結局、朝廷は徳川との和平に舵を切り、江戸の薩摩藩邸で官軍の西郷隆盛と幕府の勝海舟とが会見し、総攻撃予定日の前日に無血開城が決まった
和宮と天璋院とは城明け渡しの数日前まで留まって、経緯を見守った
それから、城を出てよそに身を寄せた
徳川慶喜は命を救われて駿府で謹慎し、跡を継ぐ徳川家達(さと)少年を和宮は援助した
彼女は江戸の清水邸に住み、明治2年にようやく京都へ帰ると、甥である明治天皇と対面し、それから念願であった父の仁孝天皇陵に参拝した
顔も知らない父であるが、大命を終えてほっとしたであろう
又、亡き兄孝明天皇に対しても、攘夷はできぬまでも、なんとか和平につなげて申し訳が立ったかもしれない
…その後5年間彼女は京都の聖護院に住んだが、都も東京に移ったことであり、周囲の勧めもあって再び東京へ戻った
…麻布の屋敷で彼女は皇族や天璋院など徳川家や、親しい人々と交流した