daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

トライ(5)

2014年10月06日 | 詩篇
                 

長編詩篇として旧約聖書と仏教経典を挙げても新約聖書は挙げない。新約は神が著わした神の詩、言うまでもなく神の詩は最上、人はいじってならず、人の都合で解釈が変ってはならず、信徒は殉じるのみ。人の意思が介入する余地はなく、況して人の意志に於いてをや。旧約と仏教経典は然にあらず、人の介入を善しとするのではないか?

詩の意味を曖昧にすると劣化する。人は詩に意志をこめる。意志の力を信じて詩作するのは詩人。新約の唯一神に意志が必要だろうか? 眠っていても世界を見とおす唯一神は鼻歌雑じりの意思で成らぬことはなく、人の介入はキリスト限りとしたじゃないか?その唯一神を我ら詩人と同列において詩篇を論じるのは不合理。

ここは唯一神を交えず神棚に置いておいて人だけで論じる場と位置づけるべし。論じるなら嬉しそうにのこのこシャシャリでた何ものか権威が厳かに宣う場とせず、同列の人と人が触発しあう場として切磋琢磨するを善しとする。人が語る旧約と仏教経典はゆえに詩篇と見なされてよく、この場への参加の資格が認められ許されてよい。

それで詩篇に載せるべきは詩に限られるべきだろうか? 詩篇というからは詩にかぎるべし、治するときの名を薬草、害するときの名を毒薬といい、ナマのままの生薬に似て、詩篇に採用されるときは如何な言葉も詩も手をかけるべし。薬といい言葉というも使いかたを誤っては人を害する。詩はナマと云えて人を害すると心得るべきものか。

ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋

例えば毒とも薬ともなるナマの句。生薬‥散・丸・湯、干・焼・炒・煎など、心込めて加工して良薬となるも使用法を過ちて薬も毒に変わるから無責任に放っておいてはいけなくて、心ない者が悪用して苦しむ人がでる道理、ここで良薬とも猛毒ともなる注意書き・道標を立てておこう。

有季定型歴史かな遣いの俳人には、あをいろ(青色)は天皇の日常着の色と指定されていて誰でも着用できなかったと理解できる。散る桜は権力(天皇)になびく者と書けばこれは天皇の侮辱だ。なびく者を嘲笑している。なびいた末に散り散りになった愚か者たちは民衆であり、この句は民衆への誹謗か警鐘か? 警鐘は気づくように知らせるものであり、それならこれは誹謗でしょう。命を散らし、仲間を散り散りにされたなら愚か者。

はたしてこの句を詠んで民衆の称賛を得る結果になったのならキャッチコピーの役目を十分に果たしたことになる。わたしはそうでなく真実を明かす人間派の詩人でありたいという一心で歩みたい。いかが?


(余談‥韓ドラ「サムセン」はオモシロイです、サムセンのサムは朝鮮人参の意)

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トライ(4)

2014年10月06日 | 詩篇
               

詩形には叙事詩・抒情詩・叙景詩などもあって、だがこれ等とて詩篇の部分に成り得ても詩篇に取って換われる訳はなく、すなわち私のなかで重要な意味を持つ位置にはない。全体観に立って詠う詩篇を更に超越する形態が現れたときは当然優れたものにスタンスを移すべきであり、だが今は詩篇(全体観)のなかで格別優れた形を探るのが現実的な選択肢だろう。

手初めは詩篇同士の比較の基準になるべき私の詩篇のレベル・大きさを観よう。私の詩篇の出来ばえは私の能力に依るものであって私の能力を上まわる物でなく、また私の能力を下回る物でもない。私の能力は一往時間的にも空間的にも有限の範囲に及ぶ微々たるものと云うべきだが、よくよく鑑みるにそうとばかり強ちに決めつけられない。

そしてそれが真実ならば私の能力と他者の能力をどう比較すべきだろうか? 強いて差別してもそれは能力以外の部分で比較した結果に依るゆえに正確な判断は期待できないことになる。平等・公平にしようにも人事であれば平等・公平を期することはそもそも不可能であって、正確性を追究する意気込みは尊重しても真実性はなくて、結局現実的になるしかない。

なるほど、人間の才能は無限であると証明できないまでも無限なのではないかという期待感を持てそうにも想える。それほど素晴しい人間であればどのような実績があるか大いに興味が湧くが、その例として私には二つの長編詩篇がすでに提示されているように思われる。すなわち旧約聖書と仏教経典の東西の知性が著わした詩篇を挙げることになる。



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トライ(3)

2014年10月05日 | 詩篇
             

詩篇「トライ」はわたしが目指す詩篇のなかの部分・導入部・迷わず対処できるように置く案内板、だからといって文書に限ったものでなく、もちろん文書も含まれて一向に不都合なく、DVDであっても小説であっても俳句であっても差し障りなく、それどころかあなたとの応答もまた含まれていいのは言うまでもないこと。

私が目指す詩篇は永久の歴史から観るときは芥子粒のサイズに満たない無きに等しいもので実に、人間の存在そのものを無意味に感じ否定したい反価値の思想・深淵に迷いこみ嘆く人は無数にいるけれどそうでなく、気が遠くなる広さの宇宙を納める私たち一人一人と知り、謙虚を知って、詩篇の奥底の珠を掴む旅に発てたらいいなあ‥です。

宇宙はいくら大きくても大きすぎることはなく、わたしはいくら小さくても小さすぎることもなく、それだけわたしの冒険の旅は無限に叶えられる悦びであれば、それだけあなたが初っ端から恐れをいだくことは十分に考えられることであり、冒険の途中の闇に迷ったり誘惑にのせられて断末魔にあえぐかも知れないと幾ら想像しても想像しすぎることはない筈。

わたしのイントロを横目に「おれはもっと凄いぞ」のあなたが居ていいし、もっともっと凄い無数のあなたがいるなら私の宇宙はこんなものでなく、あなたもあなたもあなたも‥皆の宇宙を併せた広がりを実に持つと知ればこれに優る悦びはないのは言わずもがな。だったらやっぱり旅立ちの準備は周到にしておくに如くはなく即ち・私の詩篇は訓練施設かなあ。

いやいや、せっかくお越しいただい方々のためになれるよう、こうして僅かの智恵を絞っているのはお分かりになられたと思います。一所懸命に取組むとき脇目をふる余裕があらばこそ余計なお世話をせんとて要らぬ気をつかってしまうことは考えられても余裕がなければ真っ直ぐに取組むしかない道理だからそれへの対処はたやすいのではありませんか?

ダラダラと述べてきても始まりと終りは終始一貫してなければならない。話の筋道は矛盾なくスッキリ通っていなければ必ずどこかで行き詰り・息詰まって窒息をおこせば穏やかでいられなく悩みや苦痛は早々に露わになり憎みあい罵りあい傷つけあう事態は私たち人類の歴史が身を以って証明してきたから、矛盾なくの道標を立ててこの自習も終ります。

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トライ(2)

2014年10月05日 | 詩篇
             

わたしが散文詩を意識した初めはボードレールだった。そして今ここにわたしの最初の詩を書き始めるにあたって思うことがある、それは短く仕上げることで主張の星をしっかり押さえておけて、また綴った内容は掌にあって掴んでおける、つまり短編詩は書き手から勝手に放れてあらぬ方向へ暴走することはないと記して、一番目の道標としたい。

散文詩の何たるかを展開する知識は今の私にも具わってなく、ただボードレールの小説か詩だか分らないアレを世間の人は散文詩と呼ぶ。アレは何人かが日本語に翻訳しているのでそれに依るつもりだったが、どの翻訳物も読むのが苦痛になったのはどうしたことか。二番目の道標として読みやすくないのは駄目だとしておく。

ボードレールはわたしの散文詩の切っ掛けになったがアレを詩と位置づけるのに戸惑いを覚えて、結果的にも読むつづける作業から遠ざかって数年間のブランクが空いたが、今はこうして詩篇なら書きたいと想うわたしがいる。例えば「パリの憂愁」は詩篇だというかも知れないが散文は部分観、詩篇は全体観だよね。全体観に比べて部分観はセコくない?

詩篇論で道標が大事なのはお分りだろう、読者を過たず導かずして詩篇の目的は達せられない。目的が曖昧だったり隠されたとしたら、つまりなんのためにそんな工作をするのか? 面白くすることで人気を得る‥つまり面白い目的・人気目的の文章は集客目的のキャッチコピーという分野に入るだろうな。詩篇は目的観が大事‥これが三つ目の道標かな。

それにしてもこの文章で道標に沿った内容になっているか‥アセ



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トライ(1)

2014年10月02日 | 詩篇
               


身腐って貝腐らん稲とも言えず

   (みくさってかいくさらんいねともいえず)

私はこれを俳句と言えなくて「詩篇カテ」でアップする
というか詩篇のブロックの五七五なら意味もあると思われて、
子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の意味も同様に生れる。
俳句というには無理があっても詩篇なら無理はない訳です。

私はこれで詩篇のことをひとつ学ぶことができたようです。


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