daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

推敲の秋

2014年09月22日 | 宮沢賢治-鑑賞
俳句メインのブログ日記をここ数日訪ね観て思うことだが
どなたも句作を続けることの難しさを味わっているようです
なかには句作の悩みなど知らないという人もいるだろうし
スラスラスイスイと言葉を繋ぎ合せるのに長けた才能もあるのだろう
その才能に恵まれる人には泉のように言葉が噴出すと思えて
その優れた才能を眩く感じつつも真似はできないとも考える
才能ある人は教えてあげよう訓練してあげようとなる訳で
だがその手の才がない私は無い袖は振れない結果に至るのだ

泉のように言葉が口を吐いて出るのには訓練が必要とは思う
機関銃のように噴射する言葉のなかに宝が見つかるとも云う
多作を勧める俳句会の師匠の狙いは「多作にこそ宝」をみる
十万中で一の確率なら一生の中に十万句を作ればいい理屈だ
その計算が俳句自動作成マシンを要請したのだから悲惨だが
なにが悲惨か解らないあなたは俳句に見切りをつけるだろう
そんなあなたであればドコが狂っているか考えないだろうし

印刷機が発明されたころ、労働者は慌てふためいて罵ったが
コンピュータが発明されて労働者は慌てふためいて騒いだが
道具は使いこなす物だと知って賢かったあなただった筈だが
道具をどう使いこなすかを知らなければあなただってダメだ
尽きることなく噴出す泉の水は人の喉をやさしく潤すだろう
噴出す泉の水の量に価値をみるか、水の質に価値をみるかだ
噴出すのは人の命だと知ってたら質より量と言ってなかった

宮沢賢治は詩人であって多作に価値を置いたのではあるまい
賢治の作品は命だと知ったらああも賢治を粗忽者扱いしない
賢治の取り巻きに賢治の理解者は現れずファンばかりだった
ファンは命の水に育まれてこそ健康な詩人になれるのだから
何千万のファンの中から詩心を持つ次世代を育てるべきで
詩心を育てる使命を感じる取巻きは、オオ~イ、どこだあい?
このように如何な大人数が寄せ集まっても「人」がいなきゃ。

ともあれ無い物ねだりの根性は卑しいのには違いないらしい
それで人はどのように詩作を重ねるべきかと私なりに考える
いやいや、私などよりあなたが優秀なのは言うまでもない事
そんな私が言えることは賢治のように推敲を重ねるのが良い
「ヒドリ」の心をどう人々に伝えようか推敲に推敲を重ねて
推敲のさなかに前向きに倒れた賢治と理解したい私ではある
推敲を重ねる作業なら私にも出来る・出来る、もっともっと‥

秋‥「とき」と読みたいな。

雨ニモマケズ(7)

2014年09月22日 | 宮沢賢治-鑑賞
心奪われて囚われる人々
なまじっかな小才を利かせて大事を見ようとせず
賢治に唾する者に準じる結果は人を冒涜する必然
たとえ気づかずに崖を飛びおりても無事に済まない
居眠り運転で人を撥ねて気づかなかったで済まない
心を不当に奪った者をなじったところで何になろう

入沢康夫氏に遠因はあると証明したところでだ、
イーハトーブの責任を追究証明したところでだ、
真因は外にない道理にて、賞罰は必ず己ひとりの物
泣き言をいくら叫んだって己の責任は逃れられない
今は上手に立ち回っても必ず賞罰が追っ掛けてくる
徒に嘆かず ヌカ喜びせず 眼前の小利を追いかけず

売り子の笑顔より伴侶の膨れ面に価値があるように
あなたを想う人の心に真の高い価値があるのだから
賢治を唾棄する変な群れに混じって安心しないこと
彼らの群れは具合が悪ければいつでも隠れ逃げる側
ひとり賢治は具合が悪くてもヒドリに涙を流す人間
本質を見ないあなたなら必ず賢治に唾を吐きかける

ヒドリの重みをこう語って私の役目は終りにしたい
ヒドリの重い中身は賢治の詩が明らさまに証言する
静かにしずかに賢治と向かい合いで過す秋の夜には
あなたの心に直接・語りかける賢治かもしれないな
賢治は一人だったように結局はあなたも一人だから
誰かの援けを待つことなく戦っているあなただろう。

 しがらみをこゆればそこに高きそら 括絲子




雨ニモマケズ(6)

2014年09月21日 | 宮沢賢治-鑑賞
入沢康夫氏のフレーズ「茶色の文字」を次に載せておく
                 ↓
どんな物書きでも書き誤りはする。諸々の証拠に照らして誤りと判断できるものを、正しく校訂して本文にすることは、作者の意図を尊重する上で必要不可欠のことである。そうした本文校訂の責任は、きわめて重く、かつ多くの困難をともなうものであることを、読者も、編纂者も、出版社も、ここいらで再確認していただきたいと、つくづく思う。

>どんな物書きでも書き誤りはする

いやいや、私も書き誤りはするから入沢氏の言い分は解かる
それで入沢氏はこのフレーズの担保はどうするお積りなのか?
このフレーズで「宮沢賢治=粗忽者」のレッテルを貼るのか?
宮沢賢治は粗忽者だから…入沢氏はそれで何を言いたいのだ?
この乱暴な論法が日本の文学界では常識だと考えているのか?
この論法に異議が出ないなら日本の文壇では常識なのだろう

>どんな物書きでも書き誤りはする

入沢氏が述べたこのフレーズは入沢氏にこそ当てはまるだろ?
なにせ当人が「自分は書き誤りはする」と告白してるのだろ?
それとも氏は反省せず謙虚でなくナニを書いても許されるか?
それなら何故、この傲慢な人格をイーハトーブは崇めるのか?
日本中のファンクラブは無責任ゆえに何を言おうが無責任者
イーハトーブは宮沢賢治のファンクラブの総本山ではないか★

どんな物書きでも書き誤りすると述べたら担保を示すべきだ
科学的な態度は可能な限りの資料を用意して過ちを防ぐのだ
入沢氏は己の過ちを防ぐ資料を出して人々に示す責任を負う
これまでのところ、「賢治は間違った」の論調ばかりである
間違いというなら間違いの証拠を示さなければ無責任極まる
過去、入沢氏が出した証拠は「ヒドリ」で構わないのだから。

それにしても、
今日の賢治忌も素知らぬ顔で文学者は集って騒ぐのだろうか★

雨ニモマケズ(5)

2014年09月20日 | 宮沢賢治-鑑賞
ここで雨ニモマケズの部分を抜書きしてみましょう

   ヒドリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
   ミンナニデクノボートヨバレ


雨ニモマケズの詩は宮沢賢治の心境を詠ったとされる
それに私は反論するモノではないがそれだけだろうか?
上記に引用した部分は農民の姿そのものと思わないか?
自然災害に限らず全ての面で賢治は同苦する覚悟だろ?
農民の苦悩に思いを馳せ、共に悩むと決めた賢治だろ?

大概の自然災害ならば乗越える農民たちにちがいない
一軒だけの問題なら皆が助けることも出来る筈なんだ
では村の存亡に関わる大問題になったときはどうする?
単なる旱(ひでり)は何べんでも乗越えてきた農民だろ?
そのような追詰められた状況になった時どうするんだ?

景気がいい時は博打にウツツを抜かす法印もいたんだ
他所の不幸に援助してあげて太った親父もいただろう
これは他人ごとだなどと言ってられない吾が身の不幸
「雨ニモマケズ」を読むあなたには他人ごとだろうか
そのノンビリした他人ごと感覚では最早済まない状況

そのにっちもさっちもいかない状況になってしまった
あなたならどうする? 天を呪うか? 政治を呪うのか?
だれを呪っても仕方ないから農民は生きる算段をする
生きるのは正しいことだから、今は生きる算段が先だ
その最後の手段の日取りが来るのを待つ身だったかも?!

生きるのが正義でなければ日取りを待つのは悪事だよ
それほど究極の選択を迫られたってふうに私は考えた
農民たちが生きるのを認めるか認めないかの選択の時
農民たちが生きるのが正義なら選択肢も若干は広まる
生きるのを正義とみない人が多いのを私は知ってるが

賢治の思想は農民が生きるのを正義とするベクトルだ
その正義を堂々と叫ぶとき、日取りは善となる道理だ
賢治の友であれば私はその正義を叫ぶべきだと信じる
ファンは客であり、賢治の正義を叫ぶ義務を負わない
役者に涙し、悪役に怒り、賞罰の判決を下す客だもの!

私は客でなく役者でもなく賢治と同じ想いを語る詩人
こう想えない人は日取りの意味を曖昧に済ますだろう
ヒドリは「日取り」「日銭稼ぎ」どちらでも合うんだ
ただしそれは私の理解で賢治のヒドリに沿わしたのだ
どんな想いの日銭稼ぎか、その日がくるのも恐ろしい

そんなヒドリに推敲に推敲を重ねてもマダマダ足りぬ
そういった事のキーワードを入沢康夫氏の資料に観た
入沢氏もイーハトーブも私の観方とは違ったようだし
私の穿ちすぎでなければ彼らの観方が甘いことになり
彼らの観方が正しければ私の観方が考えすぎになるが、

いずれにしても口を閉ざして語らなければ勘ぐられる。

ところで今調べたところ、
入沢氏の件の原稿はイーハトーブで削除されている
入沢氏の「ヒデリ論」で正しいと言うなら残すべきだ
正しい論は残してこそ正義は堂々とまかり通るだろう
いやいや、削除は入沢氏を卑しめる振舞いでないのか?
ともあれ、賢治を粗忽者扱いした行為はどうなるのか?
(賢治は)「書き誤る傾向があった」と書いた事実は消えない。

ともあれ私なりに、
入沢氏の過去記事を探してここに載せたいとは思うが
見つかれば幸いだが‥事実は覆せないと知りたいもの。


次は明日の賢治忌を[ヒドリ]入りで詠んだものです

 日取りくる闇に暮るれば賢治の忌  括絲子




雨ニモマケズ(4)

2014年09月18日 | 宮沢賢治-鑑賞

同姓同名かハンドルネームかハタマタ本人か私には分らないが
「入沢康夫」名の記述(茶文字)を見つけたので載せておく
・「詩は感想や印象を述べたり、演説をしたりするためにあるのではない」というのが、以前からの私の実感。

面白く想ってここに紹介するのだが、このフレーズ、
言わんとする所は「これは詩ではない」との自己主張だな
確かに自己主張のとおりだが、それなら詩とはなんだろう?
詩を語る場としていなければ、これ以上の詮索は無用だな。


    ◇     ◇     ◇     ◇     ◇ 



件の入沢康夫氏は詩を語り合いたい訳でなくても構わない
詩人・宮沢賢治は私たちに詩を語りかけては待ちつづけた
詩人とはそういうモノであり、コピーライターとは異なる
コピーライターは売れてナンボの商品作りの職人だと思う
職人仕事に似たモノに教育があり、ニーズに合わせて作る

詩人は然にあらず、心のなかに湧いた対象への想いを綴る
己が子を元気づけようとして語りかける母の言葉は詩だろ?
危険な行為をする己が子を悲しみ漏らす声は詩になるだろ?
もちろんそれは己が子でなくて生徒でも友でも構わないが
詩人の心の発露に触れて、人間は素敵だと想う人は幸いだ

詩をつくるとき詩人は語りかけるように詠うのではないか?
判じ文を作って嬉しがっても通じなければ意味がないだろ?
想いを語りかけるなら相手に通じなければ意味がないだろ?
そりゃあ、一人で合点する分には誰に通じなくてもいいさ?
判じ文はクイズの遊び、だからってそれが悪いことはない

個人的にとか遊びで楽しむのは入沢康夫氏の勝手でしょう?
要は適切な資料を見つけることも科学者の才能なんだよね?
賢治が遺した膨大な量の詩・童話・情報の仕訳も大事だね?
氏は私がしなかった適切な資料を出して仕訳した有能な人
その資料なしに、私は賢治への冒涜を冒涜と言えなかった

氏が探しだした資料は「ヒドリ」を覆さない資料になった
つまり「ヒデリ」説の根拠のなさを証明したと言えそうだ
入沢康夫氏が挙げた資料を読めば誰でも真実が分かる筈だ
その資料を根拠に「ヒデリ説」にこだわるのはムリがある
私にはそう受取れる重要な資料‥これを科学的検証という

そして科学的検証の結果も矢張り「ヒデリ」が妥当なのか?
いやいや賢治がメモったように「ヒドリ」で十分となるか?
それをイーハトーブといい、ファンクラブといい、ナンデ?
どうしてあなたがたは自分で検証しようとしないのですか?
検証は入沢康夫氏に全て委ねてますなら、それは駄目だろ?

入沢氏が出した資料は厳然として残っているからね?
検証する気になればいつでも誰でも自由に検証できる筈だ
入沢氏が作った資料を入沢氏が再検証するのは当然であり
その資料を受けて賢治ファンクラブが検証するのも当然だ
入沢氏は持てる能力をフル稼働して検証するのはいいし、

それで氏に間違いがあっても非難する意味はない
科学は間違いを正しながら進歩していくモノなんだもの
入沢氏の功績は「素材の発見」にあると私は考えている。

すこしの日にちを置いて
件の素材をココで検証していきたいと思います。

明日19日は子規忌‥なにか句を詠めたら好いのだが。

雨ニモマケズ(3)

2014年09月18日 | 宮沢賢治-鑑賞
宮沢賢治は科学を愛した実践の詩人だ‥ナンノコッチャ?
科学の定義・詩人の定義にアナタは関心がおありだろうか?

賢治は花巻農学校で教鞭をとり、生徒に農業を教えていた
新しい時代に合う科学的・合理的な農業を生徒に教えてた
農業を科学的な営みにしなければならないと常に考えてた
ついには教鞭を捨てて農民とともに生きていこうとしてた
そして志半ばで倒れたのだが‥賢治は理解されていたのか?

科学的な感覚を農家に定着させなければならないと考えた
今なら誰でも科学の必要性を感じ・理解している積もりだ
それを実践したのが宮沢賢治だがその原動力は何だったか?
それは詩心だったと言えるが詩心は科学を生かす原動力だ
科学だけでも詩心だけでも人は元気元気で生きていけない

科学的発想がなければ賢治を護ることなんか出来はしない
詩心がなければ賢治を護ろうという情熱は生まれてこない
それでじっさい、賢治が冒涜されているとしたら大問題だ
だれも賢治の名誉を守ろうとする者がいなければ大問題だ
そして今、賢治は無能者扱いされている現実がある。

私には情熱はあるツモリでも情熱を支える科学力があるか?
科学力が不足するならどこかで借りて来なければならない
なあに、詩人でなくてもいい、詩人ならもっといい理屈だ
タイミング良く私の前に見えた影‥その正体は入沢康夫
入沢氏が詩人かどうか、会ったことがない私には分らない

ともあれ氏の科学性は承知しているから借りることにした
科学はそれだけでは役に立たないのは誰でも知っていよう
科学は与えられた素材を使って理論的に証明づける学問だ
科学の役割は正誤を理論づけることに尽きると私は考える
悲しいことに氏が出した素材を生かそうとする動きはない

科学を生かすも腐らすも、その役目は科学でなく心なのだ
善い心を詩心と私は考えているが詩心は詩人のなかにある
すなわち、入沢康夫氏の科学性を活用し生かすのが詩人だ
ところがこれまで入沢氏の蔭に隠れる関係者ばかりだった
数ある賢治のファンクラブは科学者の蔭に隠れようとした

私にはそう思われてならない
人間が科学に責任を負わせ、人間としての務めを忘れたら?
そのような主体者の姿勢で果して正しいと言えるだろうか?
主体者は人間であり、科学は人間に貢献する道具の筈だろ?
賢治ファンを名のる者が科学者入沢氏にオンブに抱っこか?

ということで、
次から入沢康夫氏の科学性に触れてまいりたい。

雨ニモマケズ(2)

2014年09月18日 | 宮沢賢治-鑑賞
賢治を取巻く環境をどう考えたらいいと思いますか?
詩人・宮沢賢治を取巻く人間関係の相関図でしょう?
なぜそう考えることになるか‥私には大事なんです
詩人でありたい私がゐるべき位置は当然重要になる
そんなこと知ったこっちゃねえって人はいるだろう
そうそう、そういう人も相関図に入っているのです
詩人・詩を取巻く相関図を具体的に観てみましょう

a)科学者‥なんのこっちゃと思いますか?
b)詩人‥私はこの詩人でありたいと願っています
c)評論家‥詩で飯を食う人は結構多いでしょうね
d)野次馬‥ここから明日の詩人も科学者も生れる

私は詩人でありたいが同時に科学の目を必要とする
科学の目を必要とするが優秀な科学の目は大丈夫か
もっともっと確かな目が得られたらそのほうがいい
賢治を・雨ニモマケズを正しく観るための科学の目
そう捉えたら正確な分析につながると思いませんか?

私は無責任な野次馬根性で賢治をネタにしたくない
私は金儲けとか売名目的で評論する積りは毛頭ない
私は正確な分析のうえに賢治を正しく詠いたいだけ
私はいつも詩人でありたいと願っている人なんです
あなたが詩人なら人間賛歌を詠いたいのではないか?

さて、私の目に代る科学の目‥どこに見つけようか?
私の科学の目としたのは入沢康夫氏なる人物でした
もちろん入沢康夫氏だけが科学者だとは言いません
私にとって代用可能だったのが入沢氏だったのです
氏の感性・感情は別にして科学の目には価値をみた

科学の目は真実に近づくのに必須のアイテムですね。

雨ニモマケズ(1)

2014年09月17日 | 宮沢賢治-鑑賞
思いついた言葉を並べて詩を作ろうと考える人はいる
俳句をつくるとき、詩をつくるとき、私なら推敲する
言葉を紡ぐことで佳い俳句になり・素敵な詩にもなる

それで宮沢賢治はどのようにして詩を作ったのだろう
宮沢賢治は言葉を選ぶとき悩んで悩んで悩んだと思う
どうしてそう思うかというと、私がそうだからだけど
それなら宮沢賢治も私と同じで悩んで悩んで悩むだろ?

高村智恵子の場合はどうなんだろう?
彼女はもしかして悩まなくても言葉が湧き出たのかな
「東京には空がない」もスラスラスイスイだったかも知れない
知恵子の夫・光太郎は悩むことはなかったと言えよう

賢治が悩んだ【雨ニモマケズ」をチョチョィチョイの手際よさ?
悩まない光太郎は賢治も悩まないと決めつけたと思う
考えも思慮もなしに賢治の悪い癖でヒドリにしたって
そう考えたとき縺れた糸がスルスルと解けた気がした

詩にどうしても使いたい言葉があったりするんだなあ
たとえば「影踏み」をどうしても使いたいことはある
無理やり使いたい訳でなく、その言葉が要るからだよ
それが賢治の場合は「ひどり」だったかも知れないし

フレーズを思いつくたびに「ひどり」を試みに入れて
入れてはみたがピッタリ来なければ置いておくだろう?
賢治には「ひどり」で苦しむ子女が観えたのだろうか
それは私の想像であり「有り得ない」かも知れないが

私の俳句作りではそんなことはしょっちゅうだからね
「影踏み」に代わる例えば「影鬼」とか色いろ考える
私は賢治のファンクラブではないが好い加減は嫌だな
まして私がファンなら賢治が冒涜されるのは許せない

未発表の未完成の「雨ニモマケズ」でナンデ冒涜する?
推敲中の帳面を勝手に引っぱりだしてナンデ冒涜する?
オッチョコチョイの賢治だと酷いことナンデ言えるか?
それは賢治を愛してない、賢治を食い物にする餓鬼だ

これはヒドリかヒデリか論ずる以前の常識の問題だろ?
賢治を知らなくてもこのぐらいのことは私なら言える
じっさい、賢治の暮らしぶりを私はちっとも知らない
私は詩を嗜む者として人に非道を働く無礼を許せない

賢治の「雨ニモマケズ手帳」はメモで発表作ではない
俳句を詠む私は賢治と同じ詩人なんだと自負している
高村光太郎に同調したり媚を売った者は恥じるべきだ
ファンでもない私に賢治ファンが叱咤されてどうする。

宮沢賢治を誇りをもって大事にしなきゃだめだろ?


雨ニモマケズ

2014年09月17日 | 宮沢賢治-鑑賞
嘘も100回言えば真実になるというが
嘘は嘘だ。一つの真実が嘘を暴くだろう

宮沢賢治のファンクラブは数多くあるが
誰かが真実の声を挙げて嘘を暴くべきだ
とうぜん、ファンクラブが為すと思った
だが真実の声は今もなお聞こえてこない
ファンクラブを差置き差し出がましいが
ツイッターで賢治擁護の烽火をあげたい
私の間違いはぜひ教えて戴けたら嬉しい
間違いが間違いのままでは、私は恥しい
ご覧になった方、よろしくお願いします

次は【雨にも負けず】の原文 (WIKI)
この原文中の「ヒドリ」が改変された
改変したのは高村光太郎(智恵子の夫)
改変の根拠は賢治は粗忽者で間違った
それで愚かな賢治の間違い説が定着した
ファンクラブで調べたら如何だろうか?
愚か者の賢治で誰もが納得したらしい
それとも異議を唱えた人はいるだろうか?


  アメニモマケズ

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多寳如來
南無妙法蓮華經
南無釋迦牟尼佛
南無淨行菩薩
南無安立行菩薩

宮沢賢治 (目次ページ)

2014年09月17日 | 宮沢賢治-鑑賞

アップの順番が前後になってしまったが
宮沢賢治シリーズの【目次】ページを作ることにした
初めの「雨ニモマケズ」にしても何ページかに及ぶし、
賢治の童話も予定してて、それなら目次がいるでしょ?


雨ニモマケズ
http://blog.goo.ne.jp/hitomikouhei/e/df0024f0dae83f834145fc096be62722

雨ニモマケズ(1)
http://blog.goo.ne.jp/hitomikouhei/e/eb870352d8277b5c6d62b8acce57597b

雨ニモマケズ(2)
http://blog.goo.ne.jp/hitomikouhei/e/61cfafd914b17518abd1a8ee99ec583a

雨ニモマケズ(3)
http://blog.goo.ne.jp/hitomikouhei/e/42d9a61cefcdfc3d96988a959624725a

雨ニモマケズ(4)
http://blog.goo.ne.jp/hitomikouhei/e/cffa7b8525c4c24efecc822b8a68886b

雨ニモマケズ(5)
http://blog.goo.ne.jp/hitomikouhei/e/ef7c6c289bcaca912147e92d0136c054

雨ニモマケズ(6)
http://blog.goo.ne.jp/hitomikouhei/e/5a69f08feddf7e4561bfbe2442bba140


風の又三郎

2014年09月14日 | 宮沢賢治-鑑賞
今、読んでる「風の又三郎」って、何なんだろう!?



又三郎を主人公にした短編の童話みたいにも見える、

だけど、又三郎は村の子どもたちが成長する過程の一ページ、

はるか遠い、幼い日々の子どもたちの思い出、



故郷に吹く風は、ともに遊んだ三郎の色をしてたんだ、

だぶだぶのズボン、赤い髪や靴、物怖じしない口調も好きだ、

なにより、やさしかったよ~、爽やかな風、三郎もね~

成長する過程で、子どもたちはいっぱいの出逢いをする、

出逢いは色いろの顔をしていて、この風は三郎の顔になる、

風だけじゃない、子どもたちに全ての想い出は宝石なんだ、



通り過ぎた日々の記憶のなか、風が吹けば三郎を想いだし、

三郎を語るときは、故郷に吹く風を想いだす、

それはいつでも宮澤賢治には甘酸っぱい記憶の一ページ 、



雨にも雪にも日照りにも…それぞれの顔が思い浮かぶ、

元気、悪戯、でも、乱暴じゃない、やさしく、折り目正しい 三郎、

これは常日頃の又三郎に感じていた賢治の想い、願い、祈り、



そしてこれは童話かも知れないけど、散文詩、

宮澤賢治の心情世界を謳った、温かな散文詩なんだろう、

散文詩がやさしくて美しいとき、童話の顔をするのかも知れない…

道べの粗朶に

2014年09月14日 | 宮沢賢治-鑑賞
道べの粗朶に   


     道べの粗朶に

     何かなし立ちよってさわり

     け白い風にふり向けば

     あちこち暗い家ぐねの杜と

     花咲いたまゝいちめん倒れ

     黒雲に映える雨の稲

     そっちはさっきするどく斜視し

     あるひは嘲けりことばを避けた

     陰気な幾十のなのに

     何がこんなにおろかしく

     私の胸を鳴らすのだらう

     今朝このみちをひとすじいだいたのぞみも消え

     いまはわづかに白くひらける東のそらも

     たゞそれだけのことであるのに

     なほもはげしく

     いかにも立派な根拠か何かありさうに

     胸の鳴るのはどうしてだらう

     野原のはてで荷馬車は小く

     ひとはほそぼそ尖ってけむる

                 
              

          尖って煙る


農学校を退職して一人暮しを始めたころの賢治の詩です。

化学肥料の営業に携わって・苦労していたのでしょうか。

近代的な農業の知識を誰よりも身に付けていた賢治です。



農学校で教えてきた賢治には近代農法の合理性が解かる。

その眼は天与の科学者の物かも知れず、天眼かも知れぬ。

適切なアドバイスで収量は上がり・農民に感謝もされる。



今朝、村に入る道々では近代農業の勝利を想像した賢治。

倒れた稲が一帯の田を覆うを観ても賢治に勝算は有った。

対処指導を正しくすることで稲作の未来は明るい筈です。



ともあれ、改革すべきに気付かなければ近代化は進まぬ。

改革には資金が要るし、けれど成功したら未来は開ける。

臆して改革に躊躇し、現状に甘んじる人は多いでしょう。



己の知恵を信じる賢治は胸を張って農業指導に取組んだ。

そんな賢治に余所余所しい風が吹くとしたら何故だろう。

農民でない私の想像の及ぶ所ではないが、賢治には解る。



賢治は理解を求めて、持てる専門知識を伝えたのだろう。

教えることに掛けては、農学校の経験が役立っただろう。

しかも賢治の知識は大きな稔りとなって返ってくるのだ。



だが、賢治のその天与の才も信じて求める人の役に立つ。

その村人は賢治の才能に見向きもしなかったのだろうか。

それで、村の農家は代々のやり方に固執したのだろうか。



屋敷林を構える家々の村人の生活状況は分らないけれど、

賢治か村人か、いずれに原因があるかは分らないけれど、

賢治を受入れずに賢治の知識も才能も役立つことはない。



賢治の佳い方策も村人に使われてこそ・役に立つのです。

よだかの星

2014年09月14日 | 宮沢賢治-鑑賞
よだかの星★~*
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473.html


私が「よだかの星」についての皆さんの感想を読んで感じたのは、

よだかを否定的に受け留めた人が多いのではないかという事です。

その否定的な部分は、私も感じない訳ではなかったのですけれど、

よだかが愚かな集団を抜けるしかなかったのなら、それは仕方ない。

そんな事より、前向きに倒れて息絶えるなら、立派な生き方です。

よだかが諦めず・チャンスを求めつづけた所に私は共感を覚えます。



よだかは賢治ワールドに住む鳥ですが、鳥の仲間内では格下です。

誰もマトモに口を利かず、子供の鳥までが馬鹿にする始末です。

よだかの前では、美しくもない鳥までが美人ぶっています。

愚かで・腑抜けの仲間たちは、強い者の前ではビクついている。

よだかに対しては、弱虫の臆病者の鳥までが強がって見せます。

もっとも、そんな鳥に大した者はいないのは分っていますけれど…。

そんな姑息な鳥たちですが、よだかには大切な仲間なんですね。

いじめられ、悪口を言われても、よだかは仲間を大切にしている。



よだか相手に威張るなんて、ほんとに強い者はしないものです。

どういうワケか、鷹が来て、よだかにイチャモンをつけるのです。

賢治ワールドの鷹は三下のパシリなんでしょうか…

そのパシリの鷹が改名をせまります…よだかは困ってしまいます。

それが歌舞伎役者みたいな素敵な名前『市蔵』ですよ。

私だったら『市蔵』でも『市川雷蔵』でも引受けるのですけど…。

よだかにはそんなパフォーマンスが出来るわけがありません。

けど、三下の鷹の言うことを聞かなければ殺されてしまいます。



それで、可哀そうなよだかは悩んで鳥の世界から抜けるのです。

愚かな鳥の仲間を抜けるのですから、喜んだら良いのです。

マトモに会話もできないような愚か者集団じゃないですか。

強い者の顔色うかがい・ご機嫌うかがいするのは一向に構わない。

腰抜けのくせに、弱い者には強がってみせる恥さらしな鳥たち。

よだかは腰抜け集団と決別する方向に飛び続けるのです。

飛んで飛んで飛んで、その後はどうなったのかなあ…

可哀そうなよだかだもの、頑張ったんだもの…、

だから、よだかには御褒美をあげてほしい。

せめて、空で輝く星にしてあげてほしい。

賢治の想いと、私の想いと、おんなじです。

告別

2014年09月14日 | 宮沢賢治-鑑賞
ポチっとな(原文) ⇒ 告別
http://www.ihatov.cc/haru_2/191_d.htm


あなたが昨日の賢治を知り尽していたと言っても

今日の賢治を知り尽していることになるだろうか

賢治は昨日に告別し、時空を超えて今日へ旅した

賢治は自他共の進化を希みつつ生きたのでしょう

あなただって昨日のままに留まっててはいけない



草葉が微風に揺れるように無理なく呼応する関係

そんな美しい関係にある時空は自然の贈り物かも

他意なく作意なく意識せず流れる馥郁たる旋律を

自在にする者は多過ぎもせず・少な過ぎもしない

それは妙なる天の采配に由るからと感じています



もっと云えば、必要ならば人は天の仕事を果たす

辛く苦しい役も、甘く楽しい役もあるに違いない

ある人は無用の用として才能を削り仕舞うだろう

ある人は才能を磨き輝かせて人を喜ばせるだろう

またある人は己のために才能を飾り立てるだろう



人は誰でも、ゆえに、昨日から今日へと進化する

今日から明日へと進化して・流転の楽しみを知る

新たな一歩を恐れる者には暗く険しい一歩だろう

勇敢な者にはドキドキワクワクの冒険のスタート

幼子を背負いし人には勇気が湧き・知力が湧こう



私を信じる者は勇敢に知力をつけて冒険を始める

私を信じない者は暗闇を恐れて泣き伏すのだろう

私を信じる時、人は人を信じ・人の底力を信じる

私を信じずに、人は誰を信じたら良いのだろうか

鳥は鳥を信じずとも、人は人を信じて進化できる



仕事が出来るのを鼻にかける奴は嫌いと言ったり

お前なんかもう知らぬと言いつつ、手を差し出す

そんなお人好しのよだかのような賢治にも思える

荒れ地に草刈る人がいて、そこには歌が生れるし

悲痛辛苦を知れば人に温かい賢治になれるのです



三連音を世界中に響かせる人ばかりでは騒々しい

たった一人のために奏でる三連音も必要なのです

そんな賢治の三連音まで澄ました耳に聴こえ来て

そんな賢治の汗の匂いや味がして、温もっている

賢治の理解者も良いけれど ファンも良いけれど



ちからのかぎり そらいっぱいの 

光でできたパイプオルガン

それは仲間と楽しむ目的だけど、



ひとりぼっちで泣いている よだかのためにも

聴かせてあげたいと思っているのではないかなぁ

グランド電柱

2014年09月14日 | 宮沢賢治-鑑賞

ポチッと原文 ⇒ グランド電柱
http://www.ihatov.cc/haru_1/036_d.htm


あめと雲とが地面に垂れ

すすきの赤い穂も洗はれ

野原はすがすがしくなつたので

花巻(はなまき)グランド電柱(でんちゆう)の

百の碍子(がいし)にあつまる雀


掠奪のために田にはいり

うるうるうるうると飛び

雲と雨とのひかりのなかを

すばやく花巻大三叉路(はなまきだいさんさろ)の

百の碍子にもどる雀     (宮澤賢治)






大地はだれの所有でしょうか

雨は・雲は・すすきの赤い穂は

自然の一切の所有は誰に在るのか



大地と生き物を吾が物にしようとして

野原を人は囲い・田畑とし・畝を作った

そしてかつて掠奪したあの稲の種を播く



所有を人に認めた雀はいないのだから

人の言いなりになる雀はいない道理で

元来の所有者に遵うのみの雀なのです



権利を謳う雀に人はいつも悩まされる

それなら自然はだれの所有でしょうか

結局、人は神の存在に気づくしかない