺麗です‥って、まだ懲りてませんな )^o^(


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無理を通せば?

2014年10月17日 | 詩心
             

金持ちのバカ息子‥高価な玩具で遊んでたら好いのに
このバカ息子は庶民の広場に現れて見せびらかしたがる
バカ息子の親は庶民を馬鹿にしてバカ息子が真似るんだね
この品性下劣にして卑しいバカ親子は庶民にたかるんだね
それでこのバカ親子はなんでバカなんだろうか?
正解は、無理して暮らしているからバカなんだなあ。

役人の子はにぎにぎをよく憶え

これは川柳だが、どうしてこれは川柳になるんだろうか?
無理するところに生れるのが川柳と知っては如何かしら?
道理と道理がよく交流するところ川柳になるでしょうか?
そんなの面白くもなんともない‥せいぜい俳句でしょ?
熱々のお饂飩食べた汗かいた‥日記の俳句として使える。

面白さや感動が伝わったとき‥名句と呼ばれるでしょ?
無理しなくても感動・共感があれば素敵な俳句でしょ?
感動・共感は新発見するたんびに生れるものじゃない?

新発見がなければ駄句と呼ばれたり標語と呼ばれるさ
新発見がある俳句こそは人々の感動を生むに違いない
発見に気づく人・気づかない人‥そういった違いはある

気づきやすい発見は痛い目を見た場合が多いでしょ?
転んで擦りむいて泣いたときは多くを発見しやすい
だったら発見は川柳に多くて俳句は少ない訳でしょ?

なぜって? 無理したときに痛い目に遭うじゃない?
誰かが無理してそれで誰かが痛い目に遭うじゃない?
自業自得とか、誰かが痛い目に遭わされるのでしょ?

笑える程度の痛みなら川柳になっていいのだけどね。
すなわち、許せるていどの無理をとおす所に川柳だ。

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コメント有難うございます

2014年10月15日 | 詩心

私のコメント欄‥いつも閉じっぱなしでゴメンなさい。
いただいたコメントはいつも嬉しく読ませていただいてます。

私のブログに遊びにいらしてて変質者に絡まれた方が以前いらっしゃって、
それで今は閉じっぱなしなんです。コメントを別ハンか名前なしで書込め
たら好いのですが、なにか好い方法はないものでしょうか‥。
ともあれ、コメントいただいた方のクリック(ポチッ)ボタンは訪問の度に押さ
せていただいてます。これ、セメテものささやかな気持ち‥。

これからもヨロシクお願いいたしますね。<(_ _)>


天の恵みに感謝して

2014年10月12日 | 詩心
             

今年、水撒きに悩まされなかったのは雨が多かったからだろう。集中して降られると大きな被害がでるが定期的に降るのは畑にやさしい雨だと、こんなふうを考えられるのは家庭菜園に目覚めたお陰で、雨水は生物にいちばん好いということも体で感じる今日このごろ。それで今、雨が少ない冬に備えて・そして来年以降の日照りにも備えて風呂の残り湯を栽培用にまわす準備中なのです‥といっても大したことする訳じゃない。長めのホース等‥雨水用のタンクに導く材料費4千円くらいかな。

天の雨も恵みに変わらなければ単なる水か風水害の仲間でしかなく、残り湯も有効に生かして使われてこそ天の恵みに少しでもお返しできるってものですからね、トイレの落し水も残り湯を使いたいがこれは当面辛抱することにして、もっともっと色んなことに工夫を重ねたら出来ることは沢山あるけど、あれもこれもと焦っても仕方ないことだからね。家庭園芸は趣味の範囲でしかないという見解を夕べのテレビで政府が言ってたのかな。今ごろに政府が言わんとする狙いは分かるけどそれは後出しジャンケンみたいでいやだな。

ともあれ、趣味の範囲でも意識の高まりの効果はあったと言いたいのだろうけど私はそうじゃない、NHKの家庭園芸は政府の方針に沿って趣味で構わないけど、私は実用を狙っている。雨水利用も残り湯の活用も実用の家庭園芸にするのが目的であって費用を抑えるのは当然のことではないですか。確かに狭い敷地にプランター置いて野菜栽培して幾らも収穫はないだろうし、というか最近になって欲を張るのは止めようと思えるようになったのは少し賢くなったのか。あれもこれも育ててみたいのは初心であれば当然で、しかし最近では家庭菜園の限界を感じる。まあ、目いっぱい植える気は失くしてない訳です。

ところでこれは余談だが、
雨水は飲料水にしたいと想ってもいて、雨樋(あまどい)ですでに下までは引いてるわけでこれを浄化する・それをホースで室内へ導く‥だが素人にはこれが難しいからなあ。天の真水のせっかくの配給だから活かさなければ勿体ないが、一万円程度の浄化装置をホームセンターで販売したら売れるのじゃないかな。もしかして既に売ってるかな。


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うれしい気持ちなんだ

2014年10月11日 | 詩心
          

命‥それは様々に変化する能力を具える
それゆえ幾つもの異なった容貌で現れる
見えないほど小さな微生物は命だろうか
視界に入らない大きな宇宙は命だろうか
私たちから懸け離れた存在は命だろうか
なぜ懸け離れた存在で現れるのだろうか
すべては必要があってそうした姿をとる
誰のため何のため‥私はあるのだろうか
誰のため何のため‥存在するのだろうか
余りに多くが見えて分らなくなったのか
蚯蚓のように多くを見なければ好いのか
奴隷のように考えず従ってれば好いのか
ともあれこうして考える癖を身につけた
そうなんだ‥命には様々な癖もつくんだ
無識の癖‥食べた物は無意識に消化する
有識の癖‥懲りた物は意識的に用心する
必要に応じて千変万化する神経・無神経
必要があれば皮膚を鱗に変化させもする
必要があれば六感はそれ以上に進化する
あるときは敵味方のように振舞う命たち
あるときは身を以って何かを護る命たち
そうした命たちに護られてもいる私たち
そして今‥護られて当然のごとくある命
それは人間の本質だというなら浅ましい
幸いにもそう思わない意識に辿りついて
幸いにも無限の能力をもつと私は知って
無限に広がる世界に遍く生きて満ちる命
いかなる何のご褒美かは知らないけれど
確かにそう‥ご褒美は始まりでしかない
本当のご褒美はこんなものじゃないワケ
永遠にご褒美は私に集ってくるってワケ
その様々を天体望遠鏡で覗き見るような
わくわくした嬉しい気分が続くだなんて
想いもしなかった欲しがりもしなかった
なんでかな‥ともかくご褒美なんだよね

(以前の文を改めててこうなっちゃった)


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クサンティッペを支持しませんか?

2014年10月11日 | 詩心
                   

トライ(7)」でも触れたが、あなたはソクラテスの妻の悪妻説にこれまでどう対応してきただろうか?悪妻説を検証しようとせず支持してきたのならそれは検証するまでもなく当然のこととして、あなたは悪妻説を勇気づけてきたのです。つまりソクラテスを否定し、妻クサンティッペを否定する言動です。

あなたの言動が善ならあなたは善の結果を得るが、あなたの言動が悪ならあなたは悪の結果を必然的に得る、結果の責任は善悪に係わらず当人が負う、その意味において誰かに結果を恩に感じるのは当らず、誰かを恨むこともまた当らない。善悪の結果は当人の善悪の言動から生れるだけのことですからね。

ソクラテスはソクラテス自身の言動に対応した賞罰を得る、クサンティッペはクサンティッペの言動に対応した賞罰をえる。それは山を登れば疲れて頂上に至れば癒されるように誰のものでもない疲れであり癒しな訳で、それを誰かに肩代わりさせられるだろうか!?無理に肩代わりさせようとして論理破綻する。

論理破綻して心が狂えば「身から出た錆び」「因果応報」ということを分ろうとしない。ソクラテスを否定する言動を当然のことのように済ますとき、あなたはソクラテスを否定する夫を持つだろうし、クサンティッペを否定する思想に抗うことができるだろうか?クサンティッペの自由を捨てさったあなた。

想えば日本の現代女性がDVを受け容れてきた根底には女性の権利や自由を認めなかった思想‥それはソクラテスを否定し・クサンティッペを否定した報いでしかなく、ご自分で蒔いた種を刈り取っているだけのこと。現代女性はクサンティッペのように生きるべきで、男性はソクラテスに倣うべきではないのか。

ソクラテスを否定する男性を恋人にする女性は奴隷として男性に尽くすべきだと言っているに等しく、つまりどんなDVを受けても身から出た錆びと甘んじて生きる思想になるのです。男性も同じ、ソクラテスを否定するときあなた自身の権利を放棄して強い者に鞭打たれながら生きる途を選んだと知らなければならない。


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裁く心に地獄あり

2014年10月11日 | 詩心
             

カテ「宗教・哲学・思想」を「散文詩・随想」に統合して「詩心」とすることにした。それで新しいジャンルは「文化」だ。宗教も哲学も思想も根源は心に発しているが、健康を願い・祈るのは詩心だよね。この詩心が弱ると人はついパワーに訴えるのではないか? 詩心が弱い宗教は必ず外的圧力を人に加えようと考える。詩心が弱い哲学は理屈に流されて堕落して人生を嘆くようだ。 詩心が弱った思想は人間を信じる力を失うから悪い人間は裁かれて当然と想いたがる。それなら詩心を鍛えずに他者と仲よくできるだろうか? いえいえ、これは他でもない、あなたと私のことを念頭に置いているのです。

詩心が衰えると嘆き節とか呪い節・憎悪節を言葉に綴って「詩」というか知れない。「言葉即詩」であれば確かにどんな言葉も詩といえる訳で、それなら狼の遠吠えをも詩と言わなければならない。鼠のチューチューも詩と言わなければならなくなる。そこには詩というジャンルを殊更に設ける意味も失われているではないか。詩人を気取りたくて、つまり己を他者に評価してもらいたくて外面を好く見せたくて飾りをぶら下げる感覚だ。その心は誰かに認められたい認められたいという飢えた心に占領されていて社会を明るくしたいという詩人の心は牢獄に押込められてしまって陽の目を観ることはない。

さて詩心が弱っている人は害悪を為す言動に陥るということはこれで当然の成り行きとお分かりになるだろう。政治家も法曹も教育者も事業家も自称詩人もですが‥詩心が弱ったとき人は誰でも社会に害悪を為す。しかも権力を持った者ほど社会への影響力は大きいからその害悪で塗炭の苦しみ喘ぐ人は国中に溢れるのであり、詩心が弱った民衆は何の解決策を持つこともなく誰かを憎み呪い裁いて己の不幸感を払拭しようとするらしいことは現実の社会を観れば納得するしかなく、しかしそんな浅ましい己を直視するのは耐えられなくて己をたしなめる善人をも憎み呪ってやり過ごそうとすることになる。

裁きは人の心に始まってその実現を外的パワーに依ろうとするとき即ち・独善の始まり。国権に依ろうとする者・宗教に依ろうとする者・社会の風潮に依ろうとする者など独善の現われ方は異なっても人を裁いて不幸にしたいという歪んだ心根に違いはなくて、これが独善でなければ人の幸せを願って社会に温もりをもたらすだろうが、憎悪の心を隠し持っては幾ら善人ぶって笑っていても社会にも人にも害悪を為していると結論づけるしかないのだが、彼らには詩心すなわち対話の能力が衰えている訳で、これはやはり彼らの詩心を養わなければ永遠に闇をさ迷うしかないのではなかろうか‥なのです。

なにを言われても劣等感を刺激される境涯に陥るとベンチャラだけを待ち望む、そこにツケいるのは邪悪であり、結局邪悪の言葉を悦ぶわけで、それならどうして改善される余地があるだろうか。いやいや、これはやっぱり詩心を養い育まなければ彼らが可哀相。お分かりだろうか‥神が裁くと云う人は既に裁く心に乗っ取られていることを。そしてご存じだろうか‥邪悪は弱い心を・弱い心をと攻め入ってくることを。弱い心を鍛えたいなら己の心に邪悪を喜ばせる餌を忍ばせていてはならない。そしてそして論理的に考えるためにも論理を大切にしなければならないと、私はそう思うのです。



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正義が失われると

2014年10月03日 | 詩心

正義について問うても、多くの人はその意味を答えられない。

現実に『正義とは法律である』という人たちが大半なのです。

悲しい事だけれど、日本人は正義に暗くなってしまったのか。

そんな日本人に育てたのは家庭でしょうか、社会でしょうか。

或は学校が、児童・生徒の正義感を捻じ曲げたのでしょうか。

日本社会の明日を担う子供たちは一体どこへ行くのでしょう。


人々が正義を知らずに、社会の平和は望むべくも有りません。

正義を知らず・正義を口にする人を憎む社会は、乱れていく。

可哀相だけど、正義が無視される所で不幸はふくれ上ります。

人を信じられなくて、誤魔化し合い、憎み合い、呪うのです。

その人の家族間の信頼は消えて、家庭はあっ気なく崩壊する。

日本中に犯罪が溢れるのは日本人が正義を語れないからです。

組織と法の序

2014年10月03日 | 詩心
必要なら組織を維持すべきでしょうし、害が大きければ組織を廃棄すべきでしょう。
「害が大きければ」とは「必要度」と「害」を比べて害が大きければと云う事です。
そしてどうしても必要な組織には、どうしても必要な目標が自ずと備わるでしょう。
組織の目標は意思決定機関が決定し、目標を達成する為に法(規則)が定められる。
構成員は意思決定機関の決定を「根本法」として、規則を遵守する事を強いられる。

規則に反する行為は根本法に対する反逆と見なされ、反逆を為した者は罰せられる。

この意思決定機関は「民主社会」とか「独裁社会」とかの形態に関わらずなのです。
ここで、人が構成員になるか否かを決する法は「組織の法」の外にあると云えます。
重要なことは、社会の形態を決するのは「意思決定機関」の意思であると云えます。
即ち、社会の形態と意思決定機関の意識を共に改革することが重要となるでしょう。
もっと言えば、組織員の意識を啓蒙していく事が最重要の課題という事になります。

幸いが育つ所

2014年10月03日 | 詩心
インターネットに遊んでいる人たちに問うてみて驚きました。
ほとんどの人が正義の何たるかを知らずで、答えられません。
「法律が正義である」と平然と答える人たちも多いようです。
悲しいことだけど、日本人は正義に暗くなってしまっている。

なんとデタラメな道徳観で日本人は生きているのでしょうか。
日本社会に犯罪が溢れるのは大方の日本人に正義がないから。
正義が失われた社会や国に平和を期待できる筈もありません。
インターネットを開ける度にそんな事実を知らされています。

そんな日本人に育てたのは家庭でしょうか、社会でしょうか。
あるいは学校教育が子供の正義感を捻じ曲げたのでしょうか。
正義を知らずして明日の平和を築くことは望めないでしょう。
明日の日本を担う子供たちに正しく正義を伝えたいものです。

正義に暗ければ正義を口にする人を敵視したくなるでしょう。
当然ながら人を信じない人は誤魔化したり騙し合うものです。
そのような人の家庭は破壊されるから家族の絆も失われます。
家族同士の心が信じ合えず、それどころか憎みあう事になる。

実に正義が重んじられる場所で、幸いは大きく育つでしょう。

期待できる場所

2014年10月03日 | 詩心

・異議を唱えて無視されるなら、言論への期待は辛うじて有ろう。

・異議を唱えて咎めを受けないなら、言論への期待は感じられる。

・異議を唱えて質問が返る場所なら、言論への期待が感じられる。

・積極的な問いに積極的な意見が返る場所は、大いに期待したい。