「みんなの年金」公的年金と企業年金の総合年金カウンセリング!                 

このブログ内検索や記事一覧、カテゴリ-等でお楽しみください! すると、あなたの人生が変わります。

人様のお金-厚生年金基金は何になるのか No.29

2010年10月04日 | 厚生年金基金
(3)ビジョンのメッセージ

①行政と企業への第三の目

厚生年金基金制度は、その生い立ちにおいて、国の社会保障制度の一端を民間活力の活用で担うのと企業退職金の合理化の促進との<調整>を果たすというビジョンのもとにスタートしました。

しかし、30年余経過して双方ともストックの積み上げという果実は得たものの自らの初志の貫徹は、ビッグバン等の外部勢力(規制緩和や退職給付債務会計等)により末達成に終わらされています。この間、設立された1850余の基金は30年余行政と企業の間に立たされ、双方からの統制的統治の影響を全面的に受けながら双方の<自分たちの金>扱いによる使い勝手に翻弄されてきました。そもそも基金は双方のニーズによって組成されたものであって、<人様のお金>をバックに基金自らが自己主張を始めるというのは想定外のことであったでしょう。

だが、幸いなことに行政と企業をその特殊な基金の立場から第三者的に見ることだけは可能でした。そこに、行政と企業を見据える渦中にあらざる者の第三の目としての基金が存在し得たのです。この第三の目で行政の裁量の実態(例えば、透明性を遺棄しましたブラックボックスの横行等)も企業の剽窃の実態(例えば、株式持ち合い等による本来の株主権の収奪等)も観察することが出来たのですし、それらが実は官民の統制思考で構造化されていることも明察出来たのです。


②官民の統制思考

その意味では、日本経済のバブル崩壊に伴う10年に及ぶ長期低落経済の真因は、戦前・戦後を通じて行われてきた官民の統制思考が暗礁に乗り上げ身動きできない状態になりましたことにあるのでしょう。また、インモラルの極みである現代日本の倫理欠落も、この統制思考が社会全体に被いかぶさり、ただただ<上からの指令>を待つだけの自己放棄型人間、自分で考えることを放棄した者の他者依存を蔓延させてきた結果でしょう。官民共に、国民と従業員を統制統治のファッシズムで抑え込んできたのです。経済復興と会社主義の大義名分が理念として先走り、官民に充満するパターナリズム(家父長主義のお節介)が人間性の尊重を事後のこととして弾圧してきたのです。


③<人様のお金>のパワー

積み上がりましたストックが実は<人様のお金>であったということは上述してきましたとおりですが、ここにきて<人様のお金>自が自己主張を始めてきているのです。その一環が基金自身による自己主張としての「年金基金」です。

 このことは、今一つの国民のストック、厚生年金等にも言えることです。「小さな政府」の要請は日本の現在のニーズです。

現代日本の経路の一つとしての「年金基金」、強いて言えば、PKO集団・低ROE・統制官僚等の日本経済の負の遺産を退場に追い込む「年金基金」は、自己主張する「年金基金」、つまり社会改革推進勢力としての「年金基金」であり、投資家として効率市場形成を促す「年金基金」、そして、日本の資産運用文化創設のフロントランナーとしての「年金基金」です。 発言する「年金基金」にして始めて確定給付型年金の存在価値が生まれるのです。つまり、集合資産としての確定給付年金の意味は、<人様のお金>として日本の経済・社会の仕組みを再構築させるインセンティブを生み出すというところにあるのでしょう。そこに「年金基金」特有のミッション(使命)があるということであります。

 この「年金基金」のミッション達成のために、行政も企業も業者も奉仕を強制されるようになってきているのです。<自分たちの金>から<人様のお金>に逆転したことで、彼らの恣意は許されざることになったのです。


④個の覚醒・イニシアチブの奪取

<人様のお金>のパワーがもっとも発揮される場面は、当事者である年金基金と加入員等自らの主張を発言するところにあるのでしょう。付与されたもので構成するのではなく、自らが作り出すのです。統制統治を拒絶して自から考え始めるのです。自分の欲求・希望を鮮明に主張するということ、それが個の覚醒、イニシアチブの奪取を可能にさせるのです。このことは、国民レベル、加入員等レベル、更に「年金基金」レベルにも言えることであります。


⑤哲学の始まり

現代日本の社会・経済構造の論理・文脈は明らかになりました。後は、<人様のお金>のドメスティックなパワーによって人々は自分で考えるというイニシアチブを確保し、パターナリズムをうるさいと拒絶し、「自分の人生は自分で決める」という行動を起すことになるでありましょう。つまり本来の哲学がこの日本で初めて始まり、事は切磋琢磨な試行錯誤の末に「決まる」ことになるでありましょう。


今はただ、笑而不答。
笑而不答。













最新の画像もっと見る

コメントを投稿