私事ながら年金カウンセラ-のプライべ-トをご覧いただけたら幸いです。
目 次
一 生い立ち
二 卒業論文
三 引用
四 「述語は永遠に……」
五 『情緒の力業』
六 書評
七 「述語は永遠に……」電子化
おわりに
そもそもなどと大げさなことではないが、少々由来などについてまとめておくのも一興かもしれない。
一 生い立ち
❶ 千葉市栄町
昭和二〇年七月千葉市市街地は米軍のB29による焼夷弾などによる空襲で焼き野原と化した。
銀行勤めをしていた父の栄町にあった家も燃え尽きた。
房総本線が不通になり、異母兄が四歳の私を背負い、父は桐箪笥を、母が弟を背負い、父の実家へ徒歩で疎開した。
❷ 桐作
父の実家は千葉県香取市桐谷の木内家で、一家五人で居候することになった。
一〇代も続く旧家で、箱膳で食事をする部屋は薄暗いのが新鮮であった。
五百坪ぐらいの屋敷で、隠居屋と馬小屋が物珍しかった。
❸ 香取飛行場
私が小学校に上がる前、香取飛行場の南面の松林の中に、父が実家から材木をもらって二階屋を建てた。
遊び場は飛行場の滑走路であり、草ぼうぼうの格納庫や墜落した飛行機の残骸や乗り捨てられた戦車であった。
朝日がまぶしい土手に山羊やウサギの餌やりのため連れ出した少年時代であった。
❹ 豊畑中学校
貧困の極みの中学時代であったが、野球だけが楽しみであった。
父はパンを焼いて自転車で売り歩いた。かりんとう、おこし、ばくだんと作り続けた。
進学は出来ない経済状態であつたので、進路は自分で考えるしかなかった。
❺ 自由ケ丘
母の紹介で、自由ケ丘のいとこの嫁ぎ先、川口模型店の住込み店員となった。
夜は、新宿淀橋の夜間高校電気科で四年間学んだ。
卒業時、電信柱のセミの仕事しかなく、下野することになった。
❻ 彷徨
食うためのアルバイト仕事を転々として右に左に走り回り、新宿駅のベンチで項垂れていた。
田舎には帰れず、職はなく、目標が定まらず、悶々としていた青春であった。
そんな中で、哲学を志すことになった。
二 卒業論文
執筆期間:昭和四十一年十月~昭和四十二年一月(二十四歳から二十五歳)
文学部哲学科 高野 義博
指導教授主査 飯島教授
指導教授副査 園田教授
目 次
第一章 序に変えて私の状況の非学問的回想
第二章 『哲学』の構造連関
一 まえがき
二 本論
1 哲学への序説
(1)存在の探求
(2)可能的実存にもとづく哲学するはたらき
(3)分節化の原理としての超越するはたらきの諸様態
(4)哲学するはたらきの諸領域の概観
2 哲学的世界定位
(1)世界論
(2)科学批判
(イ)世界定位の諸限界
(ロ)完結的世界定位
(3)哲学論
3 実存開明
(1)実存について
(2)交わりと歴史性の内なる私自身
(イ)自我自身
(ロ)交わり
(ハ)歴史性
(3)自由としての自己存在
(イ)意志
(ロ)自由
(4)状況・意識・行為の内なる無制約性としての実存
(イ)限界状況
(ロ)絶対的意識
(ハ)無制約的行為
(5)主観性と客観性とにおける実存
4 形而上学
(1)形式的超越
(イ)対照的なるもの一般の諸範疇における超越
(ロ)現実の諸範疇における超越
(ハ)自由の諸範疇における超越
(2)超越者への実存的諸関係
(3)暗号文字の解読
(イ)暗号の本質
(ロ)諸々の暗号の世界
(ハ)暗号文字の思弁的解読
(ニ)超越者の決定的暗号としての現存在と実存の消滅(難破における存在)
a実際の難破の多様な意味
b難破と永遠化
c実現と非実現
d難破の必然性の解義
e難破における存在の暗号
第三章 展開的考察
第四章 ヤスパースの『哲学』に対する私の態度
参考資料
一 ヤスパースの著作
二 関係著作
三 雑誌
四 その他
第一章 序に変えて私の状況の非学問的回想
「そもそも《哲学すること》が始まって以来、いつでも確実性の獲得が試みられてきたのである。」(注1)
ここに言う《哲学すること》は過去の哲学史の中にもあるし、哲学史に現われでない所の非学的な段階での人間性の持つ本質的な行為でもある。この行為の経験は人様々であって、幼児・少年期にもありえるのである。それは「僕はいつも、僕は他の人と同じ者であるんじゃないだろうかと考えてみるんだが、しかしやはりついに僕は僕なんだ」……(注2)という驚きであり、「初めの前には一体何があったのか」(注3)というような問いであったり、
「世界内のある事物が問題なのか、それとも存在と私共の現存在との全体が問題なのか」(注4)というような問いの相違の理解であったり、あるいは又「万物が必滅無常である」(注5)ということに対する驚きと怖れであったりするのである。
このような《哲学すること》が人間にとって根源的であるという事実は見逃すわけにはいかないことである。
そしてこの《哲学すること》の根源にある「驚きから問いと認識が生まれ、認識されたものに対する疑いから批判的吟味と明晰な確実性が生まれ、人間が受けた衝撃的動揺と自己喪失の意識から自己自身に対する問いが生まれる」(注6)のである。
驚愕・恐怖・疑問の中におかれた人間は必然的に《哲学すること》を始め、問いの究極的安心を求めるのである。
つまり《哲学すること》は《哲学すること》によって《哲学すること》を拒否する行為なのであり、それは「確実性の獲得」をもって成就されるのである。
このような確実性の獲得の要求が私に如何にして起きてきたか、あるいはそれがどのような色合いの下に、どのようなニュアンスの上に成立してきたか、そのような成立事情を訪ねて、以下に私の過去を概略してみよう。
ここでは過去そのものの内容を知ることが目的ではなく、(といっても、それは把握出来ぬものではあろうが)過去においてそれらの問題がいかなる状態、いかなる感じを持っていたかが重要なのであり、単なる背景としてのみ必要なのである。このような要請から、この概略は多分に私の主観的なものであり、多分に文学的修辞であり、明晰さは皆無であろう。それらは、ただ私にとってのみ重要な事柄である。
ある事件が十三才の時、校庭で起きた。
秋始めのある晴れた日、私は昼食後の満腹感で校庭を歩きはじめた。他の中学生達は既に校庭で遊んでいた。すると急に、風の音と彼らの遊び声が、ボリュームを落とし、あたりが静まり、私は白いワイシャツが風に揺れているさまを見続けていた。
それは風の強い日の旗のように、バタバタと音をたてていた。その衣服の白さとバタバタという音だけに、私の意識は集中した。その時、ひどい孤独と共に私は叫んだ。―ああ! 彼らも人間だ、と。
その白さ、バタバタという音は、私の意識に、他人としてそこに「ある」という感じを、叩きつけた。
その色と音とは今も私の中にある。しかし、他人はそこに「ある」のであるが、それがどのように私に関係しているのか、どういう具合にしてそれはあるのか……等という疑問符をつけられたままの形で、存在している。
その時から、私にとって他人は一つの謎のままである。
私に立ち向かってくるもの、対象、私以外のもの、客観存在、それらが問題として誕生したのである。
しかし、この謎の発生する因となった「白いワイシャツ」の経験は二十二歳頃まで、忘れられていた。偶然目に触れた次の文章が、私に先の経験を想起させたのである。
「彼はあたりを見まわした。すると自分自身の他に何ひとつ見えなかった。そこで彼は始めて叫んだ。―私がいる! と。……それから彼は不安になった。ひとりきりでいると不安になるからだ。」 ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド (注7)
この新たな経験が私を仏教、それも禅へ目を向かわせたと同時に、実存哲学へ(というのもこれがボヘンスキーの『現代のヨーロッパ哲学』という書物の実存哲学の部の初めに象徴的に引用されていたからである)向かわせた一要素であった。
この経験による主観・客観の分裂の図式は、私に様々な事をなした。時々刻々の時間の重さであり、あるいは、対象のつまり世界の重さであり、「私が押し潰される」という感じであり、その時には、私はどこへ行っても呼吸困難のような息苦しさを感じ、対象物のあるところに、極度の恐怖と苛立ちを感じた。
ある時には、それらの苦悩がヒステリックになり、「苦悩こそただ一の高貴」(注8)という感じを持ったりしたのである。
高校生活も終わって、私は一つの懐疑に取り付かれていた。高校では電気に関する初歩的な知識を学んだわけであるが、それは客観性の要求ということであった。
万事万象が客観性によって見られ、客観性に乏しいものは、極度の嫌悪を持って退けられた。諸々の権威や伝来の道徳、あるいは政治、……それらのものが客観性の目、つまり合理性の目によって見られ、私の眼光はそれらのものを突き破った。
しかもその合理性は私の主観に対しても、向かったのであるが、私の主観の内には、客観性によっては把握しえぬものが、つまり「特殊なるもの」が残ってしまった。
一般性と特殊性の対立が現れはじめたのである。
一般的なものとしての科学的なものや、諸々の権威、および伝来の道徳が私に向かってくる場合、私の内なる一般的なものはそれを肯定するのであるが、私の特殊的なものが、それに対して叫びを発するのであった。一般的なものが、私を圧しつぶすという感じであり、息苦しくて、自由が感じられなかった。
一挙手一投足が、それら一般的なものの絶対的命令としてmustで立ち向かってくるのであった。そのmustが私を規制し、見張りを付けられたかのように私は私の行為に、のびやかさがないことを発見したのでもある。
【以下略】
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