寒卵といえばあなたは何を想うだろうか‥ピンとこない?
寒卵という食文化がなかった私にはピンとこないフレーズでした
この作者にとっての寒卵は朝に付きものだったのでしょう。
大切に育てられた、あるいは大切な家族に付ける寒卵か知れない
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最終更新:aruq 2009年11月15日(日) 16:39:27
寒玉子狂ひもせずに朝が来て 岡本眸氏
鶏卵は、肉食が盛んな現代においても貴重な蛋白源でありましょう。
まして、菜食中心の日本で鶏卵は高級食材だったに違いありません。
金持ちの家でも家長か長男だけが食べられた程、別格の食材でした。
冬になると、体力の無い年寄りや幼児等が大勢死んだと思われます。
病気の子・病弱な子には卵を食べさせて元気をつけさせようとした。
それで、厳冬期の鶏卵は寒玉子と呼ばれて有難がられたのでしょう。
思えば、鶏卵は寒中にあって元気を失くすことなく、元気一杯です。
また、寒中にあって寸分の狂いもなく・東天に太陽は上がるのです。
宇宙のリズムに組込まれた寒中であり、鶏卵であり、人間なんです。
自然を信じ切れない弱虫だけは狂った感情に支配され朝を待てない。
この句の作者は宇宙のリズムに護られつつ・寒玉子を戴いたのです。
寒玉子を美味しく戴きながら、生きている不思議を実感したのかも。
宇宙が誕生して以来、この世界の約束事は何ひとつ変わっていない。
そうすると、変わっていったのは人間の心という事になりそうです。
人間が変節し・間違ったせいで、人間が係わる自然・環境は狂った。
それなら人間はどのように狂っていったかを考えなければならない。
裕福に暮し・感謝の気持ちが薄れ、それで人は物を粗末にするのか。
仕事に有りつけない人々が路上に溢れるのは、どうしてでしょうか。
人間の際限のない欲望が・全ての狂いの根本原因ではないだろうか。
際限のない欲望は結局、己だけの快楽・富の独り占めに向かいます。
お金になる仕事を独占して、他者が生きる権利を奪って平気でいる。
それを殺人=生存競争と言わずして、なんと言えば好いでしょうか。
そんな人間社会をヨソに、自然は狂うことなく太陽が昇り朝がくる。
寒玉子の元気をもらって、人は今日も元気にスタートを切るのです。
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ところで次のような寒卵の句を見つけました。
味噌汁におとすいやしさ寒卵 草間時彦
この句の「いやしさ」を「卑しさ」と捉える解釈を清水哲男氏と(コメント=とびお氏)がなさってらして、自嘲気味に「卑しさ」と詠むのが普通なのかと思った。
それにしても「味噌汁に卵をおとす行為は下品なんだろうか?」‥なんです。文化は風習であれば下品と捉える地域があっていい訳で、それでも「卑しさ」以外の解釈は出来ないものかと古語辞典を開く私なんです。
そんなもの難しく考えず「癒しさ」で好いじゃないかと思わないではないが文法に則って詠まれることに如くはなしですからね。それこそ牽強付会だというご批判は甘んじて受けることにして見つけたのが「弥頻く(いやしく)」意味は「ますます重なる。いよいよさかんになる」で動詞。動詞の接尾語「さ」を付けると「いやしくさ」でコレはない。
それなら接頭語「さ」を付けて「さ寒卵」ならOKです、すなわち
①味噌汁におとす癒し/さ寒卵
もうひとつ、終助詞「さ」を付けて口語体の句。
②味噌汁におとす癒しさ/寒卵
詠まれた俳句は一人歩きするから清水哲男氏の訳の他に①②が可能である。
詠み手の草間時彦の真意は好きに解釈するしかないが「卑しさ」が妥当かどうかであるが、清水哲男氏の説明にあるように「旅館の朝餉」に付いてくる生卵は定番です。この生卵はどのように食せば下品にならないのだろうか‥。卵かけ御飯にすれば上品だろうか、殻に穴を空けてチュルチュル啜れば上品だろうか、それとも自分で目玉焼きか煮抜きにするのだろうか、向い合った人のオデコでコチンと割って遊ぶべきか? ハテサテどうしたものだろうか。
これはやっぱり味噌汁におとすのが消化に一番良いと私は思うのだが、どうしても庶民感覚として下品と見るべきだろうか。このように考えるとき、卑しくない寒卵の食事を卑しいとしたがる草間時彦ということで理解してあげるべきかも知れないが、そんなことを認めてしまったら「御用達饅頭卑し…」ならどう弁護するのだろうか。悩むところである。
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