daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

座の文芸の壁(5/5)

2014年10月20日 | 詩篇
             

俳句の原点はなんだろうか? 句会の原点はなんだろうか?

気の合うもの同士で集まってお茶呑んで饅頭食べて唄って踊って楽しくやって、そうした面白い雰囲気で五七五して笑い合って、そんな仲間は心許せていい。それこそが原点だと‥そういう人がいても当然いい訳で、だからといってそれを座の文芸の原点とするのは如何なものだろうか。その理屈がとおるならスサノオが肩で風切って歩くじゃないか。

古い伝統があるから良い訳じゃない、目的観を持たない座にどれだけの価値があるか。いや、高い目的をもたない座がどんなに害悪をなすだろうか!社会に害悪を為し、人に害悪を為し、未来に害悪を引きずらせてしまう。面白ければいいとばかりに無責任な運営の座を続けては日を追い年を追うごとに集団も構成員も社会もどんどん荒れていくんだ。

幼稚園は楽しいことばかりだった‥だからって幼稚園が教育の原点という訳にはいかない。幼稚園は教育のワンステップで、毎時毎日毎月毎年がワンステップで、いくら楽しくてもそこは留まる場所でない。やんちゃ坊主のスサノオは許せても齢食って悪さするスサノオが許されないのは当然で、おなじく句座も初歩のままに留められては劣化するのさ。

人は高い目標に向かうときに輝くことができて、目標がないと‥たとえば部屋に大事に仕舞いこまれた日にゃ、誰でも腐ってしまうのは知ってるだろ? しかも低いのは目標の意味がない。寝たままで手が届く饅頭を食べたからって目標にならない。だから一仕事終えて食べる饅頭は仕事終えなきゃ食べられないから目標に出来るってのはもう常識だ。

座の文芸の当面の目標はレベルアップかも知れないが、真の目標は芭蕉を超えた先の先、遥か遠くの先にある。その高い目標を設定できなきゃ浮かれ騒いで飲み痴れる狂態をさらすことになるのは私たちの先達の愚かな振る舞いが証明しているのは誰でも知っているのであり、彼らがいくら勿体ぶっても廃れて荒れて、心まで荒廃することに決っている。

何のための文芸か? これは句座に限らない。生活のあらゆる場面で必要となる心を養うための修練であり修養であり教養であり教育であって、詩心が未熟なままでは訓練を受けていない犬‥むやみに吠えたり噛みついたり暴れる犬は皆に迷惑をかける結果・人に迷惑をかけて疎まれる‥そんな不幸な目に遭わせたくない詩心を皆も具える‥分かるかな。

俳句ごときではあるけれど、されど俳句が人を救い社会を救う原動力ともなる。一瞬で越えられる壁だがあなたに掛った呪いが壁になっていると言えばいいのか‥呪いから覚めなければ業苦の淵に喘ぐしかないのだねえ‥断言するよ。

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座の文芸の壁(4)

2014年10月19日 | 詩篇
             

もうお分かりと思うが和の心は社会を明るくする詩心なんだ
座の文芸の心は、それゆえ詩心でなければならないと分かる
八百万の神が集った天岩戸のようでなければならない座の心

句会を名のっていて宴会が主目的になってはいけないだろう?
栄誉・栄達や営利・事業が主目的になってはいけないだろう?
詰らない退屈な日々をわいわい騒ぎたく思うのは理解したい

参加者の癒し目的や射幸心を煽ろうとする所で詩心は失せる
しかもこの根源の問題から目をそらすから更に詩心は失せる
そうなると営利集団でしかなく、心を食い物にする粗悪集団

句会維持のためのテクニックに意識が向えば‥向上心はない
ヤル気ない幹部社員が集ってする意味のない企画会議みたい
そこは己の座席確保が最優先されるから未来を語る者は去る

そんな場で発展的な意識の育ちようもなく衰退する座の文芸
どうだろう? こんなふうな澱み腐ったドブでなかったのか?
詩の清流がいっこうに流れないドブのままに留まってないか?

これは俳人を責めているのでなく、牽引者の知恵不足だろう
智恵のない者がリード線を引張って、犬は迷って勝手をする
どうように智恵のない者が集団を無理に引張って混乱が起る

責任者のベクトルが悪く下がって、集団を後ろ向きにさせる
詩心のない愚か者が己の栄耀栄華を図って集団を堕落させる
無責任なスサノオの末裔が集団のトップに君臨しているなら?

そこは時間つぶしの言葉遊びの場でしかなくドンチャン騒ぎ
酔い痴れた脳みそで俳句談義で得意がっている白痴の集まり
そんな白痴の一人が酔って草田男を指したのかも知れないな

 真直ぐ往け白痴が指しぬ秋の道

おい、草田男‥とでも指されて気分を悪くした草田男なのか?
酔払い男のグダグダを聞かされたかも知れない草田男なのか?
「こんなことしてて、おれはなにをやっているんだ」なのか?

草田男は覚めた頭で生涯を終えたか‥それとも悔いが残った?
あのワケ分らんちんが腐ってると罵ってたが、どう違うのか?
同じことしてたらオレも同じだ」とでも瞬間思っただけか?

真直ぐ往け‥それを知る文人はゐない、憶病者だけだろ?

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座の文芸の壁(3)

2014年10月19日 | 詩篇
   

和の精神とは何か‥あなたはきっとご存じにちがいない
しかしご存じない方もいらっしゃるから説明しておきたい。

①天岩戸に集った八百万の神々とは全ての神々を意味します
心を痛めて閉じ籠るアマテラスの周りに全ての神が集まった
心を病んだ者は放っておけと誰も言わない和の心が満つ神々
この程度のことは天岩戸の伝説を知ってればお分かりですね?
問題には全ての命が解決に向けて力を合せる和の精神でしょ?

②宴会目的で八百万の神々が集まったのではありませんよ
踊り・騒ぐ目的で八百万の神々が集まったのでもありません
オレが一番と言いたがる愚か者を崇めるためでは勿論ないさ
しかし愚か者スサノオは「オレが一番」と認められたかった
破壊者スサノオが荒狂って世界は闇になったのは知ってるね?

③八百万の神々は愚者・破壊者スサノオを和を以って諌めた
八百万の神が仲良く・食べ・舞い・謳う座に光が差したんだ
あいつは放っておけ・それはオレのだはスサノオの思想だろ?
我がまま勝手な言動は和を乱し・世界は暗くなるに違いない
自分さえ良ければのスサノオは改まらなければならないだろ?
座の心・和の心・八百万の精神が失われたときスサノオだろ?

④座の文芸と名づけるのは勝手だが、座の心は具わってるか?
僻んだり・妬んだり・憎んだり・恨んだりは座の心だろうか?
オレがオレが、あいつは要らん‥そんなあなたはスサノオか?
スサノオの末裔は話し合いが出来ず、疑問を口にしないのだ。
スサノオの末裔はドンチャン騒いで酔い狂ってまくし立てる。
正当な意見を見て見ぬふり‥そんなあなたはスサノオの末裔。

いくら「座の文芸」と名づけても愚か者ではみっともないだろ?

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座の文芸の壁(2)

2014年10月18日 | 詩篇
            

「座の文芸」を調べていて次のアドレスを見つけたのでご紹介しておく。
     連歌・連句(れんが・れんく) (和歌・俳諧)

私なりの理解で述べるなら「座の文芸」の源流は既に天岩戸にあった。和を乱したスサノオがいてアマテラスは天岩戸に隠れたが神々は心を一つに和して宴を催し・詠ってアマテラスを呼び出すことに成功した、それで世界は明るさを取戻したという。

上記アドレス『古事記』『日本書紀』記載のイザナギ・イザナミの子がアマテラスやスサノオであってみれば天岩戸の催しはイザナギ・イザナミの伝統を引継いで当然で、座に集い・唱和した記憶は忘れ去られても伝統は「座の文化」として今に引継がれているのでしょう。

神話なんか信じられないとあなたが思うのは構わないが、和の伝統・座の文化を否定する意味はなく、それを「座の文芸」に仕分けすることで文人たちに納得されるのであれば、それに反発する意味もまた無いのではなかろうかと‥これは私の想いです。

ともあれ、和の文化・座の文化の出発点は「心を和して唱和し詠った」ということを確認するとき、座の文芸の意味をあなたも再確認したのではないだろうか。すなわち、座の文芸の目的は私たちが考えているような軽いモノでなくて実に奥が深いことになる。

天岩戸の前に集まった神々は酒を供え・食べ物を供え・唱和した詞を供え・舞いを供え・座に和した悦びの心をイザナギ・イザナミに供えたであろうと私には思われる。その尊い伝統を引き継ぐ座の文芸であれば誰が軽々に批判などをできるだろうか。

座の文芸の伝統として残すべきは残し・新たに興すべきは興し・あるいは復旧・復興を図るべきは当然であれば文芸・文学界は挙って協力を惜しむものでないのはこれまた当然なのです。神々が産み広めた倭の国は文化立国たるべきは当然でないだろうか。

そうすると座の文芸の壁があるなら、それは私たちの意識にあるに違いない。

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座の文芸の壁(1)

2014年10月18日 | 詩篇
               

草田男の件で触れた自句自解‥もう少し考えておきたい。

  真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道  草田男

草田男の自句自解(観)を「黒姫四百号(記念号)に寄せて」に観てみよう。
>この句は師の自句自解によると、「ある日、田舎道を一人で歩いていた。村人に自分の行先を告げ、そこへ行く道順を尋ねた所、たまたま村人の傍に居た一人の白痴(現代の遅進障害児)が、その指で道を真直ぐに指し示した。その瞬間的動作から一種の啓示を得てこの句が生まれた」との事で、

(このように)黒姫の主宰・神田氏は草田男の自句自解を人伝に知った。これは何を意味するかというと草田男の自句自解(観)は育っていない時代であり環境だったと云えそうです。『自句自解』の出生は認められてなくて数多の辞書に現在はまだ載っていない。それで合点がいく。今から31年前に亡くなった草田男に自句自解観が育ってなくても仕方ないと理解してやらねば気の毒だ。俳句を「座の文芸」と観ていたらしい草田男が私と同じ感覚でないのは寧ろ当然でしょう。

解放(5)で触れたが芭蕉の俳諧は川柳~俳句の広きに亘るのであり、下流の川柳は座の文芸に相当し、民衆の意識を俳句に高める入口・導入部に当たると理解すると分かりやすい。そのような場で自句自解論を展開したところで理解されるものでなく、わいわい騒いで遊んでいたユルイ談義の座で発したフレーズを誰かが書き留めたものを草田男の自句自解としたのであれば文書として残っている筈なく、これは草田男がきっちり説明したと考えないほうが辻褄があう。それなら未熟な弟子にヒントを与えたつもりの草田男の気配りに混乱の原因があり、これは草田男の勇み足・蛇足と云われても仕方ない。

これは「座の文芸」が駄目というのでなくて、限界と捉えるべきであり、限界は乗越えることで次のステップへと進むのが正しいが、これにどっぷり浸かってしまうと脱け出すのが困難になる。何ごとも入口で立ちどまっていてはそれ以上の成長は望めず、後続の邪魔になるからこれは教育をほどこす感覚が必要な場面であり、しかし教育観が育ってなければどうして未来を考えることができるだろうか。芭蕉が平均台から下りてきたのは永住するためでなかったのは明らかで弟子は先へ先へと進むべきなのに、これは俳句界全体に言えることだが、彼らが立ちどまって動かない・前向きの意識が働かないのには原因があることになる。


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解放(7/7)

2014年10月16日 | 詩篇
             


 真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道   草田男


この句は草田男の自句自解が付いているらしいがどこにもない
句から自句自解を切り離して問題ないと考えているのだろうか?
草田男もそのような無責任な言動をする人間だったのだろうか?
白痴が道を指差した‥と書いてある説明は一つ見つかったが、
そのほかはドコを指したと書かれていない‥正しいのはどちら?
自句自解は句とセットであると私は考えているが間違いなのか?
自句自解は平仮名一文字だけでも意味が変わると考えるべきで、
それゆえ、自句自解は初めから無いものとして読むことにする。


さて、
ネットで遊んでいて出合った草田男の句は御存じか知れないね
句意をアレコレ捻りまわすのは知識を持て余してる人なのかな
あるいはあなたのトラウマかも知れないからね‥解放しなきゃ
そんなことを想ってしまうのはこれはいったいどうしたワケか
同病相哀れむ‥同じ社会に住む者同士は理解しあうのが普通だ
つまり、私も同じようなものですから仲良くしようねって意味。

この句のフレーズ「白痴」はインパクトが強くて囚われやすい
あなたが囚われたことを責める意味はない‥草田男も囚われた
人間愛を感じる人もいるようだが人は其々‥それも理解したい
白痴をドストエフスキーの小説「白痴」と被らせる俳人もいた
この句に、草田男の深淵さを改めて認識し直したって構わない
真っ直ぐで合ってるか‥とか考えあぐねた人もいるのじゃない?

(A)私はしかし皆のように難しく考えない
①草田男が村人に道を問うていた、その時だ。
②傍らにいた白痴の人が草田男を指差したんだな
③己を真っ直ぐに指されて草田男はたじろいだのでしょうね
それだけのことですよ。蛇足的に付け足すなら‥
④小学校の時、出来の悪い草田男は先生に何回も指差された
「おい、草田男、脇目をするな、真面目にやれ」‥だろうな
何年ぶり、何十年ぶりに指差されて先生の指導を想い出した
先生が他者の身体を借りて現われて叱ったように想ったんだ
それを啓示と捉えた草田男‥あなたの啓示は意味が違うだろ?

偏見や傲慢や憶病などの心に囚われないで俳句をしませんか?
ふふっ、草田男が私に乗り移って叱ってるのじゃないぜよ。:-)
迷える羊の写真はうっかり間違えて載せることにしましたぜ。(笑)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次のアドレスの草田男の自句自解に「道を指し示した」を確認。

https://note.mu/s_maori/n/n4c6709fcdea8  白痴の道 「村人に道順を尋ねた所、たまたま村人の傍に居た一人の白痴が、その指で道を真直ぐに指し示した。その瞬間的動作から一種の啓示を得て句が生まれた」
http://kurohime.japan-mind.net/kurohime_400.html  黒姫俳句界「村人に道順を尋ねた所、たまたま村人の傍に居た一人の白痴(現代の遅進障害児)が、その指で道を真直ぐに指し示した。その瞬間的動作から一種の啓示を得て句が生まれた」
   黒姫俳句界「ある日、田舎道を一人で歩いていた。村人に自分の行先を告げ、そこへ行く道順を尋ねた所、たまたま村人の傍に居た一人の白痴(現代の遅進障害児)が、その指で道を真直ぐに指し示した。その瞬間的動作から一種の啓示を得てこの句が生まれた」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(以下、「道を指し示した」で解釈しておく) 10月16日19:30

 真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道   草田男

(B)この場合も私は難しく考えないな
①草田男が村人に道を問うていた、その時だ。
②傍らにいた人が道を指差して脇目を振らず往けと言った。
③たしかにそうだ。道は馬鹿正直に往くものだからね。

それにしても(A)と(B)でどちらが優れているだろうか?
道を指し示す必要があるだろうか?
脇目を振らずに一所懸命に往くべき道に変わりはない。
(A)の場合は指した指が「真直ぐ往け」と言ってるのであり、
(B)だと「真直ぐ往け」と誰が言ったかスッキリしていない。
結局、「道を指した」という草田男の説明は蛇足でしかない。



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解放(6)

2014年10月16日 | 詩篇
             

 ・大根引き大根で道を教へけり   一茶

これは俳句だろうか? 川柳だろうか? 一茶だから俳句?
そんな馬鹿な説明で納得しますか? 一茶でも「吐く」だろ?
芭蕉の世界は「吐く」から「詠む」まで雑ぜこぜだと教えたろ?

五七五型・定型・不定型・有季・無季・切れ字‥決定的違いか?
文語・口語・対象(自然・人事)・歴史が違う? そんな馬鹿な。
この程度の誤魔化しで済ませると思うとはレベルが低すぎるぞ。

芭蕉の世界は「かろみ・滑稽さ・わび・さび」‥何でもありだ。
朝の挨拶・眠って見る夢・白昼夢・虫・病気・喧嘩‥食事もだ。
もっともらしく繕っても嘘はいけない。嘘を教えてはいけない。

芭蕉の世界を俳句と川柳に便宜的に分けるのは悪い事じゃない。
つまり、俳句も川柳も芭蕉の世界だって知らなきゃいけないよ。
長い平均台の上流は詠み、下流が吐くだと考えたら理解は早い。

 ・大根引き大根で道を教へけり   一茶

この句に「かろみ・滑稽さ・吐く」を感じれば川柳に違いない
この句に「風物・季節・美・詠み」を感じれば俳句に違いない
そうなるとこれは詠み手でなく読み手の問題・能力・課題だよ

大根で道を指し示すとは怪しからん‥これが川柳の感覚になる
もう大根の採りいれの時期なんじゃ‥これは俳句の感覚になる
川柳の感覚も俳句の感覚も具えているのが人間に共通する事実。

しかし機嫌が悪いときは罵りたい(吐きたくなる)のが人間だ
機嫌が良くてこそ冷静に判断したり他者に鷹揚になれる人間だ
一人の人間の目線でも日により・時間により・状況で変化する。

だから人間味が増すと人を無闇に咎めない・許せるようになる
そして人を高い境涯に導いていきたい・一緒に行こうと考える
つまり、平均台の下流から上流へ段々と上って行けたらいいさ。

己だけ甘いもの食おうとか、蹴落として出世しようとする奴は?
俳句の心・詩心が具わっていない出来損ないということになる。
そんな出来損ないの心・セコイ心から自由になろうじゃないか?

お下品な笑い → 冗談 → ユーモア → 思いやりの世界
囚われている醜い心はもう解放して羽ばたかせてあげませんか?
爪はじきされた悲しい経験に学んだ芭蕉は俳句・川柳を作った。

それで今あなたは平均台の入口近くですか? 出口近くですか?

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解放(5)

2014年10月15日 | 詩篇
               

俳句は詠むで、川柳は吐くの説明が分りやすいと想った。もっと云えば、
俳句は(+)ベクトルだが川柳は(-)ベクトルだ。普通、(+)はポジティブ思
考で、(-)はネガティブ思考だが詩人の心は自在であり窮屈に囚われない。

長い長い平均台、渡りきれば面白そうな世界が笑顔でまってるんだな
若い芭蕉はそんな世界で愉快に遊んでいる己の姿を夢に見たんだなあ
楽勝に想われた平均台、こんなのカンチコチンと言ったかどうか‥

人気のケーキ屋や広場の入口に長蛇の列が出来てるの見掛けるでしょ?
そんなもんだよ、誰でも面白そうなところで遊びたい楽しみたいよね?
長い長い行列もナンのその、数時間でも並ぶくらいヘッチャラでしょ?

それは芭蕉もおんなじだった、平均台には誰でも上がれる訳じゃない
選ばれた人‥芭蕉。有能な芭蕉はスルスルスルと先っちょまで行った
身軽にホイ、広間に座る積りが平均台の先っちょにジャニーズがいた

ジャニーズを蹴とばして行ける? そんなこと恐れ多くて出来ないさ
石原Jr・小泉jr・岸信介jr・吉田茂jr・鳩山jr‥そんな感じ分るよね
芭蕉もjrのパシリしたりモギリやったり‥そして早々に見切ったのさ

単に見切ったのじゃない‥平均台の周囲には羨ましそうな目・目・目
その人らを見て「みんな遊びたがってるんだな」と感じた優秀な芭蕉
そうだ、みんなに遊び方を教えてあげよう‥と考えたから芭蕉は偉い

だが彼らは河鹿なんて高級なものは知らないから、古池の蛙にしたさ
芭蕉は河鹿を知ってたけどね‥どや、オレ河鹿知ってるぞ、偉いだろ?
そんな馬鹿は今の日本に多くて「オレ金持ち」って言う馬鹿いるだろ?

金持ちなら庶民のなかに入りたがるなよ、やっぱ貧乏根性なんだよね
芭蕉は庶民レベルに下りてきて「蛙合」となり、古池に発展したんだ
それが理解できたら「上位者が下位者に合わす」芭蕉俳句と言えるよ

すなわち、俳句の師匠は弟子のレベルに下りる才覚がなきゃいけない
平均台の先は和歌の入口だ、その先の広間は本格的な和歌の世界だよ
すなわち、すなわち、平均台の入口からは詠む世界観が広がっている

それなら平均台のすぐ周囲は? そりゃあ羨ましがる世界観でしょう?
広間のなかを観たい観たいと首伸ばし・背を伸ばしして覗き見る世界
タメ息吐いたり、ののしりあったり、喧嘩したり、それでどれが好い?

ののしる連中は駄目だよ、喧嘩する連中もダメだろ? タメ息が好い
タメ息吐いて「いっしょにやりたい・やりたい」の人々に的を絞った
いきなり詠むなんて無理でしょ? タメ息「吐く」レベルで好いのよ

すなわち、芭蕉の世界は「吐くレベル」から「詠むレベル」まで含む
吐くも詠むもゴッチャ雑ぜの芭蕉の弟子たちと理解したらどうかしら
俳諧人口が増えてこそ吐くとか詠むとか仕分けすることも可能だよね

ここまでは分かったと思うけど、仕分け方が未だよね。
どんな仕分けが好いのだろうか? 私も考えてみます。


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解放(4)

2014年10月15日 | 詩篇
             

野分‥これは昨夜ブログを飛び歩いて目に入った季語
なにか気になって2時間ばかり思考錯誤した次第だが
野分って名詞か? 動詞か? 答えは名詞らしいが
始まりは動詞だった筈なんだ‥風が草叢を分けたんだろ?
それで動詞形はないかと探したが見つからなかった
どうしても動詞的に表現するなら「野を分ける風」かな
野わけ‥これ名詞、 野分(のわき)‥当然これも名詞だ、

言葉は進化・変化・発展・固定化・変質化などしていく
今日を刹那的に生きるなら言葉の質に拘らないだろうが、
言葉に普遍性を求め・近づけようとするとき思考は深まる
それなら言葉の意味は個々人で異なって当然と分かる筈で
異なる意味の文章を理解したくて意思の疎通も試みられる
ゆえに意思の疎通に欠かせないのは他者の能力ではない、
意思の疎通に必要なのは己の能力であり、努力なのですよ。

三省堂の古語辞典を二冊比べたところ面白い発見があった
野分だつ‥(野分らしい寒い風が吹く意とみなす解釈があるが)
      野分が吹き始める意。
そしてもう一冊には「野分らしい風が吹く」と載っている。
つまり二冊の解釈は互いに否定し合っていて愉快に思った。
狭義での意味の違いはあっても、広義ではどうだろうか?
私は別に目くじらを立てているのではありませんよ。

俳句詠みはこのていどの違いは腹に収めて詠むのだろうな‥
まして他者が詠んだ句を解釈するにはユトリが必要だろう
他人の句の首根っ子を捉まえたのか小躍りする意味はない
文法がどうのとセコイことを言いたがるのはセコイ文化人
セコイ文化人がどうして他者の俳句を理解できるだろうか
セコイ文化人に従属して‥あなたはセコイ心に染められる
詩人の心は自由に羽ばたける筈なのに‥セコイのは駄目だ

野分だつ : 野分らしい風が吹く or 野分が吹き始める
それじゃあと敷衍して思考はどんどん進んだ人もある‥
野分の初めから終りまでは? 野分中(のわきぢゅう)で、
野分している擬人化は? 野分中(のわきちゅう)‥かあ、
お食事中(しょくじちゅう) :行為と時間を指すが、
お食事中(しょくじぢゅう):時間に限定される感じだ。
いやいや、言葉に強いこだわりを持つ私でもあるのです。

ともあれ、縛られるのでなく自由に伸び伸びといきたい。

(ついでに清水哲男氏の評論にも触れておきたい)
 野分きし翳をうしろに夜の客  大野林火
野分が、キ・キタ━━(゜д゜;)))━━!!‥って感じも好いな
そろそろ来る予感がする、来るかな、来るかな、来たーッ
何が来たって? そりゃあなた、夜の客でしょ?
この客はいつも大雨・大風・吹雪‥を引連れてるんでしょ?
今年は19号台風‥それにしても酷かったですね。

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解放(3)

2014年10月15日 | 詩篇
             

詩人ってなんだ? 詩心って何だ? 俳句って何だ?
俳句は詩でなければならなくて、詩は詩人の心から溢れる言葉、
詩心が宿る人を詩人という、ゆえに俳句の根本の定義は明らか。

詩心を持たず、詩人の対極にある心が世界を支配しようとする、
その卑しい支配から解放されるには卑しい奴に見切りをつける、
俳句界を善くリードしようとする詩心を己のなかに育てるんだ。

散文詩とは? 叙事詩とは? そんなこと悩みことはないんだ、
先ずは詩を書けば良いのであって、詩のなかに俳句は含まれる、
詩形にシバリはない、定型・無定形・長短などの約束事はない。

詩心が込められた文は日記も演説文も歌もなにもかも詩になる、
詩人の心に湧きでる言葉の一つ一つを詩という‥と知ることだ、
詩人と詩人は詩心で通じあえて問題解決解消もスムーズに進む。

それなら欲の皮が突っ張った奴等はどうだ? 停滞してばかり、
互いに損得勘定で考えていたら世界は置き去りにされてばかり、
自然世界も、詩の世界も、あなたの地域もどこも壊れるばかり。

壊れた世界・狂った関係にいてあなたの詩心はどう湧きでるか?
詩心のない金の亡者に評価してもらって一喜一憂するのは愚か、
狂った環境で魂を腐らすより野原に寝転んで空をみるのが好い。

狂った心に怒られて、狂った環境・世界で奴隷にされて不愉快、
狂った心を叱りつけ、狂った環境・世界を正しく導くのは痛快、
心狂った者は人のいない闇に閉じこめられて世を恨み嘆く定め。

詩篇には目的がある。それが少しでも伝わればいいのだけれど‥

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解放(2)

2014年10月14日 | 詩篇
             

解放というと束縛が解けて自由になれると考え勝ちでしょうね?
それでも好いけど、だけどそれってどういう意味なんだろうね?
インターネット社会は人間を管理したい社会って知ってるよね?
管理するために膨大なファイルを持とうと誰もが考えるようだ。
必要な公的情報や個人情報を全て手に入れてファイルに残すか。
私のIPアドレスを除き見たり、足跡を辿って私の行動を調べる。
だから私が訪ねたサイト・私が見た商品名など、全て知ってる。

これがネット社会の現実‥○○店で見た靴の番号も見られてる。
google検索も大手サイトばっかり出て調べたい物は見られない。
お分かりだろうか‥こんなシバリから解放されるにはどうする?
誰だって、もしかしてあなただって管理する側に回りたいだろ?
管理しようとする心に囚われている人は現実に多いのでないか?
自縄自縛‥自分を自分で縛って動けなくなるなら‥馬鹿でしょ?

とまあ、他者の思惑に振り回される生き方・愚かさを述べたが、
根本の大事がある‥それは人を手玉に取りたい心を捨てること、
それであなたはご自分の心を解放することが容易にできるワケ。
奴隷には奴隷の報いがあり、囚人には囚人としての報いがある。
奴隷や囚人が美味しいものを食べられるワケがないじゃないか。
奴隷や囚人が己の頭で自由に考えられるワケがないじゃないか。
それなのに魂を囚われたままで自由になろうとしても無駄だよ。

結果が大事‥小銭を無駄に使わせられて最後は悲惨に喘ぐのか、
嘘八百を言われて理解できた振りで・さもしく生きても一生だ。
グチグチ言ってる愚か者を見下ろす境涯で悠々と生きていくか?
だから‥分った顔してて分っていない者に従ったら馬鹿をみる。
本来は出版業界が手本を示してみせるべきだが‥人はいるのか?
あなたの他に人がいなければあなたが勇気を出して声にだそう。
教えてくれる人が誰もいなければ‥それを幸いと読んでみよう。

そのときにあなたの解放元年になるのではないのかなあ‥。
芭蕉は49歳で亡くなるまで人生修業の旅をしたのだった‥。
これはヤル気の人へのメッセージでヤル気のない人には無関係(^'^)

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解放(1)

2014年10月14日 | 詩篇
              
(あなたの地は台風被害の状況は如何でしたでしょうか‥)

室内に風を入れないようにしっかり雨戸を閉じたのも今は昔、
仕舞い忘れはないか、飛んでいきそうな物はないか見まわる、

1) ゴミペール仕舞ふ台風一過待ち

洋風の建物にアルミサッシの窓枠で台風を恐れない好い時代、
それにしても日本は近ごろ地盤がゆるんでいるようで心配で、

2) 台風のとおり過ぎたり日本晴

過ぎ去った台風にほっと安堵で過している人は多いだろうが、
台風の後始末に追われて忙しい人も多いのではないだろうか、

3) 出っ張って一悶着のタイフーン

やれやれ酷い目に遭ったわいと想えば台風も憎くなるだろう、
また来やがったか、なんべん来たら気がすむんじゃい‥かも、

4) 角立てば荒ぶ台風疎ましき

作句の不出来につきましてはどうぞご用捨頂きたく存じます、
今回の台風を考えていて取りあえず4句に仕立ててみました。


さて、(1)~(4)の句は俳句だろうか?  川柳だろうか?

俳句といい川柳といっても、どちらも五七五の短詩型ですが、
どこがどう異なるか、二つに別れた意味は今もあるだろうか?

違いを感じられない人には一つに戻そうという動きは当然で、
即ち、俳句であるための必要・十分条件はどう具わるべきか?

他人が詠んだ句を解釈したことがなければ違いは分らないし、
あなたはそのようなことを考えてみたことは無いだろうか‥。


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トライ(8)

2014年10月07日 | 詩篇
                 

八世紀ごろのシェヘラザードの物語に登場し、旧約にも登場するソロモン王はBC千年頃の人だが、その古い文化は旧約圏からイスラム圏にまで広まっていたと分かる。キリストより400年ほど前に生きたソクラテスはギリシャ・アテナイの市民だが、旧約の歴史から観るときは内庭を挟むお向かい同士。そうするとインド・中国も指呼の間‥なるほど、各国の哲学が似ても不思議はない。

釈迦国に起った仏教には対話主義を引き継いだ歴史がうかがえる。対話は互いの智恵・知識を共有し・高めあう。キリストが遺そうとした対話路線、それを仏教のみが必要と認識したのはどういう訳だろうか。嫡子は権威を引継いでも庶子は権威を引き継ぐことを認められない文化は中国・朝鮮・日本に観られる東洋の思想の傾向だろうか‥そんなことが想われる。

日本・韓国に観られる長男の弟妹に対する権威的な言動は引継ぐ権威を守ろうとするところに生れると考えると理解は一気に進みそうで、ナルホドそれなら庶子は身一つで出世していくしかないという理屈も生れるだろう。同様に旧約の正統が新約を起したならそれは権威主義に堕しても寧ろ当然といえて「信徒は黙って神官に随え」の権威主義になっていくだろう。

ともあれ、新約を振りかざす人たちは対話せず権威的であるなら私の認識で合っている訳であり、事実は私が証言するまでもなくあなたはあなたの責任で判定することができる。キリストがラビに疑問をぶつけたように私は私で新約に対する疑問をぶつけて、それに対してゾンビに似た言動をくり返すならキリストを迫害した者の末裔に違いない。

我が友・キリストを護ろうとするか食い物にするか、私は仏教徒であるが言論の自由・対話主義・人権主義を採るもの同士として、同じスタンスに立つキリストの周囲を見守っていきたい。なにせキリストは私生児であり、庶民であり、私は庶民であり、エリートでないキリストの同類の私に違いない。釈迦は王族であるが私もキリストも庶民という貴重な事実。

あなたがエリートの出自であってもエリート意識をかなぐり捨てた瞬間に庶民の仲間・民衆になれる気安さが庶民の持ち味であり、学歴が高いから民衆になれないなどという姑息さの持合せは庶民・民衆にはない訳です。そういう姑息さは民衆に馴染まず、仮にもあなたが姑息さを隠し持つならすでに覇権主義の思想に染まった出来損ない・不良品なのです。

いやいや、この「トライ」は散文詩八回まで無事にたどり着きました。詩篇には必ず目的があり・ロマンがあると思っているが、この「トライ」に目的・ロマンは感じられるだろうか? 仏教の証言者には雪山童子もいれば維摩詰もいて、しかし私が周梨槃特(すりはんどく)に誰よりも親しみを感じるのは彼の存在が庶民の私の幸せを保障するからだと思っているのです。(トライ・完)


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トライ(7)

2014年10月07日 | 詩篇
               

三つのカテゴリーを無くして「俳人 - 鑑賞」とした。絶対数が増えるとどうしても紛らわしい。なんのために私たちは形式を考えるのだろうか。機能よく工夫するのは何のためだろうか。効率よくしようとアレコレ考えてややこしくすることはないか?

集団があって初め自由にさせる乳児教育をほどこし・次いで幼児教育・続いて少年教育・青年教育・そして成人すると管理しようとする。管理したいのは人間に観られる特徴のようで、己を管理できるのをオトナといい、他人を管理したがるのを覇権思想という。

オトナは覇権思想に陥らず、覇権思想の者はオトナに成りきれないというところが悩ましく思えるならあなたは覇権思想の側にスタンスを置いていると断定しておこう。自分はオトナの積もりでオトナに成りきれない日本人を指して「日本人は精神年齢12才」と評された。

そのようなことを言う西洋人はそれならどうなんだ?それで西洋人をここで論じながら考えたい。アダムとイヴに始まった西洋人の意識・思考は主と自由に語る資格を与えられてきて、つまり自由な魂の人と位置づけたいが、そのレベルは年齢で云えば12才ぐらいだろうか。

自由な魂を育まれてきた12才の少年がキリストと考えたらどうだろう? 何ごとにも一所懸命で・真面目に思索し・正直に生きて・想いやりの心は厚く・なによりも主に真っ直ぐな純真なキリストの少年期、疑問にぶつかれば主に問い・間違いは追究し正そうとした少年だ。

後世のある人々は少年キリストを祝福された預言者と評価したかも知れないが、素直に観て彼は旧約の主に正直に生きたと言うしかなく、キリストのどこを観たら裏切り者と同列におけるのか、まったく以って私には納得できないキリストへの酷い仕打ちではないか?

キリストを裏切ったとされるユダが極悪人のレッテルを貼られたなら、旧約の主を捨てたならそれこそ極悪中の極悪であり、旧約を蔑ろにしたとされるキリストは新約の盟主とされて当然かも知れないが、私の友・キリストは主を捨てなかったという認識なのです。

ともあれこれは論理的思考のすえの私の疑問であるから、私の浅い考えだということが納得できたら私は幸せであり、主を正しく教えたあなたも祝福されるのは疑いない訳です。しかるに旧約は時代遅れと叫ぶだけならキーキー叫ぶだけのゾンビとどう違うだろうか?

己を管理できるのをオトナといい、他人を管理したがるのを覇権思想といって、オトナになれないゾンビは人を言い成りにするために祟るが、ゾンビにやられた人はゾンビ化して人を言い成りにするために祟ることで増殖をくり返すと知るのを哲学といい論理という。

旧約の主に正直に生きたキリストは死後に旧約を信じない者たちに祀り上げられてもそれはキリストの責任でなく、しかしキリストの心中を代弁すれば「おいおい、説明しなさいよ。私は主ともラビたちとも友とも親しく対話をしてみせたのは知ってるだろ?」‥。

旧約は隠れたかに見えて、キリストの魂はどこにも受継がれていないのだろうか?否いな、私の論理はそう導かれなくて、旧約の主を信じる者は主が人を信じたように彼もまた人を信じ・未来を信じ・対話を重視し・論理を重視したソクラテスがいるじゃないか。

ソクラテスは哲学者である前に詩心を大事にする詩人であったと結論づけるのはあなたにも難しくないと思うが如何だろうか? 今はもう旧約は忘れ去られていても哲学者や心ある人のなかに今も生きている「人を信じる心・人と対話する心」は旧約の主の伝統ではないか。

哲学者の特徴としては人を支配・管理しようとしないことも忘れてならないだろうな。哲学は主の世界に君臨しようとしないし、だれかを支配しようともしない。それはあの時代背景にあってキリストは女性の人権を守り、ソクラテスの妻は自由だっただろ?

旧約を信じないのはいいとして、あなたの人権意識はソクラテスに並ぶだろうか。


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トライ(6)

2014年10月06日 | 詩篇
             

旧約は多くの勇者・賢者たちによって引き継がれ書き加えられてきたと私は思っている。主とアダムが語った言葉は旧約に載っているのは周知のことだが、イヴの言葉も旧約の一部となって載っている。そのように選ばれた人たちの言葉が随所にちりばめられているのが旧約であり、彼らの存在が無くては旧約は成立たない。この選ばれた人たちは何に悩み・何に悦び・何を願って生きたのか。 人の魂を時に慰め・時に叱り・時に誉めたたえた言葉は主の詩であり、主に懺悔し・主に感謝し・主に誓った言葉は人の詩となって今に伝えられていて、すなわち旧約は一人の詩篇でなく数千年に亘って受継がれ・伝えられ・上書きされてきた超大ロマンの詩篇にちがいない。

人の一生は百年に満たず見聞する情報は極々少なくても数千年の詩篇を著わす能力を具える人であり、そのことを実証して見せた人であることは疑う余地のないこと。諦めなければ、途中で断念しなければ人類の終りの日まで続く詩篇であるのは確実なこと。リーダーは仲間を信じてどこまでもどこまでも仲間の先頭に立って歩きつづけたことでこの偉業は成し遂げられたと考えられる。弱い者が音をあげ倒れても替った者がその後を引き継ぎ先頭を切って更に前へ前へと歩んだ歴史に勇気づけられ・勇者を賛嘆し・続く人々を鼓舞する詩を詠う人は痛快だろうなと、そんな詩を詠っているわたし。あなたはいかがだろうか、生を思う存分に愉しめてらっしゃるだろうか‥。

人間を信じるとは根底から観ること。人を信じないとは上っ面しか見えないってこと。詩人は上っ面で浮かれず嘆かず憎まず、深く深く根底から人を観ようとするゆえに得る悦びは限りなく大きくて壊れることのない幸せの境涯にたどり着く旅の日々で詰らない小さな悩みに囚われる暇などないと云えるだろう。旧約の人のドラマチックな物語は正にそういった悦びに満ちあふれているように思える。くり返せば旧約の神は人との対話を重視していて、人の成長を悦び・後続の人々が元気に生きる詩を謳うのを歓迎するのは間違いないようだ。


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